幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る
渡辺篤(わたなべ あつし)は、京都見廻組の剣客で、晩年に「近江屋で坂本龍馬を斬ったのは自分たちだった」と書き残した人です。その記録は、大正4年(1915年)に本人が亡くなったあと新聞で報じられ、大きな話題になりました。
同じ見廻組の今井信郎の供述とは食い違う点も多く、どちらがどこまで正しいのか、今も決着はついていません。身分、幕末の歩み、立場の変化、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。
渡辺篤とは—先に答え
| 身分 | 京都・二条の御門番組の与力、渡辺時之進の長男。京都の生まれ |
|---|---|
| 生没 | 天保14年(1844年)12月18日〜大正4年(1915年)1月6日。享年73(数え) |
| 名前 | 初名は一郎。事件のころの史料には「渡辺鱗三郎」の名も。慶応4年ごろ「篤」と改名 |
| 幕末に何をした | 西岡是心流の剣で将軍の上覧試合に出場。慶応3年に京都見廻組に入り、近江屋事件に加わったとされる |
| 立場の変化 | 御門番組→京都文武場の剣術世話心得→見廻組の肝煎。明治は奈良県の警察、京都で撃剣教師 |
| 事件 | 近江屋事件(慶応3年11月15日)、鳥羽伏見の戦い |
| 最期 | 大正4年1月6日に死去。墓は京都の教善寺とされる |
京都の御門番組の家に生まれる
渡辺篤は天保14年(1844年)、京都・二条の御門番組の与力、渡辺時之進の長男として生まれました。幕府が京都に置いた役人の家で、江戸から来た旗本ではなく、京都に根を下ろした家です。安政4年(1857年)に御門番組の見習いとなり、円明流と西岡是心流の剣を学びました。西岡是心流では大野応之助に学んで18歳で免許を得て、道場「有心館」の四天王の一人に数えられたといいます。砲術・槍術・弓術・馬術も修め、儒学者の岩垣月洲に学問を学びました。
幕末に何をしたのか—上覧試合から見廻組へ
将軍の上覧試合
元治元年(1864年)、京都に来ていた将軍・徳川家茂の前で行われた剣術試合に出場し、白銀5枚を賜りました。同じ年の禁門の変では二条城の警備にあたり、9月には京都文武場の剣術世話心得となります。
京都見廻組に入る
慶応3年(1867年)2月、京都見廻組に編入されました。見廻組は旗本・御家人でつくる京都の治安部隊で、与頭の一人が佐々木只三郎でした。同じ見廻組には、のちに龍馬暗殺について供述する今井信郎や、桂早之助らがいます。
鳥羽伏見の戦い
慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いに旧幕府軍として加わり、敗れたあと江戸へ逃れ、のちに京都へ戻りました(鳥羽伏見の戦いと新選組)。
立場が上がった経緯—剣の腕で
渡辺を引き上げたのは剣の腕でした。上覧試合での活躍で名を知られ、文武場の剣術世話心得を経て見廻組に入ると、慶応3年4月に肝煎介、8月に肝煎へと進みます。近江屋事件のあと、褒美として15人扶持を受けたと本人が語ったとも伝わります。
明治になってからは、奈良県で警察の仕事に就き(県知事の海江田信義の計らいだったともいわれます)、のちに京都府知事・北垣国道が開いた京都体育場で撃剣の教師になりました。
逸話
籠手田安定との試合
明治15年(1882年)、京都体育場の撃剣大会で、滋賀県令などを務めた剣客・籠手田安定と立ち合ったと伝わります。
いつも何かを握る手
残っている写真では、いつも手に何かを握っています。手が握れなくなるのを防ぐためだったという説明もありますが、確かなことは分かっていません。
関わった事件—近江屋事件と晩年の告白
書き残された記録
渡辺は明治の終わりごろ、自分の家の由緒や経歴をまとめた『渡辺家由緒暦代系図履歴書』に、近江屋事件のことを書き残しました。亡くなった年の大正4年8月、『大阪朝日新聞』が「坂本龍馬を殺害した老剣客」としてこれを報じ、晩年に弟や弟子に語った話も伝わっています。
渡辺が語った近江屋の夜

渡辺の話では、近江屋に向かったのは佐々木只三郎・渡辺自身・今井信郎ら5〜6人で、渡辺は父から贈られた刀で龍馬を斬ったといいます。現場に鞘を忘れたのは仲間の世良敏郎で、興奮していた世良を渡辺が支えて四条通へ連れ出した、とも語っています。
今井信郎の供述との食い違い
明治3年の今井信郎の供述では、斬り込んだのは佐々木・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂早之助の4人で、渡辺篤の名は出てきません。鞘の持ち主も、斬った箇所も、人数も食い違います。今井が生きている関係者をかばったのではないかという見方がある一方、渡辺の話は事件から約50年後のものだという限界もあります。世良敏郎が実在の見廻組隊士だったと確かめられたことで、渡辺の証言の信用度は上がったともいわれます。事件の全体像は坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか、坂本龍馬暗殺と新選組で整理しています。
最期
渡辺篤は大正4年(1915年)1月6日に亡くなりました。数えで73歳でした。墓は京都の教善寺にあるとされますが、無縁墓となって墓石が見つからなかったという報告もあります。
渡辺篤ゆかりの地
近江屋跡(京都市中京区)
河原町通蛸薬師下ル。龍馬と中岡慎太郎が斬られた近江屋の跡に碑が立っています(【現地取材】坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難の地)。
二条城(京都市中京区)
渡辺の家が仕えた二条の御門番組の持ち場で、禁門の変のときに渡辺が警備した城です。
教善寺(京都市)
墓があるとされる寺です。墓石の場所は確かめられていません。
幕末・明治の暗殺事件を読む
- 桜田門外の変(1860)—大老・井伊直弼
- 坂下門外の変(1862)—老中・安藤信正
- 吉田東洋暗殺(1862)—土佐藩の参政
- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 目明し文吉の殺害(1862)—三条河原
- 清河八郎暗殺(1863)—麻布一ノ橋
- 姉小路公知暗殺・朔平門外の変(1863)
- 芹沢鴨暗殺(1863)—壬生・八木邸
- 平岡円四郎暗殺(1864)—一橋慶喜の側近
- 佐久間象山暗殺(1864)—三条木屋町
- 原市之進暗殺(1867)—将軍慶喜の側近
- 赤松小三郎暗殺(1867)—東洞院通
- 坂本龍馬暗殺・近江屋事件(1867)
- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
- 横井小楠暗殺(1869)—寺町丸太町
- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
- 大久保利通暗殺・紀尾井坂の変(1878)
- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
▶ 暗殺した側の人物をもっと読む
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参考資料
- Wikipedia「渡辺篤 (剣客)」
- Wikipedia「近江屋事件」
- 菊地明『龍馬暗殺 完結篇』ほか(菊地明氏の研究)
- 『大阪朝日新聞』大正4年8月5日・9月1日〜2日

