薩摩藩(鹿児島藩)/島津家77万石:島津忠義 鳥羽伏見の戦いから五稜郭まで戦い抜き維新を実現させた薩摩藩

薩摩藩(鹿児島藩)

目次

藩の歩み

1600年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは西軍につくが、徳川四天王の一人「井伊直政」の取りなしで本領を安堵され、島津義弘の三男「家久」が当主と認められました。この時点をもって正式な薩摩藩成立と見なすのが通説です。慶長十四年(1609年)、琉球に出兵して琉球王国を服属(琉球侵攻)させ、琉球の石高十二万石を加えられました。

第8代藩主「島津重豪」は閉鎖的であった藩政を改革し、安永二年(1773年)に、藩校「造士館」と「演武館」の設立を手始めに、医学院や明時館と次々に学校を設立しました。また江戸幕府との結びつきを強めるため、三女の茂姫を第11代将軍「徳川家斉」に嫁がせました。これら重豪の豪奢な事業により薩摩藩の全国的な政治的影響力は格段に上がったものの藩財政は更に困窮の度を増しました。

薩摩藩(鹿児島藩)/場所・アクセス・地図 島津家77万石:島津忠義 鳥羽伏見の戦いから五稜郭まで戦い抜き維新を実現させた薩摩藩【幕末維新写真館】

その後、文政十年(1827年)、調所広郷を中心に藩政改革が断行されると、藩債整理、砂糖専売制の強化、琉球貿易の拡大などを打ち出して、財政は好転しました。嘉永四年(1851年)、第11代藩主「島津斉彬」は洋式軍備や藩営工場の設立を推進し(集成館)、また、養女の篤姫を第13代将軍「徳川家定」の正継室にするなど幕末の四賢侯として抬頭しました。

斉彬の死後、藩主「島津忠義」の実父で斉彬の異母弟にあたる「島津久光」が実権を握り、「国父」と呼ばれました。久光は公武合体派として雄藩連合構想の実現に向かって活動するが、薩英戦争を経て「西郷隆盛」「大久保利通」ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移ります。

薩摩藩(鹿児島藩)/場所・アクセス・地図 島津家77万石:島津忠義 鳥羽伏見の戦いから五稜郭まで戦い抜き維新を実現させた薩摩藩【幕末維新写真館】

「徳川慶喜」が「大政奉還」すると、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀らの進言を容れ、薩摩藩兵3千を率いて上洛しました。そして「王政復古の大号令」に貢献し、議定に任ぜられて小御所会議に参席しました。慶喜が発した討薩の表に於いて厳しく糾弾されるが、「鳥羽・伏見の戦い」では旧幕府軍を退けて薩長軍が勝利を収めました。

この直後、海陸軍総督に任命されるが西郷の進言に従い一日で辞任しています。その後、薩摩藩兵は上野戦争、北関東戦争、会津戦争、函館五稜郭まで転戦しました。そして、明治維新後は長州・土佐・肥前の3藩と協力して版籍奉還を進めました。

薩摩藩(鹿児島藩)/場所・アクセス・地図 島津家77万石:島津忠義 鳥羽伏見の戦いから五稜郭まで戦い抜き維新を実現させた薩摩藩【幕末維新写真館】

幕末の維新を実現した藩として長州藩とともに、明治以降の長きにわたり日本政治を支配する薩摩閥を形成することとなります。琉球諸島を除く薩摩藩領は、直轄地の奄美群島とともに明治四年(1871年)、七月十四日の廃藩置県を経て鹿児島県となりました。

薩摩藩をもっと深く—七十七万石と七十二万八千石は、琉球の扱いが逆です

石高の数字が分かれる理由

薩摩藩の石高は資料によってまるで違う数字が出てきます。これには理由があります。

当ページが掲げる七十七万石を明記しているのは、ブリタニカ国際大百科事典の「島津氏」の項で「七十七万石という外様大名屈指の雄藩となった」とあります。いっぽう事典の主流は表高を七十二万八千七百石余あるいは七十二万九千石余とし、山川日本史小辞典は「鹿児島藩七十二万九千石余」と記します。

ここが肝心です。この二つの数字は、琉球の扱いが逆になっています。日本大百科全書は「1635年に琉球高十二万三千七百石を加えて七十三万二千六百十六石」とし、表高には琉球が含まれると明記します。つまり七十二万八千石台の数字は琉球込み。いっぽう七十七万石は、享保内検の実高(世界大百科事典で八十六万七千二十八石)から琉球分を引いた数だと説明されますが、この説明の出典は弱いものです。

さらに厄介なのは、日本大百科全書が表高を「籾高(もみだか)」としている点です。籾のままの数字なので、玄米に直すと相当減ります。七十七万石という数字の見かけの大きさと、実際に藩が使えた米の量は別—のちに出てくる五百万両の借財と、この話はつながっています。

領地は薩摩・大隅の二国と日向国諸県郡。家格について、コトバンクは「薩摩藩」の項で大広間詰、「鹿児島藩」の項で大廊下と書いており、同じ事典のなかで食い違っていますので、ここは断定しません。

人口の四分の一が武士だった藩です

薩摩を薩摩たらしめていたのは、石高よりむしろ武士の多さでした。

文化庁の日本遺産のストーリー「薩摩の武士が生きた町」は、はっきりこう書いています—「全人口の4分の1程度を武士が占めていました。そこで、他の藩のように、本城である鹿児島城の城下に全ての武士を集住させることができず」。数字のほうも辞典が裏づけていて、明治初年の調査で士卒人口比は全国平均〇・五六パーセントに対し薩摩藩二六・三八パーセントでした。

城下に入りきらないから、領内各地に分けて住まわせる。それが外城制(とじょうせい)です。コトバンクは「領内を百十三の外城(郷)に分けて軍事・行政支配の単位とする特殊な外城制度」とし、文化庁は「江戸時代末に百二十か所」としています。各地の山城のふもとに「麓(ふもと)」と呼ばれる武家屋敷群が置かれ、そこには仮屋(行政の中心で藩主の宿所)と馬場(武芸訓練と防衛線を兼ねる広い道)が設けられました。麓はシラス台地の縁と川の間に、防御を意識して配置されています。

一国一城令のあとに、実質的な城が百二十か所ある。武士が多すぎたために生まれた仕組みが、そのまま幕末の動員力になったと言えます。子どもたちは「郷中教育といって、集落ごとに年長者が年少者を教える集団教育の方法で育てられました」(文化庁)。

五百万両の借財と、二百五十年の分割返済

薩摩藩の財政について、驚くべき数字が事典に残っています。

コトバンクの調所広郷(ずしょ・ひろさと)の項によれば、調所は藩主島津重豪から「当時五百万両に達していた藩債をかかえた藩財政の改革を命じられた」。そして打った手が、黒糖の専売制度と藩債の二百五十年分割償還でした。

二百五十年です。誠実な返済とは呼びがたい処理ですが、これで藩は息をつき、改革二十年で「藩庫に百万両のたくわえ」を作りました。そして調所は「琉球国を利用した中国との密貿易も敢行」しており、その密貿易が幕府に発覚して自殺します。嘉永元年(1848年)十二月十八日、江戸でのことでした。

密貿易の実態は、コトバンクの「抜荷(ぬけに)」の項が具体的です。薩摩藩は琉球貿易の特権を使い「琉球国産物として唐物を輸入し、藩外売りさばきを禁止されていたにもかかわらず、長崎で売りさばき」、煎海鼠・乾鮑・鱶鰭といった俵物を新潟などで密買して琉球船で中国へ送りました。事典は薩摩藩が「一貫して抜荷を行っていた」とし、幕府が「薩摩藩のごとき大物を処罰しなかった」ため抜荷を根絶できなかったと書いています。

集成館の反射炉も、洋式軍艦も、留学生も、この会計の上に乗っていました。→ 長州藩

集成館—反射炉の着工は嘉永五年です

島津斉彬は文化六年九月二十八日生まれ、安政五年七月十六日没。ブリタニカは死因を「コレラにかかって急死」とします。襲封は嘉永四年(1851年)二月、四十三歳。その前段にはお由羅騒動(高崎崩れ)があり、嘉永二年(1849年)に斉彬派の多くが処罰されました。幕府が知って父斉興に隠居を命じたことで、ようやく斉彬が継いだのです。

事業の年代で注意が要ります。反射炉の着工は嘉永五年(1852年)です。文化庁の文化遺産オンラインは「1852年から反射炉をはじめ、熔鉱炉、製造工場などを整備」と書いています。安政元年(1854年)着工とする根拠は見つかりませんでした。そして現在残る二号炉は1857年の建設で、鹿児島市公式は「2号炉の下部構造が残存」「高さ約16メートルの煙突がかつて存在」としています。「集成館」と命名されたのは安政四年(1857年)で、従業員は「一日に1200人を超えた」(日本大百科全書)。

そして文久三年(1863年)七月の薩英戦争で、工場群は焼失します。いま尚古集成館となっている旧集成館機械工場は、慶応元年(1865年)の建築—焼かれたあとに建て直した第二次集成館事業の建物です。鹿児島市公式は「日本に現存する近代工場として最も古い建物」とし、文化遺産オンラインは石造平屋建瓦葺、床面積九百七十七・五平方メートルと記録しています。

世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の登録決定は2015年7月5日、八県十一市に分布する二十三の資産です。鹿児島エリアの構成資産は旧集成館(反射炉跡・旧集成館機械工場・旧鹿児島紡績所技師館)、寺山炭窯跡、関吉の疎水溝の三件。寺山炭窯跡は1858年建設で、反射炉用の白炭を焼いた窯。関吉の疎水溝は約七キロ導水した動力用水路の取水口跡です。旧鹿児島紡績所技師館は1867年築で、鹿児島市教育委員会は「日本初の洋式紡績工場」の技術指導にあたった英国人技師七名の宿舎と説明しています。

史跡「旧集成館 附寺山炭窯跡 関吉の疎水溝」の指定は昭和三十四年二月二十五日、追加指定が平成二十五年三月二十七日(文化遺産オンライン)。機械工場の重要文化財指定日は昭和三十七年(1962年)六月二十一日とする鹿児島県教育委員会・尚古集成館と、昭和三十八年(1963年)六月二十一日とする文化遺産オンラインで一年食い違っています。

ひとつ書き分けておきます。仙巌園そのものが世界遺産なのではありません。構成資産は旧集成館で、その一部である反射炉跡が仙巌園の敷地内にある—という関係です。仙巌園は万治年間(1658年)に十九代島津光久が造った別邸で、幕末とは二百年隔たっています。

昇平丸は「日本初」ではなく「二番目」です

薩摩の洋式軍艦昇平丸について、称号の扱いに注意が必要です。

桜島瀬戸村の造船所で嘉永六年に起工し、嘉永七年四月三日に進水、安政元年十二月十二日に竣工。しかし「日本で二番目の洋式軍艦」とするのが通説で、一番目は幕府の鳳凰丸です。「日本初の洋式軍艦」と書くのは誤りになります。鹿児島県の公式サイトには「国産軍艦第一号(昇平丸)」という題のページがありますが、「国産の第一号」と「日本初の軍艦」は意味が違う(鳳凰丸も国産です)ため、ここでは踏み込みません。

幕府へ献上する際に船尾へ日の丸を掲げたことが日章旗を日本の船旗として掲げた第一号とされますが、これも俗説という見解があると注記されています。献上後は昌平丸と改称。明治三年三月、北海道上ノ国町の猫澤海岸で高波により座礁破船しました。

いっぽう蒸気船雲行丸については、世界遺産の公式サイトが「1855年に日本初の蒸気船 雲行丸を建造した」と英語で明記しています。こちらは出典を示して書けます。

「国父」は称号ではなく、扱いです

斉彬の死後を押さえておきます。島津忠義(茂久)は天保十一年四月二十一日生まれ、明治三十年十二月二十六日没、五十八歳。安政五年(1858年)に島津家二十九代、薩摩藩主となりました。

ここで一つ、間違えやすい点があります。忠義の当初の後見は、久光ではなく祖父の島津斉興です。山川日本史小辞典は「伯父斉彬の急死により祖父斉興を後見として相続」と書いています。斉興が没したあとに、実父の久光が実権を握る構図になります。

島津久光は文化十四年生まれ(生日は十月二十四日とするものと十月二十日とするものがあります)、明治二十年十二月六日没。一度も藩主になっていません。日本大百科全書は「1858年、長男茂久(のち忠義)が29代当主となったので、久光が藩政の実権を握った」とし、百科事典マイペディアは「藩主となった忠義の後見役〈国父〉として藩政の実権を握った」と書きます。

つまり「国父」は正式な役職名や称号ではなく、藩主の実父をそう遇したという扱いです。公式の職にないまま七十七万石を動かした—薩摩の意思決定が外から読みにくいのは、この構造のせいです。忠義は明治十七年に公爵となりました。

薩英戦争—薩摩側の戦死者は一名とも五名とも

文久二年(1862年)の久光の率兵上京から、話が一気に動きます。

寺田屋事件は文久二年四月二十三日、京都伏見。薩摩藩士有馬新七らが関白九条尚忠らの殺害を企てて集結したところを、久光が家臣を遣わして襲い、殺害した事件です。事典によれば「有馬、柴山、橋口ら六名が殺され、二名が重傷」。久光は奈良原喜八郎ら九名に「上意討ち」を命じました。薩摩藩士が薩摩藩士を斬ったわけです。

生麦事件は文久二年八月二十一日(新暦1862年9月14日)、横浜の生麦村。久光の行列に騎馬の英国人四人が遭遇し、上海在住の英商人リチャードソンが殺害されました。幕府は賠償金十万ポンドを払いましたが、藩は犯人の逮捕に応じませんでした。

そして薩英戦争は文久三年七月二日から四日(新暦1863年8月15日〜十七日)。英艦隊七隻、司令官クーパー提督。英側の損害は戦死十三名で、旗艦の艦長ジョスリング大佐と副長ウィルモット中佐を含みます。艦長と副長がそろって戦死しているのですから、砲台の火力は本物でした。

薩摩側の損害は、資料で大きく分かれます。コトバンクは戦死五名、別の資料は祇園之洲砲台の税所清太郎ただ一名とします。どちらとも決められません。戦闘は勝敗がつかないまま、英艦隊が食料・弾薬・石炭の欠乏で退去して終わりました。

面白いのはそのあとです。事典は「以後薩英関係は急速に緊密」になったとし、軍事近代化と留学生派遣へ向かいます。撃ち合った相手と最も深く結んだ—薩摩の現実主義がここに出ています。賠償金二万五千ポンドは、幕府から借りて払いました。

薩長同盟は一月二十一日、そして「龍馬が結ばせた」の距離

薩長同盟の日付について、辞典の主流は慶応二年一月二十一日です。世界大百科事典と精選版日本国語大辞典がこの日を採ります。一月二十二日を採る辞典は見つかりませんでした(十八日説・二十二日説を異説として挙げる資料はあります)。場所はブリタニカと精選版が「京都の薩摩藩邸」とし、近衛家別邸の御花畑屋敷(小松帯刀の寓居)とする見方は2016年の史料発見以降に広まったもので、辞典には入っていません。

そして坂本龍馬の役割です。ここは正確に書く価値があります。辞典の表現を並べると—デジタル大辞泉「仲介」、ブリタニカ「仲介のもとに」、百科事典マイペディア「周旋」、世界大百科事典「熱心な周旋」、精選版日本国語大辞典「あっせん」し「立会いのもと」成立。「龍馬が結ばせた」「龍馬が主導した」と書く辞典は一つもありません。

史料の構図がさらに雄弁です。正式な盟約書は残っていません。木戸孝允が会談内容を記憶にもとづいて六か条にまとめ、内容確認のため龍馬に送った書簡(慶応二年一月二十三日付)が記録で、龍馬は朱書で「間違いない」と返答しています。龍馬は同席し、内容を保証した人—史料が示しているのはそこまでです。

六か条の内容は、幕府が再征に出れば薩摩は京都・大坂に出兵して圧力をかけ、戦況にかかわらず長州の政治的復権のため朝廷工作を行い、「皇国と皇威の回復まで誠心尽力する」というものでした。そして実際、第二次長州征討で薩摩藩は出兵を拒否します。複数の辞典が「とくに薩摩藩は出兵を拒否した」と明記しています。兵を出さないという一手が、同盟の実行でした。→ 土佐藩・小倉藩

討幕の密勅は「偽勅と解されている」

慶応三年(1867年)十月の討幕の密勅について、山川日本史小辞典が踏み込んだ書き方をしています—「岩倉具視と薩長藩士数人が倒幕派の廷臣とともに作為した偽勅と解されている」。

コトバンクも「形式が異例で、天皇の直筆もなく、花押も欠落」と記します。交付は十月十三日から十四日にかけて薩摩・長州両藩の藩主父子へ。そして同じ十四日に慶喜が大政奉還を行ったため、実効性を失いました。「密勅が下って討幕が決まった」という書き方は、この経緯からすると単純すぎます。

王政復古の大号令は慶応三年十二月九日。国立公文書館の解説では「神武創業の始め」に復するとして幕府と摂政・関白を廃止し、総裁・議定・参与の三職を設けました。同日の小御所会議に諸侯として出席したのが島津忠義です。世界大百科事典は「岩倉具視や大久保利通ら討幕派」が強硬に応酬し、「西郷隆盛の裏工作に押し切られ」たと書いています。なお西郷の「短刀一本あれば片づく」という有名な発言は、辞典類には記載がありません。

そして慶応三年十二月二十五日、江戸三田の薩摩藩邸が焼き討ちされます。鶴岡市の公式ページは「幕末は江戸市中を攪乱する浪士が集結していた」屋敷で、「この事件が戊辰戦争の発端となったと考えられており、庄内藩を含む複数の藩がこの行動に参加した」と説明しています。

皮肉なのは、その三か月後です。勝海舟と西郷隆盛の会談(慶応四年三月十三日・十四日)が開かれたのは、十三日が高輪の薩摩藩下屋敷、十四日が田町の薩摩藩蔵屋敷でした。前年末に焼き討ちされた三田の藩邸とは別の屋敷です。江戸城の明け渡しは四月十一日です。

従軍六千人、函館まで

鳥羽・伏見の戦いについて、国史大辞典系の記述では幕府軍約一万五千人、新政府軍約四千人。薩摩藩単独の兵数はわかっていません。開戦日は慶応四年一月二日〜三日とするものと一月三日とするものがあります。

戊辰戦争全体での薩摩藩の従軍者数については、鹿児島市の明治維新百五十年の事業サイトが「戊辰戦争に従軍した薩摩藩兵は、約6000人でした」と記しています。戦地は鳥羽伏見、江戸、上野、北越、仙台・米沢、会津、庄内、そして函館まで。西郷吉之助の弟吉二郎は越後で受けた傷により1868年8月14日に亡くなっています。戦死者の総数は、どの資料にも数字がありませんでした。

人物の生没を添えておきます。西郷隆盛は1828年1月23日〜1877年9月24日(新暦)。大久保利通は1830年9月26日〜1878年5月14日。そして小松帯刀(清廉)は天保六年十月十四日〜明治三年七月二十日、三十六歳で死去しました。久光の側近として大久保ら下級武士を要職に登用し、薩長同盟の成立に西郷・木戸とともに決定的な役割を果たし、慶応三年には将軍慶喜に大政奉還を説いた人です。維新後は参与・外国事務局判事を務めました。維新を作った側で、維新後をほとんど生きていない—薩摩の人事を考えるとき、この早世は大きい。

天守を持たなかった城と、その石垣の弾痕

鹿児島城(鶴丸城)は天守を築きませんでした。文化庁の日本遺産の解説では、城山は標高約百メートルのシラス台地で、南北朝時代に上山氏が山城を築き、江戸初期に初代藩主島津家久が大規模改修して「山城と麓の居館を組み合わせた鹿児島城が完成」しました。築き始めは1601年ごろ。

国史跡「鹿児島城跡」の指定は昭和六年(1931年)六月三日で、追加指定が2023年3月20日。文化庁の解説は「中世山城である上山城跡(城山)を中心とし、近世にはその麓が島津氏の居城として拡張された」としており、本体指定は城山、麓の鶴丸城部分は近年の追加という順序です。

御楼門は明治六年(1873年)の火災で焼失し、2020年に復元されました。鹿児島県公式の資料は「屋根に鯱を上げ、この鯱までの高さが約20メートル(推定)」「二重二階造・木造本瓦葺き」とし、主柱は約九十センチ×約七十センチと推定しています。県公式資料の表現は「国内最大級の城門」、県と市の公式観光サイトは「日本最大の城門」。言い方が違うので、引くときは出典を添えるのが安全です。石橋は1810年に板橋から架け替えられました。

そして、この城跡でいちばん物を言うのが石垣の弾痕です。鹿児島県公式の資料は「楼門部の石垣には、西南戦争時の銃砲弾痕が数多く残されている」「複数箇所から銃撃や砲撃が行われたことをうかがい知ることができ、この攻撃の凄まじさを今に伝えている」と書いています。私学校跡(御楼門の北方約百メートル、旧鶴丸城の御厩跡)の石垣や石塀にも銃弾痕が残ります。明治十年九月、西郷軍は城山を中心に最終布陣し、政府軍約五万人が包囲しました。私学校は1968年に県指定史跡となっています。

維新を起こした藩の城跡に残っているのは、維新のあとに政府軍から撃たれた痕です。幕末の薩摩を歩くとき、この順番は忘れないほうがよいと思います。

照国神社の祭神は照国大明神=島津斉彬。鹿児島県神社庁は文久三年五月十一日に勅命で照國大明神の神号を授けられ一社を創建とし、鹿児島市公式は元治元年(1864年)に南泉院跡へ社殿建立とします。明治十年の西南戦争で焼失し明治十五年に再建、昭和二十年の空襲で再び焼失し昭和三十三年に鉄筋コンクリートで再建されました。二度焼けて二度建った社です。

藩校と、幕末とは無関係な特産

藩校造士館・演武館・医学院は安永二年(1773年)、二十五代 島津重豪の設立です。鹿児島市公式は動機を「薩摩で武士の教育が十分でないという心配がありました」とし、造士館を「江戸の幕府昌平校を模した藩校」で山本正誼の指導のもと朱子学を数百人に教えたと説明します。演武館は剣・弓・槍・馬術・砲術、医学院は吉野・佐多・山川に薬園を置きました。明時館(天文館)は安永八年(1779年)の創設で、四メートル四方の観測台を持ち、藩内のすべての暦がここから配布されました。現在の天文館通りの名は、この明時館に由来します。

なお鹿児島大学の公式資料は、1773年の創設について「1786年に造士館・演武館と改称」とし、1857年に斉彬がカリキュラムを改革、1871年に廃止、1901年に第七高等学校造士館として復活したと記します。同大は第七高等学校造士館を「藩校の系譜と名称の両方を継承した唯一の地方旧制高等学校」としています。

特産については、年代を分けておきます。

薩摩切子を始めたのは斉彬ではなく、父の島津斉興です。コトバンクは弘化三年(1846年)、斉興が「製薬のためにガラス器、ガラス瓶などの製造を必要とし」江戸から四本亀次郎を招いたのが始まりとします。斉彬が集成館で拡張し、紅・藍・紫の色ガラスを開発しました。そして文久三年(1863年)の薩英戦争で工場が破壊されて途絶え、一世紀余り「幻のガラス」と呼ばれたのち、1985年(昭和六十年)に鹿児島市磯町で生産が再開されました。

薩摩焼は文禄・慶長の役で島津義弘が朝鮮陶工を連れ帰ったことに始まり(1595年説と1598年説があります)、竪野・苗代川・龍門司・西餅田の系統に分かれます。起源は幕末より二百六十年ほど前ですが、金彩・色絵の錦手が幕末・明治期に「輸出の花」となって欧米で評価された点は幕末史につながります。

大島紬は生産開始の時期が不明で、1720年の記録に薩摩藩が「島民に紬着用禁止令を出した」ことからそれ以前の生産が推定されます。藩政時代は黒砂糖とともに薩摩藩の献上品・交易品で、藩の重要な財源でした。ただし織締機の発明(1902年)や伝統的工芸品指定(1977年)は幕末とは無関係です。

廃藩置県では明治四年(1871年)に鹿児島県となりました。日向国側は少し複雑で、宮崎県の公式資料によれば1871年に日向国へ二つの県が置かれ、1873年に合併して最初の宮崎県が成立、1876年に財政難で鹿児島県へ併合され、西南戦争後の分県運動を経て1883年に宮崎県が再置されました。三段階です。明治九年から十六年までの七年間、宮崎は鹿児島県だったことになります。→ 熊本藩(肥後藩)

場所・アクセス・地図

〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町7

あわせて読みたい(現地取材)

この藩が持っていた艦船

薩摩藩(鹿児島藩)の艦船として当サイトで扱っているのは十六隻で、内訳は輸送船が十一隻、砲艦・軍艦が四隻、その他が一隻です。

幕末の艦船は二十八の勢力に分かれ、最も多いのが幕府の三十八隻、次が薩摩藩の十六隻でした。そのうち十四の勢力は一隻しか名前が残っていません。十六隻という数が、この藩の海に対する構えを示しています。

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