島田一郎とは何をした人物か—大久保利通を斬った加賀藩の足軽の子。北越戦争での出世、紀尾井坂の変、斬首とゆかりの地

島田一郎の肖像写真

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島田一郎の肖像写真
島田一郎(明治11年以前の撮影。パブリックドメイン)

島田一郎(しまだ いちろう)は、明治11年(1878年)5月14日の朝、東京・紀尾井町の清水谷で内務卿の大久保利通を斬った6人の中心人物です。加賀藩の足軽の家に生まれ、戊辰戦争の手柄で身分を上げ、陸軍の士官にまでなった人でした。

その人がなぜ政府の最高実力者を斬ることになったのか。藩と身分、幕末の歩み、取り立てられた経緯、逸話、事件、最期、そして金沢と東京に残るゆかりの地の順にたどります。

目次

島田一郎とは—先に答え

藩・身分 加賀藩(金沢藩)。足軽の家の生まれで、明治以降は石川県士族
生没 嘉永元年(1848年)〜明治11年(1878年)7月27日。享年31
名前 一郎(一良とも書く)。諱は朝勇。谷中の墓石には「島田一良」と刻まれています
幕末に何をした 藩の洋式兵学校・壮猶館で銃砲術を学び、第一次長州征討、北越戦争に出陣
出世の経緯 北越戦争で長岡藩が残した兵糧を確保した手柄などで「御歩並」に昇格。明治にはフランス式兵学を学び陸軍士官へ(最終の階級は諸説)
事件 明治11年5月14日、紀尾井坂の変(清水谷)で大久保利通を斬り、斬奸状を持って自首
最期 明治11年7月27日、市ヶ谷の監獄で5人の同志とともに斬首
墓所 谷中霊園(東京都台東区)に6人の墓が並ぶ。金沢の野田山にも墓があるとされます

加賀藩の足軽の家に生まれる

島田一郎は嘉永元年(1848年)、百万石の加賀藩の城下・金沢で、足軽の家に生まれました。生まれた月日は伝わっていません。地元の郷土史の調べでは、祖父・父とも養子として島田家に入り、割場付足軽や横目、下屋敷の下役などを務めた家だったとされます。藩の中では、武士の身分のいちばん下のほうにあたる家です。

妻はひら子といい、一郎の死後は小学校の教師をして家を支えました。幼いころは意地っ張りの「ヤンチャもん」だったと地元では語られています。

幕末に何をしたのか—壮猶館で学び、長州と北越へ

藩の洋式兵学校で銃と砲を学ぶ

15歳ごろに足軽として雇われ、加賀藩が開いた洋式の兵学校・壮猶館で銃砲術を学んだと伝わります。幕末の加賀藩は、海防のために西洋式の砲術や兵制を取り入れようとしていました。

第一次長州征討で初めての出陣

元治元年(1864年)、幕府が長州藩を攻めた第一次長州征討で、加賀藩兵の一人として初めて戦場に出ました。郷土史の調べでは、この年に「足軽並」に格上げされ、翌慶応元年(1865年)には京都へも派遣されたとされます。

北越戦争

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、加賀藩は新政府軍として越後へ兵を出しました。島田も北越戦争に出陣し、長岡藩などの旧幕府方と戦っています(伍長としての従軍とされます)。

出世した経緯—兵糧の手柄から陸軍士官へ

北越戦争で、長岡藩が退くときに置いていった兵糧を確保したことなどが手柄と認められ、明治2年(1869年)に「御歩並(おかちなみ)」へ昇格しました。足軽からの取り立てで、身分の壁が固かった加賀藩では大きな出世です。

廃藩置県のあとは陸軍の軍人を目指してフランス式の兵学を学び、士官になりました。最終的な階級は、中尉とする説と、明治4年に準少尉(年給33俵)になったとする説があり、はっきりしません。その後、軍を離れて金沢に戻ります。

逸話

あだ名は「西洋犬」

仲間うちでは「西洋犬」と呼ばれていたと伝わります。洋式の兵学を学んだことと関係があるのかもしれませんが、由来は伝わっていません。

征韓論と同志集め

明治6年の政変で西郷隆盛らが政府を去り、台湾出兵や征韓論が争点になると、島田は各地を回って同志を集め、征韓論を唱えました。明治8年(1875年)には、板垣退助らの愛国社の集会に加賀の代表として加わったともされます。

「遊歴」と称して東京へ

明治11年4月15日、家督を長男に譲って隠居し、「遊歴」を名目に東京へ向かいました。決行の朝は無地の羽織を着て、懐には短銃を入れていましたが、使わなかったといいます。

最期の言葉

処刑のとき「愛国の諸君、御先に御免」と言ったと伝わります。首を斬った9代目山田浅右衛門の談話による話です。

関わった事件—三光寺派から紀尾井坂の変へ

忠告社と三光寺派

明治初めの金沢には、杉村寛正・陸義猶らがつくった士族の結社「忠告社」がありました。島田らは、その建白(政府への意見書)が言葉だけで終わることに不満を持ち、巡査を多く仲間にした急進派、いわゆる「三光寺派」をつくります。総勢400人ともいわれます。

挙兵をあきらめ、暗殺へ

明治9年の萩の乱、明治10年の西南戦争に呼応して兵を挙げようとしましたが、どちらも実現しませんでした。西郷が敗れたあと、島田らは政府の要人を討つ方針に切り替え、狙いを内務卿・大久保利通に定めます。

紀尾井坂の変(明治11年5月14日)

午前8時30分ごろ、赤坂の仮皇居へ馬車で向かう大久保を、麹町区紀尾井町の清水谷で襲いました。加わったのは島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一(以上石川県士族)と浅井寿篤(島根県士族)の6人です。大久保は絶命し、6人は斬奸状を持って自首しました。斬奸状は陸義猶が起草したもので、政府が一部の役人の「有司専制」に陥っていると非難していました。

事件の経緯と、その朝に大久保が語ったという「三十年の計画」は、大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)とはにくわしく書いています。

最期—市ヶ谷で斬首

6人は国事犯として臨時の裁判所で裁かれ、明治11年7月27日の午前に死刑を言い渡されると、同じ日のうちに市ヶ谷の監獄で斬首されました。罪名は謀殺です。島田は31歳でした。事件から2か月あまり、裁判は異例の早さで終わっています。

谷中霊園には6人の墓が並んでいます。墓石の名が「一郎」ではなく「一良」になっているのは、墓が聖地のように扱われるのを恐れて名を改めさせたためという説もありますが、確かな裏づけはありません。

島田一郎ゆかりの地

三光寺(石川県金沢市)

金沢市野町1-3-5の浄土宗の寺で、島田ら急進派が集まったことから「三光寺派」の名が生まれました。境内は9時〜17時に無料で入れます(建物内は予約制、駐車場なし)。

清水谷公園と大久保公哀悼碑(東京都千代田区)

千代田区紀尾井町2。事件の現場は「紀尾井坂」ではなく、このあたりの清水谷でした。公園には明治21年(1888年)に建てられた「贈右大臣大久保公哀悼碑」があります。東京メトロ赤坂見附駅から歩いて5分ほどです。

谷中霊園の6人の墓(東京都台東区)

台東区谷中7丁目、乙8号3側に、島田ら6人の墓が並んでいます。大久保利通の墓がある青山霊園とは、同じ東京の中で離れた場所に眠っています。

野田山墓地(石川県金沢市)

加賀藩主前田家の墓所がある金沢の野田山にも、島田の墓があるとされます。区画は確認できていないので、訪ねる場合は事前に調べてください。

島田が持っていた刀と鞘は、警視庁の資料室に残っているといわれますが、一般公開については確認できていません。

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参考資料

  • Wikipedia「島田一郎」
  • Wikipedia「紀尾井坂の変」
  • Wikipedia「忠告社」
  • 石川県立図書館「ふるさと石川の文学・郷土資料」(三光寺派の解説)
  • 遠矢浩規『利通暗殺—紀尾井町事件の基礎的研究』(1986年)
  • 野村昭子『加賀藩士族島田一良の反乱』(北国出版社、1990年)
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