大館城の戦いとは?南部の盛岡藩が秋田に攻めこみ大館城を落とした戊辰戦争の一戦を図解でわかりやすく—十二所から大館奪還まで

慶応4年(1868)8月9日の朝。南部(盛岡藩)領の鹿角から、新式の銃と大砲をそろえた盛岡藩の兵が、久保田藩(秋田藩)の国境の町・十二所へなだれこみました。率いるのは盛岡藩の家老・楢山佐渡。奥羽越列藩同盟を抜けて新政府についた久保田藩を討つための出兵でした。

盛岡藩は十二所・扇田を破り、8月22日には大館城を落とします。しかし久保田藩は佐賀藩の援軍を得て反撃し、9月6日には大館を取り戻しました。この記事では、南部藩が自分から攻めこんだ唯一の大きな戦い「大館城の戦い」を、十二所での開戦から大館の奪還まで、進軍図とイラストで解説します。

目次

大館城の戦いとは?ひとことで言うと

奥羽越列藩同盟を抜けた久保田藩を討つため、盛岡藩が北東の鹿角から秋田領に攻めこみ、十二所・扇田を破って大館城を落とした戦いです。秋田戦争の北の戦線(南部・秋田戦線)の中心になった戦いで、久保田藩はいったん大館を失いましたが、約2週間後に取り返しています。

日時 慶応4年8月9日(十二所の開戦)〜8月22日(大館城の落城)。9月6日に久保田藩が大館を奪還
場所 出羽国秋田郡の十二所・扇田・大館(現在の秋田県大館市)
盛岡藩 総大将・家老の楢山佐渡。向井蔵人・桜庭祐橘らの諸隊
久保田藩 大館城代・佐竹大和、十二所の守将・茂木筑後、家老・須田政三郎。弘前藩の応援部隊、のちに佐賀藩の援軍
兵力(おおよそ) 盛岡藩 約1,000〜3,000人(新式銃・大砲) 対 久保田藩 300〜500人あまり(火縄銃が中心)
結果 盛岡藩が大館城を落とした。しかし佐賀藩の援軍を得た久保田藩が反撃し、9月6日に大館を奪還。盛岡藩は9月25日に降伏した

なぜ盛岡藩は秋田に攻めこんだのか

同盟を抜けた久保田藩

奥羽越列藩同盟には、はじめ久保田藩(佐竹家)も加わっていました。しかし久保田城下には、奥羽鎮撫総督の九条道孝や副総督の沢為量、参謀の大山格之助らが集まっていました。城内では新政府につくべきだという勤王派と、同盟を守るべきだという派が激しく争い、7月4日、藩主の佐竹義堯は同盟を抜けることを決めます。このとき、久保田に来ていた仙台藩の使者11人が斬られ、首をさらされました。

久保田藩主・佐竹義堯の肖像写真
久保田藩主・佐竹義堯(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

同盟の側から見れば、久保田藩は裏切り者です。南からは庄内藩が、そして北東からは盛岡藩が、久保田藩に攻めこむことになります(秋田戦争とは)。

城の大広間で同盟を抜けるかどうか激しく言い争う藩士たち
同盟に残るか、新政府につくか。久保田城では藩士たちの激しい論争が続いた(イメージ)

楢山佐渡の決断

盛岡藩(南部家)の中でも、同盟につくか新政府につくかで意見は割れていました。そこへ京都から戻ってきたのが、筆頭家老の楢山佐渡です。楢山は京都で西郷隆盛らと会い、その態度に強い不信を抱いていました。楢山は同盟の側に立つことを決めます。京都では、これに反対した目付の中嶋源蔵が切腹して諫めましたが、楢山の決意は変わりませんでした。帰国した楢山は、藩内の反対派をおさえて藩論を同盟の側にまとめます。

盛岡藩家老・楢山佐渡の肖像
盛岡藩の家老・楢山佐渡(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

一方、盛岡藩と縁の深い八戸藩や、盛岡藩の重臣・遠野南部家は新政府寄りで、この戦いには加わっていません。

手薄だった秋田の北

このころ久保田藩の主力は、南から攻めてくる庄内藩との戦いに追われていました(清川口の戦い・新庄の戦い)。8月1日、十二所の守将・茂木筑後は、鹿角に新しい銃を持った兵が集まっていることに気づき、援軍を求めます。しかし久保田の藩庁はこれをあまり重く見ず、砲術所の総裁だった須田政三郎を家老にして、わずかな手勢とともに送っただけでした。

両軍の顔ぶれと兵力

盛岡藩

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
盛岡藩 南部家
20万石
総大将・楢山佐渡。向井蔵人・桜庭祐橘・石亀左司馬・南部吉兵衛らの隊。藩士のほか農兵やマタギ兵も加わった。十二所の開戦時は本道に515人、葛原口に600余人、別所に200余人。8月20日の再侵攻では約3,000人

久保田藩と援軍

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
久保田藩 佐竹家
20万石
大館城代・佐竹大和、十二所の守将・茂木筑後、家老・須田政三郎。十二所の兵は300人足らず、大館城の守りはマタギ隊や農兵を入れて500人あまり
弘前藩 津軽家
10万石
対馬寛左衛門の銃士隊78人が大館に加わった。鉄砲100挺と弾1万発も送ったが、それ以上の出兵には慎重だった
佐賀藩 鍋島家
35万7千石
8月28日、最新の銃砲を持つ遊兵隊300人がきみまち阪に着き、反撃の主力になった

兵力と装備を比べる

盛岡藩 久保田藩
兵力 開戦時 約1,300人、再侵攻時 約3,000人 十二所 300人足らず、大館城 500人あまり
銃 新式の銃をそろえていた 火縄銃がほとんどで、新式のゲベール銃はわずか5挺
大砲 大砲を持ちこみ、大館城の大手門を砲撃で壊した 木砲(木でつくった大砲)なども使った
弱み 本国から遠く、占領地で村を焼いたため住民を敵に回した 主力は南で庄内藩と戦っており、十二所と大館城の連絡もうまくいかなかった

戦いの流れ

大館城の戦いの進軍図
大館城の戦いの進軍図。青は盛岡藩の侵攻(8月)、赤は久保田藩・佐賀藩の反撃(9月)(イメージ)

8月8日:花輪の出陣式

8月8日の夜、盛岡藩は鹿角の花輪の御官所に、銃隊・農兵・マタギ兵を残らず集めました。楢山佐渡が玄関に立ち、目付が軍令を読み上げたあと、兵たちに酒がふるまわれます。兵たちは合図とともに、国境の十二所へ向けて出陣しました。久保田藩には、白石同盟(奥羽越列藩同盟)を抜けたことを責める戦書が届けられます。

かがり火の中で兵を見下ろす緋色の陣羽織の家老と酒を飲む兵たち
8月8日夜、花輪の御官所での出陣式。農兵やマタギ兵も加わった(イメージ)

8月9日:十二所、わずか1時間で破られる

十二所の守将・茂木筑後は戦書への返事を待ってもらおうと使者を出しましたが、帰る使者に盛岡藩側から銃が撃ちかけられ、戦いが始まりました。午前8時、盛岡藩兵は本道・米代川の対岸・別所の三方から攻めこみます。国境の沢尻村はたちまち破られ、秋田兵は三階橋をはさんで応戦しましたが、1時間ほどで総退却となりました。しんがりの兵は十二所の本陣に火を放って退いています。このしんがりの一人が、のちに大村益次郎を襲うことになる金輪五郎でした(金輪五郎・団伸二郎とは)。

十二所で橋をはさんで撃ち合う秋田の兵と南部の兵
8月9日、十二所の戦い。火縄銃の秋田兵に、新式銃の盛岡藩兵が押し寄せた(イメージ)

8月11日〜12日:扇田の酒宴と神明社の夜襲

11日、盛岡藩兵は扇田村を占領します。村人たちは、黒い軍服に猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織をまとった楢山佐渡の姿を見て、一目で総大将とわかったといいます。このとき十二所の兵は、扇田の村人に盛岡藩兵を酒と料理でもてなさせ、酔いつぶれたところを襲う計略を立てていました。

寺の広間で南部の兵を酒と料理でもてなす村人たち
扇田の村人が盛岡藩兵を酒と料理でもてなした。その裏には十二所勢の計略があった(イメージ)

ところが楢山は、兵に酒はほどほどにするよう命じ、夜のうちに主力を扇田神明社の境内に移していました。12日の午前4時、十二所の決死隊240人が濃い霧の中で襲いかかりましたが、敵の居場所を探すのに手間取ります。盛岡藩側では槍の内田大内蔵と剣の達人・和井内捨蔵が踏みとどまって味方を立て直し、激しい斬り合いになりました。双方に多くの死傷者が出て、盛岡藩はいったん国境まで兵を引きます(扇田神明社畷の戦い)。

濃い霧の神社で奇襲を受け、槍と刀で立ちはだかる南部の武士
8月12日未明、濃い霧の扇田神明社への夜襲。槍と剣の達人が踏みとどまった(イメージ)

8月20日:扇田、焼かれる

兵を3,000人ほどに増やした盛岡藩は、20日にふたたび攻めこみます。楢山佐渡みずから本道で指揮をとり、日暮れまでに扇田まで攻め寄せました。盛岡藩は、12日の夜襲は村人が手引きしたものだと決めつけ、扇田村に火を放ちます。400戸あった村は、寺など6戸を残して焼けてしまいました。この戦いでは、秋田側の女性の軍夫・山城ミヨが流れ弾に当たって亡くなっています。ミヨはのちに、靖国神社にまつられた最初の女性になりました。

燃える扇田村と家財を背負って逃げる村人
8月20日、扇田村は火を放たれ、400戸のうち6戸を残して焼けた(イメージ)

8月22日:大館城、落ちる

扇田を失った久保田藩は、大館城のまわり一里あまりに500人あまりの兵を並べて守りを固めました。21日、盛岡藩は米代川を渡って攻め寄せ、夜には山王台で暗闇の撃ち合いになります。そして22日の朝5時すぎ、一発の大砲を合図に総攻撃が始まりました。

久保田藩の兵は一時押し返したものの、盛岡藩の精鋭に挟み撃ちにされて崩れていきます。弘前藩の応援部隊も支えきれませんでした。城代の佐竹大和は城にこもって死ぬ覚悟でしたが、家臣に諫められ、午前8時前に城に火を放って退きます。午前9時前、盛岡藩兵が砲撃で壊した大手門と東門からなだれこみ、大館城は落ちました。

火を放った大館城を後にする城代と秋田の兵
8月22日朝、城代の佐竹大和は大館城に火を放って退いた(イメージ)

この日の久保田藩の戦死者は28人、負傷者は19人。盛岡藩の戦死者は2人、負傷者は2人だったと伝わります。大館の町は29軒を残して焼けました。昼すぎに大館に入った楢山佐渡は、町の役人たちを集め、「これからは南部の領地とし、3年間の年貢を免じる」と布告しました。

焼け跡の町で布告を読み上げさせる緋色の陣羽織の家老
焼け跡となった大館で、楢山佐渡は「3年間の年貢を免じる」と布告した(イメージ)

8月25日〜29日:きみまち阪で踏みとどまる

大館を追われた久保田藩は、南西の荷上場村に本陣を移し、険しい地形で知られるきみまち阪を守りの線にしました。28日、盛岡藩はきみまち阪を抜こうと攻め寄せましたが、久保田藩兵は地形を生かしてこれを防ぎます。その夜、佐賀藩の遊兵隊300人が最新の銃砲を持って到着しました。

29日は、数歩先も見えないほどの濃い霧の朝でした。久保田藩と佐賀藩は総攻撃に出て、前山村・坊沢村から盛岡藩兵を追い払いました。

濃い霧の中、坂道を進む佐賀藩兵と秋田の兵
8月29日、濃い霧の朝。最新の銃砲を持つ佐賀藩兵とともに、久保田藩は反撃に出た(イメージ)

9月2日:岩瀬の戦い、そして大館奪還

9月2日の朝6時、佐賀藩の大砲を合図に、岩瀬村で久保田藩側の総攻撃が始まりました。南部・秋田戦線でいちばん大きな戦いです。佐賀兵でさえ一時は退くことを考えたほどの激戦で、楢山佐渡も逃げてくる兵を厳しく叱りつけて戦わせました。しかし正午ごろには勝負がつき、盛岡藩兵は退きます。米代川の沿岸にいた兵は退路を断たれ、川を渡る途中で多くが命を落としました。

盛岡藩は退路を断たれることを恐れ、9月5日の夜に大館から兵を引きます。6日、久保田藩は戦わずに大館を取り戻し、7日には国境の十二所も回復しました。

米代川を渡って退く南部の兵と馬上の家老
9月2日、岩瀬の戦いに敗れ、米代川を渡って退く盛岡藩兵(イメージ)

戦いのあと

盛岡藩の降伏

このころ、米沢藩や仙台藩が次々に新政府に降り、同盟は崩れていきました。盛岡藩は9月22日に降伏の嘆願書を送り、9月25日、国境の沢尻村で正式に降伏します。同じころ、北の野辺地では弘前藩と盛岡藩の戦いも起きていました(野辺地戦争とは)。

楢山佐渡の最期

戦いのあと、盛岡藩主の南部利剛は隠居させられ、20万石の領地を取り上げられて、旧仙台藩領の白石へ13万石で移されました(翌年、盛岡に戻ることを許されています)。そして新政府に逆らった責任を一身に負った楢山佐渡は、明治2年(1869)6月23日、盛岡の報恩寺で首をはねられました。39歳でした。辞世は「花は咲く 柳はもゆる 春の夜に うつらぬものは 武士の道」と伝わります。

傷あとの残った秋田

勝った久保田藩も、大きな傷を負いました。藩の土地の3分の2が戦火にかかり、人家の4割が焼けたといわれます。大館城も焼け落ち、城下は焼け野原になりました。

この戦いが示したもの(筆者の感想)

大館城の戦いを調べて強く感じるのは、「装備の差」と「人の心」の両方が勝敗を分けたということです。新式の銃と大砲をそろえた盛岡藩は、火縄銃ばかりの久保田藩をたちまち圧倒しました。けれども、佐賀藩の最新の銃砲が加わると、戦いの流れは一気に逆転します。幕末の戦いは、もはや武士の数や勇気だけでは決まらなくなっていました。

もう一つは、占領地での振る舞いです。盛岡藩は扇田や大館の村々を焼き、そのうえで「3年間年貢を免じる」と布告しました。焼かれた側の人々がその言葉をどう受け止めたかは、想像に難くありません。地元の人々の協力を得て戦った庄内藩(清川口の戦い)とは、対照的に見えます。

そして、同じ奥羽の隣どうしが、つい数か月前までは同盟の仲間だったのに、刀と銃を向け合うことになった悲しさです。楢山佐渡は、自分の信じる「義」のために戦い、最後はすべての責めを負って死にました。その生き方は、敵として戦った秋田の人々にとっても、忘れがたいものだったのではないでしょうか。

現地を歩く ― 大館城の戦いの史跡

  • 大館城跡(桂城公園)(大館市中城):佐竹大和が火を放って退いた大館城の跡。いまは公園になっています(大館城)
  • 扇田神明社(大館市比内町扇田):8月12日の夜襲で、十二所の兵が楢山佐渡の本陣を襲った場所
  • 十二所(大館市十二所):盛岡藩との国境の町。8月9日、戦いはここから始まりました
  • 青柳外記の墓(大館市):扇田の戦いで名乗りを上げて討ち死にした久保田藩の槍の名手の墓。盛岡藩はその首に回向料をそえて送り返したといいます
  • きみまち阪(能代市二ツ井町):久保田藩が踏みとどまった難所。いまは県立自然公園として知られます
  • 報恩寺・聖寿寺(盛岡市):楢山佐渡が最期を迎えた報恩寺と、墓のある聖寿寺
  • 清徳寺(能代市二ツ井町):この戦いで亡くなった佐賀藩士が葬られている寺

あわせて読みたい

参考にした資料

  • Wikipedia「秋田戦争」「十二所の戦い」「大館城攻城戦」「楢山佐渡」(『大館市史』『鹿角市史』『比内町史』、北鹿新聞社『ほくろく戊辰戦記』などを出典とする)

文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

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