大石団蔵(高見弥市)とは何をした人物か—吉田東洋を斬った土佐の郷士が、薩摩藩士となりイギリスへ。留学生から数学教師への転身とゆかりの地

高見弥市(大石団蔵)の肖像写真

幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る

高見弥市(大石団蔵)の肖像写真
高見弥市(大石団蔵)。慶応元年(1865年)夏、留学先で撮影(パブリックドメイン)

大石団蔵(おおいし だんぞう)は、文久2年(1862年)4月8日、那須信吾・安岡嘉助とともに土佐藩の参政・吉田東洋を斬った土佐勤王党の郷士です。

東洋を斬った3人のその後は、大きく分かれました。那須は天誅組で戦死し、安岡は捕らえられて処刑されます。ところが大石だけは、薩摩藩士・高見弥市(たかみ やいち)として生まれ変わり、イギリスに留学して明治まで生きました。刺客から留学生へという、ほかに例のない人生を、藩と身分、幕末の歩み、立場の変化、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。

目次

大石団蔵(高見弥市)とは—先に答え

藩・身分 土佐藩の郷士・大石磯平の長男。香美郡野市村の生まれ。のち薩摩藩士
生没 生年は天保2年(1831年)説、天保5年説などがある。明治29年(1896年)2月28日、鹿児島で死去
名前 幼名は鹿之助。のちに高見弥市(弥一とも)。留学中の変名は松元誠一
幕末に何をした 土佐勤王党に加わり吉田東洋を暗殺。脱藩して京都の薩摩藩邸にかくまわれ、薩摩藩士に取り立てられる
立場の変化 土佐の郷士→脱藩浪士→薩摩藩士→英国留学生→明治政府の役人→鹿児島の数学教師
事件 吉田東洋暗殺(文久2年4月8日)
最期 明治29年2月28日、鹿児島で死去

土佐の郷士の長男として

大石団蔵は、土佐藩の香美郡野市村(現在の高知県香南市)の郷士・大石磯平の長男として生まれました。生まれた年は、天保2年(1831年)とする資料と天保5年(1834年)とする辞典などがあり、はっきりしません。土佐勤王党の盟約文を書いた大石弥太郎(圓)は従兄弟にあたります。万延元年(1860年)、父の死で家督を継ぎ、海辺の台場の小頭役などを務めました。

幕末に何をしたのか—東洋を斬り、薩摩へ

土佐勤王党に加わる

文久元年(1861年)、武市半平太の土佐勤王党に加わり、長州へ使者として出向き、薩摩も見て回りました(【現地取材】武市半平太ゆかりの地を歩く)。

吉田東洋を斬って脱藩

文久2年4月8日の夜、那須信吾・安岡嘉助とともに吉田東洋を斬り、土佐を出ました。3人は京都で長州の久坂玄瑞を頼り、久坂は3人を薩摩藩士の海江田武次(信義)に預けます。3人は京都の薩摩藩邸に1年以上かくまわれました。

薩摩藩士・高見弥市へ

文久3年12月、薩摩藩の奈良原喜八郎(繁)の取り計らいで、大石は薩摩藩士に取り立てられ、高見弥市と名を改めました。かくまわれた土佐の3人のうち、薩摩藩に召し抱えられたのは大石だけでした。

立場が変わった経緯—薩摩藩の洋学校から英国留学へ

元治元年(1864年)6月、高見は薩摩藩が開いた洋学校「開成所」の生徒に選ばれました。土佐出身の者が選ばれるのは異例だったとされます。

慶応元年(1865年)1月、薩摩藩が国禁を破ってイギリスへ送り出す留学生16人の一人に選ばれ、3月22日、串木野の羽島浦から船出しました。イギリスでは、のちの初代文部大臣・森有礼と同じ下宿で暮らし、測量術・機関学・数学を学んでいます。帰国は慶応2年とも3年ともいわれます。

明治になると新政府に出仕して大阪の運上所(税関)に勤め、明治5年(1872年)に鹿児島へ戻って、県立中学造士館で数学を教えました。明治25年には、沖縄県知事となった奈良原繁について沖縄県庁に勤めたあと、鹿児島に戻っています。

逸話

攘夷の志士がイギリスで知ったこと

留学に出る前の高見たちは攘夷論者でした。五代友厚の手紙には、彼らが海外の事情を知って、攘夷は無理だと悟ったようだと書かれています。人を斬ってまで攘夷を目指した若者が、イギリスで考えを改めたのです。

「若き薩摩の群像」に加わった像

鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」は、薩摩藩英国留学生をたたえる像です。他藩の出身だった高見と堀孝之は当初は像がありませんでしたが、令和2年(2020年)に像が加わり、19人がそろいました。ステッキを持った姿が高見です。

船上の断髪

羽島浦を出て3日後の3月25日、留学生たちは船の上で髷を落としたと、仲間の松村淳蔵が日記に残しています。

関わった事件—吉田東洋暗殺(文久2年4月8日)

吉田東洋は、前藩主・山内容堂のもとで藩政を動かす参政でした。身分にとらわれない人材登用や開国に向けた改革を進める一方、武市半平太の尊王攘夷論には耳を貸しませんでした。4月8日の夜、藩主・山内豊範への講義を終えて雨の中を帰る東洋を、那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助の3人が襲って斬りました。直接の指揮は武市の妻の叔父・島村寿之助、総指揮は武市だったとみられています。3人それぞれの役割は伝わっていません。翌朝、東洋の首は雁切河原にさらされました。くわしくは吉田東洋暗殺とはをどうぞ。

最期

高見弥市は明治29年(1896年)2月28日、鹿児島で亡くなりました。辞世は伝わっていません。同じ夜に東洋を斬った那須信吾は文久3年に天誅組で戦死し、安岡嘉助は文久4年に京都で処刑されています。3人のうち明治まで生き、教壇に立ったのは高見ひとりでした。

大石団蔵(高見弥市)ゆかりの地

若き薩摩の群像(鹿児島市)

鹿児島中央駅東口の駅前広場。薩摩藩英国留学生と使節の像が並び、高見の像もあります。

薩摩藩英国留学生記念館(鹿児島県いちき串木野市)

いちき串木野市羽島4930。留学生たちが船出した羽島浦にある記念館です。開館は10時〜17時、火曜(祝日の場合は翌日)と12月29日〜31日が休館、入館料は大人300円です(最新の情報は記念館で確かめてください)。

吉田東洋記念之地碑(高知市)

高知市追手筋2丁目、追手前小学校の東側の塀沿い。昭和33年(1958年)に高知市教育委員会が建てた碑です。

▶ 暗殺した側の人物をもっと読む

あわせて読みたい

参考資料

  • Wikipedia「高見弥市」
  • コトバンク「高見弥一」(日本人名大辞典)
  • 高知県立坂本龍馬記念館「薩摩と土佐」展
  • Wikipedia「吉田東洋」
  • 町田明広「吉田東洋暗殺」(JBpress)
  • 山田尚二「薩藩海外留学生高見弥市について」(『鹿児島史学』29号)
  • URLをコピーしました!
目次