加賀藩の歩み
幕末時の加賀藩は藩父「前田斉泰」と世子「前田慶寧」が佐幕派と尊皇派に分かれて対立しました。斉泰は「禁門の変」に兵を送ったが、士気も上がらずなすすべもなく兵を退いた世子「前田慶寧」を叱責の上で重臣2名を処罰しました。そして尊皇派藩士を一掃してしまいます。

加賀藩は「大政奉還」時、「徳川慶喜」を支持したが、旧幕府軍が「鳥羽・伏見の戦い」で敗北すると、方針を改めて新政府の北陸鎮撫軍に帰順しました。海防に力を入れていたので諸藩でも有数の海軍力を有し、維新後は海軍に多くの人材を輩出したと言われます。
旧幕府よりだった藩父「斉泰」は勤皇色が強かった世子「慶寧」に家督を譲るも、すでに名の知れた勤皇藩士の多くが処断されていたため加賀藩の地位は上がりませんでした。明治四年(1871年)、「廃藩置県」によって金沢県となり、同年十一月に大聖寺県を併せ、翌明治五年に石川県と改称しました。新川県が合併したのは明治九年です。明治十六年(1883年)旧越中国は富山県となり、現在の石川県の領域が確定しました。
加賀百万石・前田家
加賀藩は、加賀・能登・越中(現在の石川県・富山県)にまたがる百万石を領した、江戸時代最大の藩です。金沢城を居城とする藩主・前田家は、外様大名でありながら将軍家に次ぐ格式を誇り、その富と文化は「加賀百万石」として広く知られました。学問や工芸を手厚く保護し、豊かな地方文化を育んだ藩でもあります。
慎重に時流を見極めて
これほどの大藩であるだけに、幕末の加賀藩は、旧幕府と新政府のどちらにも決定的には傾かず、去就をめぐって慎重な姿勢を保ちました。しかし大政奉還・王政復古を経て時代が新政府へと大きく傾くと、加賀藩も新政府方につき、その大きな財力と兵力をもって北陸道の平定などに加わります。巨大な藩ゆえの重みと慎重さが、幕末の身の処し方にも表れた藩です。
★日本最大の藩が、なぜ主役になれなかったか
加賀百万石。石高では日本最大の藩です。それなのに幕末の物語に、前田家はほとんど出てきません。
—これは「何もしなかった」のではなく、大きすぎて動けなかったのです。
百万石を動かすということは、万を超える家臣とその家族の生活を賭けるということです。薩摩や長州のような「藩ごと転覆してもやり直せる」規模ではありません。失うものが大きすぎる家は、賭けができません。
禁門の変で、藩主が引き返した
それを象徴するのが、元治元年の禁門の変です。
当時、世子の前田慶寧が藩兵を率いて京都にいました。長州藩が兵を挙げて御所へ迫ったとき、慶寧は戦闘に加わらず、持ち場を離れて加賀へ帰ってしまいます。
長州に同情的だった、あるいは長州と幕府のどちらにも与したくなかった—理由は諸説あります。
いずれにせよ、これは朝廷と幕府の双方から見て許しがたい行動でした。父の斉泰は激怒し、慶寧を謹慎させます。側近も処分されました。—百万石の跡取りが、戦場から逃げた形になりました。
加賀藩はその後も態度を決めきれず、鳥羽・伏見の結果を見てようやく新政府側につきます。北越戦線などに藩兵を出しましたが、維新の功臣を一人も出せませんでした。
そのぶん、明治は苦しかった
百万石の代償は、維新後に来ます。
家臣の数があまりに多かったのです。廃藩置県で禄を失った士族の数は、他藩とは桁が違いました。金沢の街は困窮した士族であふれます。
慶寧は藩主になってから、卯辰山を開いて窮民の救済と産業の場をつくろうとしました。—遅すぎたかもしれませんが、彼なりの答えでした。
加賀藩は、「幕末に何もしなかったこと」自体が一つの答えだった藩です。賭けに乗らなかったから明治を静かに迎え、そして賭けに乗らなかったから、新政府に席を持てませんでした。
討薩に呼応すると宣言した藩が、四か月後に北越で七千人を動かしました
慶応四年一月六日、加賀藩は幕府側に立つと言っています
加賀藩は「態度を決めきれなかった」と語られます。ただ、決めきれなかったというより一度はっきり決めて、それをひっくり返したのが実際のところです。
金沢市立玉川図書館近世史料館の資料によれば、慶応四年(1868年)一月六日、前田慶寧は「徳川慶喜の討薩に呼応して上洛、協力する」と宣言しています。石川県立歴史博物館も「鳥羽・伏見の戦いでは、前田家は徳川方として出兵します」と書いています。鳥羽・伏見の帰趨を見てから動いたのではなく、開戦の三日後に幕府側を選んでいたのです。
ところがその閏四月八日には、越中境に滞在していた一大隊を官軍として動員する通達が届き、十二日・十三日に越後へ向けて出発します。三か月あまりで立場が裏返りました。
北越に七千人、死傷二百八十人
そして北越での動きは、決して小さなものではありません。同資料が記す数字はこうです。
動員された加賀藩兵は七千人を超え、五月十六日に越後国大島村、六月十九日に山田村を海陸から攻撃、七月二十九日の長岡城再攻撃、そして鯨波の戦い。死傷者は二百八十人にのぼりました(同資料は別の箇所で「戦死者二百八十人以上」とも記しています)。指揮したのは銃隊馬廻頭の斎藤不兵衛、小川仙之助、簑輪知大夫、家老の津田玄蕃らです。
七千人という動員は、並の藩の総兵力を超えています。加賀藩は兵を出さなかったのではなく、出した。ただ、その七千人が誰の名前も歴史に残さなかった、というのが百万石の結末でした。→ 長岡藩
ペリー来航の翌年に、軍事総合学校を作っています
加賀藩が洋式軍備に無関心だったという印象も、資料を見ると逆です。
石川県の公式サイトは壮猶館(そうゆうかん)をこう説明しています。「ペリーの来航(1853年)により外国の侵略に対する危機感を覚えた加賀藩が、西洋式の軍事力強化を図るため、1854年に設置」した軍事総合学校。教えたのは「西洋式の軍事技術だけでなく、医学、数学、測量、航海術、合図法」で、合図法のなかで太鼓やラッパによる西洋式の軍楽も教科になっていました。
そのため石川県は「現在、『壮猶館』より早い時期に軍楽を教えたという記録は見つかっておらず、『壮猶館』が日本ではじめて、西洋音楽を教えた学校である可能性があります」とまで書いています。県自身が「可能性があります」という留保をつけているので、こちらもそのまま留保つきで書いておきます。
大砲も作っています。嘉永四年に鈴見鋳造所が建てられ、五基のタタラ炉で大砲と弾丸を生産しました。さらに嘉永六年十月に江戸の平尾下屋敷(現在の板橋区)で大砲製造を決定し、板橋区の公式ページによれば安政二年(1855年)夏までに青銅製西洋式十八ポンド砲などを二十門製造、「十三代藩主斉泰もそのでき栄えには満足していた」といいます。石神井川の水車を動力に使った鋳造場でした。文久二年(1862年)には軍艦「発機丸」を横浜で購入し、斉泰は嘉永六年に幕府へ海防意見書を提出しています。
ただし加賀藩の反射炉の存在はわかっていません。鈴見の設備は「タタラ炉五基」と記録されており、韮山や佐賀のような反射炉ではありません。壮猶館の生徒数や予算、成果を示す公的な数字も見つかりませんでした。
三十間長屋は、幕末に建てられた鉄砲蔵です
その軍備の話が、いまも金沢城に残る建物とつながります。
石川県の文化財ページによれば、金沢城三十間長屋は安政五年(1858年)の建築で、重要文化財の指定は昭和三十二年六月十八日。「幅三間、長さ二十六・五間の二階建の土蔵」で、「もとは軍備倉の堅固な造りで、干飯が貯えられていたというが、後に鉄砲蔵とも呼んだらしい」。もう一つの重要文化財石川門は天明八年(1788年)の再建で、指定は昭和二十五年八月二十九日です。
壮猶館で洋式砲術を教えていたのと同じ時期に建った鉄砲蔵が、いまも三の丸に立っている—加賀藩の幕末を体で確かめられる、数少ない場所だと思います。
天守を失ったのは慶長七年、落雷でした
金沢城について、一つ整理しておきます。天守が焼けたのは慶長七年(1602年)十月晦日の落雷です。石川県の金沢城公園の公式説明に「落雷によって炎上・焼失」し、「その後は再建されることなく物見を兼ねた三階櫓が建てられました」とあります。
よく混同されるのが寛永八年(1631年)の火災で、こちらは城下の大火で本丸御殿と、天守の代わりに建っていた三階櫓が失われたものです。天守を失ってから三十年後の話になります。以後も宝暦九年(1759年)、文化五年(1808年)、そして明治十四年(1881年)の陸軍の失火で御殿や櫓のほとんどを失いました。城跡は明治四年以降兵舎、昭和二十四年からは金沢大学のキャンパスでした。
復元は平成十三年(2001年)の菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が最初で、石川県は「金沢城公園で初めての復元建造物」と書いています。平成二十七年(2015年)に橋爪門二の門、令和二年(2020年)七月十八日に鼠多門・鼠多門橋が一般公開されました。鼠多門は県公式が「全国の城郭建築では例のない、黒い海鼠漆喰が特徴の門」とし、明治期の焼失から「およそ百四十年ぶり」の復元だとしています。国史跡の指定は平成二十年六月十七日、指定面積は二十七万五千百五十五・一四平方メートルです。
兼六園と、名付けたのは誰かという問題
兼六園の特別名勝指定は昭和六十年三月二十日、指定面積は十万七百四十平方メートル。始まりは延宝四年(1676年)に五代藩主前田綱紀が造った蓮池亭・蓮池庭です。
面白いのは命名の主体が公式間で違うことです。金沢市は「文政五年(1822年)、十二代藩主斉広が千歳台一帯を取り込んだ広大な庭を整備し、兼六園と命名されました」とし、石川県は「松平定信により名付けられた」と書いています。庭の完成年も金沢市が「嘉永四年(1851年)」、石川県が「文政年間から嘉永年間(1818〜1853)にかけてほぼ完成」です。日本三名園については石川県が「水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに、日本の三名園と称されている」という受動形で書いていますので、こちらも「称されている」に合わせます。
尾山神社は明治六年(1873年)に旧藩士らが発起人となって金沢城内金谷出丸の一角へ移り、尾山神社となりました。祭神は前田利家。異国風の神門は明治八年(1875年)竣工です。日本100名城では三十五番(公益財団法人日本城郭協会、2006年2月13日選定)。
金箔は、幕府が禁じていた産業でした
加賀の産業で幕末と直結するのは、意外にも金箔です。
金沢市立安江金箔工芸館の説明をたどると、こうなります。文禄二年(1593年)に前田利家が肥前名護屋の陣中から「七尾で金箔を、金沢で銀箔を打つように命じた」のが始まり。ところが寛文七年(1667年)に幕府が地金管理を開始し、元禄九年(1696年)に江戸へ箔座が設置されて、全国の金・銀箔の製造と販売が禁止されます。さらに文政三年(1820年)と文政七年(1824年)に幕府は箔打禁止令を出しました。
そして統制が解除されたのは明治二年(1869年)、金座・銀座が廃止されたときです。明治三十四年(1901年)には箔が金沢市の産物として羽二重に次ぐ地位を占めるまでになりました。
幕府の禁令下で技術をつなぎ、幕府が倒れた翌年に解禁されて一気に伸びた—加賀藩が政治で席を取れなかった代わりに、こういう形で明治に食い込んだ産業がありました。現在の全国シェアについては、石川県中小企業団体中央会の資料が「全国生産の九十九%以上」としています。いっぽう九谷焼は明暦年間(1655年頃)、加賀友禅は江戸中期の起源で、いずれも幕末とは関係がありません。
慶寧は侯爵になっていません
最後に人の整理です。前田慶寧は文政十三年五月四日生まれ、明治七年(1874年)五月十八日没、四十五歳。襲封は慶応二年、明治二年六月十七日に版籍奉還が認められて金沢藩知事となり、明治四年七月十四日の廃藩置県で職を解かれて東京へ移りました。
ここが要注意で、慶寧は華族令(明治十七年)より前に亡くなっているため、侯爵にはなっていません。侯爵になったのは長男の前田利嗣で、明治十七年七月のことです。利嗣は岩倉使節団の一員としてイギリスに留学し、育英事業に力を注いだ人でした。
父の前田斉泰は1811年生〜1884年没。十一代将軍徳川家斉の娘溶姫を迎えたのが文政十年(1827年)で、このとき建てられた御守殿門が、いまの東京大学の赤門です。東京大学の公式ページも「赤門は一人の女性のために造られました」と書いています。百万石の門が、いまは大学の門として残っているわけです。
藩校は寛政四年(1792年)、十一代藩主前田治脩が文学校明倫堂と武学校経武館を同時に開きました。扁額は金沢市指定文化財で、明倫堂のものは初代学頭の新井白蛾の書です。
県の変遷も少し変わっています。明治四年の廃藩置県で金沢・大聖寺・七尾の三県が置かれ、明治五年に金沢県を石川県と改称して県庁を美川へ移し、明治六年に県庁が金沢へ戻りました。県庁が石川郡の美川にあったのは一年ほどで、県名だけがそのまま残ったことになります。福井県の分離は明治十四年、富山県は明治十六年です。→ 福井藩・岡山藩
加賀藩をもっと詳しく
先祖の戦国武将・前田利家
藩祖の前田利家は、尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子)の生まれです。天文二十年(1551年)ごろから織田信長に仕え、赤母衣衆として戦場を駆けました。天正九年(1581年)に能登一国を与えられ、天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いののち羽柴(豊臣)秀吉に従い、本拠を能登の小丸山城から加賀の金沢城へ移しました。豊臣政権では五大老の一人となり、秀吉の死後は徳川家康と並ぶ大老の筆頭格でしたが、慶長四年(1599年)閏三月に大坂で亡くなりました。
藩の成り立ち
利家の跡を継いだ利長は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いののち、弟・利政の旧領や西軍についた大名の領地を加えられ、加賀・能登・越中の三国にまたがる大領を築きました。寛永十一年(1634年)の領知朱印状で、三国内の表高は百十九万二千七百六十石と定められています。
三代利常は、隠居後も幼い五代綱紀の後見として藩政を見ました。慶安四年(1651年)から明暦二年(1656年)にかけて行われた「改作法」はその代表で、十村(とむら)と呼ばれる有力農民を中心に村々を治める仕組みを整え、村ごとの年貢率を一定にし、家臣(給人)が農民を直接支配することを禁じました。綱紀は学者を招いて学問を盛んにした名君として知られています。
重臣としては「加賀八家」と呼ばれる人持組頭の八家があり、いずれも一万石以上の禄を持っていました。人持組全体では、千石ほどから一万石以上まで約七十家があったとされます。
本家と分家・親戚の家
寛永十六年(1639年)、利常は隠居にあたって次男の利次に富山藩十万石、三男の利治に大聖寺藩七万石を分け与えました。これにより本藩は百二万五千石となります。このほか、利長・利常の兄弟にあたる前田利孝を祖とする上野国の七日市藩一万石も、前田家の別家です。
明治以降も分家とのつながりは続きました。七日市藩の知藩事だった前田利昭子爵の五男・利為(としなり)は、明治三十三年(1900年)に本家十五代当主・前田利嗣侯爵の婿養子となり、本家を継いでいます。
藩主家の子孫・明治以降
前田利為は陸軍大将まで進んだ軍人で、大正十五年(1926年)には前田家に伝わる古典籍や美術品を守るため育徳財団(のちの前田育徳会)を設立しました。同じ年、本郷の邸地を東京帝国大学に譲る代わりに駒場の土地を得て新しい本邸を建てており、この旧前田家本邸はいまも東京都目黒区の駒場公園に残っています。利為は昭和十七年(1942年)九月、ボルネオ沖で搭乗機が消息を絶ち、亡くなりました。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、百二万五千石のこの藩はおよそ二万四千九十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。本文で紹介した北越戦争での七千人余りという動員は、この目安のおよそ三割にあたります。
参考:Wikipedia「加賀藩」「前田利家」「前田利為」、コトバンク「改作法」
場所・アクセス・地図
あわせて読みたい(現地取材)
この藩が持っていた艦船
加賀藩(金沢藩)の艦船として当サイトで扱っているのは一隻です。
- 駿明丸/輸送船
幕末の艦船を二十八の勢力に分けて並べると、そのうち十四は一隻しか名前が残っていません。蒸気船は買うだけでなく、燃料を手配し、機関を扱える者を育て、修理の場所まで用意しなければ動きません。一隻を持つことさえ重い買い物でした。



