五代友厚(五代才助)とは何をした人物か—薩摩の船を買い、英国留学生を送り、大阪の経済をつくった人

鹿児島湾の沖に並ぶ英国軍艦と、岸から見つめる武士たち(イメージイラスト)

五代友厚(ごだい ともあつ)は、薩摩藩の船を買い、英国へ留学生を送り、明治には大阪の経済をつくり直した人です。若いころの名を五代才助といいます。長崎海軍伝習所で学び、上海へ渡って汽船を買い、薩英戦争では英艦の捕虜になりました。大阪株式取引所も大阪商法会議所も、この人が立ち上げています。

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薩摩藩士の次男として生まれました

五代友厚の肖像
五代友厚(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

天保六年十二月、鹿児島城下の城ヶ谷に生まれました。西暦でいえば1836年の二月にあたります。幼名は徳助、のちに才助。

父の五代秀堯は、薩摩の地誌『三国名勝図会』を編んだ人です。土地と記録を扱う家に育ったことは、のちの仕事と無縁ではないでしょう。

安政四年、長崎で海軍を学びました

二十代の初めに長崎へ遊学し、海軍伝習所の伝習生となります。航海、測量、砲術、蘭学、数学。ここで勝海舟らと出会いました。以後、十一年にわたって長崎に関わり続けます。

薩摩藩の船を動かす人材は、この時期の長崎で育っています。

文久二年、上海へ渡って汽船を買いました

長崎で御船奉行副役となり、グラバーとともに上海へ渡って汽船を購入しています。ただし船名も値段も、公的な資料では裏が取れませんでした。大阪商工会議所の年譜も「汽船を購入する」までです。

同じ年、幕府の船である千歳丸にも関わっています。薩摩藩士は乗船を許されなかったため、水夫を装って乗り込み、上海の市況を調べました。同船していた高杉晋作は「友厚は藩主の命で蒸気船の修復と上海での交易を考えていた」と書き残しています。

薩英戦争で、英艦の捕虜になりました

鹿児島湾の沖に並ぶ英国軍艦と、岸から見つめる武士たち(イメージイラスト)
薩英戦争の鹿児島湾(イメージ)

文久三年七月、鹿児島湾で三隻の軍艦とともに待機していたところを英艦隊に急襲され、松木弘安(のちの寺島宗則)とともに捕虜になりました。

このとき英艦隊に奪われ焼かれた薩摩藩の蒸気船三隻は、天佑丸(天祐丸とも書きます)・白凰丸・青鷹丸です。外国から買った高価な船でした。桜島沖に沈み、のちに蒸気機関だけが引き揚げられたという記録が残ります。なお、このとき五代が乗っていたのは天佑丸だったと日本側の記録は伝えますが、英国側の同時代の記録は捕らえた二人をどちらも青鷹丸から出したとしており、食い違っています。

捕らえられた五代は、英国側の指揮官に薩摩の陸上兵力を誇張して伝えたとされます。英軍は上陸せずに横浜へ引き揚げました。

ただし、帰ってからが大変でした。「英国と通じている」と疑われ、藩の外での亡命生活を余儀なくされています。藩に戻れたのは翌元治元年のことでした。

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慶応元年、十九人をイギリスへ送りました

薩摩藩が留学生をイギリスへ送った、いわゆる薩摩スチューデントです。団長は新納久脩、外交を担ったのが寺島宗則、通訳が堀孝之、留学生十四人を町田久成が率い、総勢十九人。五代は経済使節として加わりました。

海外渡航が禁じられていたため、甑島への出張という名目で全員が変名を使い、串木野の羽島浦から出ています。羽島で二か月ほど待ち、グラバーの船が迎えに来ました。

向こうで五代が取り組んだのは、紡績機械と武器と軍艦の買い付け、そして技師を日本へ送る契約です。帰国の前にはフランス人のモンブランと組み、ベルギーに貿易会社を立ち上げる話まで進めています。二十代の終わりに、藩の買い物係として欧州を回っていたわけです。

帰国後、薩摩の金を預かりました

慶応二年に帰国すると、藩の商事を担う会計係になります。慶応三年には長崎の小菅修船場の事業を中心になって進め、小松帯刀とグラバーが出資しました。いまの三菱重工業長崎造船所の起源です。

明治、大阪へ

慶応四年二月、新政府の参与・外国事務局判事となり、大阪で開港の事務にあたりました。川口運上所、いまの大阪税関の初代の長です。同年八月には香港から造幣の機械を買い入れ、大阪造幣寮の設置に尽くしています。

明治二年七月に辞表を出し、以後は民間の人として大阪で働きました。やったことを並べます。

  • 明治九年 堂島米商会所を再興
  • 明治十一年八月 大阪株式取引所を設立(鴻池善右衛門・住友吉左衛門らとともに創立願書を提出)
  • 明治十一年九月 大阪商法会議所を設立し、初代の会頭に
  • 明治十三年 私立大阪商業講習所を設立(のちの大阪商科大学、大阪市立大学)

ほかに鉱山、製藍、製銅、桟橋、活版、鉄道。阪堺鉄道はいまの南海電気鉄道です。取引所と会議所と学校を同じ三年のうちに立てているあたりに、この人の順番の付け方が出ています。市場をつくり、商人が集まる場をつくり、人を育てる場をつくった。

「東の渋沢、西の五代」

大阪市中央区の公式ページが「東の渋沢、西の五代と並び称される」と書いています。ただし、この言葉を誰が最初に言ったのかは分かりませんでした。大阪商工会議所の公式サイトにもこの表現は見当たりません。並び称されている、という事実にとどめておきます。

明治十八年、東京築地で没しました

九月二十五日、東京築地の別邸で死去。十月二日に大阪で葬儀が行われ、会葬者は四千三百人を超えました。年齢は大阪市と大阪税関が五十歳、大阪商工会議所の資料が四十九歳としています。

墓は大阪市設南霊園(阿倍野墓地)にあります。

訪ねるなら

  • 大阪商工会議所(大阪市中央区本町橋)。五代友厚像があります
  • 大阪取引所(大阪市中央区北浜)。五代友厚像とギャラリー
  • 大阪企業家ミュージアム(大阪産業創造館)
  • 大阪市設南霊園 阿倍野墓地(大阪市阿倍野区)。墓所
  • 小菅修船場跡(長崎市小菅町)。世界遺産構成資産

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 国立国会図書館「近代日本人の肖像」五代友厚・寺島宗則
  • 大阪商工会議所「絵でみる 五代友厚の生涯」および年譜、大阪市中央区、大阪税関
  • 鹿児島県広報誌「グラフかごしま」、国立国会図書館レファレンス協同データベース(鹿児島県立図書館の回答)
  • 文化庁 文化遺産オンライン「小菅修船場跡」、長崎市
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