宇都宮藩/戸田家7万7千石:戸田忠友 戊辰戦争では旧幕府軍と新政府軍との間で激戦となった宇都宮城

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宇都宮藩の歩み

元治元年(1864年)、常陸国筑波山にて「天狗党の乱」が起こり天狗党の一軍が宇都宮城にやって来ました。この時、宇都宮藩兵は日光の守備、山陵の家臣派遣などで藩内に兵が少なくなっていました。天狗党幹部の「藤田小四郎(藤田東湖の子息)」は尊王色が強い戸田家を味方にしようとしたが、中老の「県勇記」が巧みに交渉を引きのばしながら協力を拒否。天狗党の領内通過と日光参詣を認めるという条件で処理しました。

宇都宮藩/場所・アクセス・地図 戸田家7万7千石:戸田忠友【幕末維新写真館】

このとき藩主の戸田忠恕は江戸にいて、藩の実権は中老の県勇記が握っていました。しかし宇都宮藩の家臣には過激な尊攘派も多く、藩主や県の制止を聞かずに天狗党に加わる者が相次ぎます。県自身も天狗党とのつながりを疑われ、役を解かれて謹慎を命じられました。

天狗党の乱後、戸田忠恕は幕府からこの反乱を鎮圧できなかったことの叱責を受け、元治二年(1865年)二万七千八百五十五石の減封の上、隠居謹慎となり、一族の「忠友」を養子として五万石で継がせるという沙汰を受けました。

なお、この間に京都で起こった「禁門の変」では戸田家家臣の「廣田精一」と「岸上弘」が長州藩

浪士隊として関わり、真木保臣らと協力して幕府軍と戦いました。長州藩は敗走し、真木保臣ら十七名は天王山で自刃しました。

新たな藩主となった「戸田忠友」は慶応三年(1867年)七月に寺社奉行と奏者番を兼任します。そのすぐあと「徳川慶喜」が「大政奉還」して徳川幕府は消滅しました。「戊辰戦争」が勃発すると忠友は「徳川慶喜」の助命のために上洛を目指すが入京できず、逆に朝廷から大津で謹慎を命じられます。

藩主不在のため国許では再び県が主導権を握り、藩内の意見を統一して新政府に味方することを表明しました。しかし、旧幕府軍伝習隊「大鳥圭介」や新選組の「土方歳三」らが率いる軍の攻撃を受け、宇都宮城の攻防戦(宇都宮戦争)が行われました。一時は落城するも、新政府軍の支援もあり、再び城を取り戻しました。

戊辰戦争後、岡田と県は荒廃した宇都宮藩を復興させるために様々な改革を行うも、明治四年(1871年)の「廃藩置県」によって宇都宮藩は廃藩となり新たに宇都宮県が設置されます。さらに明治六年(1873年)には栃木県に編入されました。

天皇陵を修理した藩、そして焼けた城下

出発点は、一冊の本でした

宇都宮藩の幕末を語るとき、まず一人の学者から始めなければなりません。蒲生君平、明和五年(1768年)に宇都宮に生まれた人です。文化五年(1808年)、荒れ果てた歴代天皇の陵を実地に調べて『山陵志』を著しました。「前方後円墳」という言葉は、この本ではじめて使われています。君平は文化十年(1813年)に四十六歳で没しました。

それから半世紀、宇都宮藩はこの本を根拠に幕府へ山陵の修補を願い出ます。文久二年(1862年)閏八月、建白が採用されました。

三年で、百三十を超える陵を直しました

事業は文久三年(1863年)、神武天皇陵の修復から始まりました。宇都宮市の記録によれば、三年の月日を費やし、百三十を超える御陵を修復しています。慶応元年(1865年)までのことでした。

幕末といえば志士と戦の話になりがちですが、この藩がやったのは土木事業です。しかも自領ではなく畿内の、しかも千年以上前の墓を直した。朝廷がこれを高く評価したのは当然でした。当時の藩主戸田忠恕は弘化四年(1847年)の生まれで、安政三年(1856年)に十歳で家督を継いだ人です。事業が始まったとき、まだ十六か十七でした。従四位下に叙され、明治二年に従四位上、明治三十年(1897年)には従三位を贈られています。

宇都宮市には「宇都宮藩山陵修補関係図」五十二葉が伝わっており、昭和五十七年(1982年)三月十八日に市の文化財に指定されました。

家老が、大名になりました

この事業を現場で指揮したのが戸田忠至です。文化六年(1809年)の生まれで、もとは田中家の出。重臣の間瀬家を継いで間瀬姓を名のり、のちに戸田姓を許されました。弘化元年(1844年)に家老、安政三年(1856年)に上席家老。そして文久二年(1862年)十月に山陵奉行となります。

その功により、慶応二年(1866年)三月、藩主から一万石を分けられて高徳藩を興しました。家老が大名になったのです。天狗党の乱で改易の危機に立たされた宇都宮藩を救ったことも、その理由に数えられています。慶応三年七月には若年寄を兼ねました。幕府がなくなる直前に、幕府の役職に就いた最後の世代です。

天狗党の処分は、寸前で止まりました

本文にあるとおり、元治元年(1864年)の天狗党の乱で宇都宮藩は難しい立場に立ちます。幕府が用意していた処分は厳しいものでした。七万七千石のうち二万七千石を削って五万石とし、藩主忠恕は隠居謹慎、家督は養子へ、そのうえで棚倉への転封。事実上の取り潰しです。

これが延期され、中止になった背景には、正親町三条実愛の力があったと伝えられます。山陵修補で朝廷に功のある藩だったことが効いたわけです。ただしこの経緯については確かな出典を確認できていません。

慶応四年、二千四百戸が焼けました

そして戊辰戦争です。宇都宮城の戦いは二度ありました。慶応四年四月十九日、大鳥圭介を総監、土方歳三を参謀とする旧幕府軍およそ千人余が攻めて城は落ちます。四月二十三日、新政府軍が奪い返しました。土方歳三はこの二度目の戦いで松が峰門を守っているときに足を撃たれ、戦線を離れています。

被害は甚大でした。城内の建物は修道館など一部を除いてすべて焼け、二ノ丸御殿も三ノ丸の藩士の屋敷も二荒山神社も失われます。宇都宮市の記録は「宇都宮城と二千四百件の家屋が焼失し、死傷者は三百人以上」と記しています。天皇陵を直した藩の城下が、その三年後に焼き払われた。

釣天井は、なかったようです

宇都宮城といえば「釣天井」の話が有名です。元和八年(1622年)、日光参詣の帰路に将軍を仕掛けで殺そうとしたという事件で、標的は三代家光ではなく二代秀忠とされます。本多正純は同年十月に改易されました。

ただし事典類の評価ははっきりしています。「根拠となる証拠は薄弱」であり、秀忠が急に予定を変えたことと同じ年の改易という事実に、松平忠直の謀反の噂が結びついてできあがった巷説だろう、と。信じ難い、と明記されています。語り継がれるうちに標的が家光に変わった版も生まれました。

いまの城址公園

宇都宮城址公園が開園したのは平成十九年(2007年)です。戊辰戦争で焼けた本丸の一部を、文献と発掘の成果にもとづいて復元しました。清明台は木造二層本瓦葺で高さ約十メートル、富士見櫓も同じく約十メートル。土塀は延長約百六十メートル、土塁は高さ約十メートル・幅約二十メートル・延長約二百三十メートル、堀の幅は約十一メートルから二十六メートルあります。

藩校は修道館。江戸の攘夷論者である大橋訥菴が月に一度講義に来ていました。宇都宮は奥州道中と日光道中の追分にあたり、本陣と問屋場と旅籠が集まる宿場町として栄えた土地です。最後の藩主戸田忠友は明治二年(1869年)六月二十四日に知藩事となり、明治四年七月の廃藩置県を経て、宇都宮県から明治六年(1873年)に栃木県へ編入されました。明治十七年(1884年)に子爵。

宇都宮藩をもっと詳しく

藩の成り立ちと、めまぐるしい藩主の交代

戦国時代の宇都宮は、名門・宇都宮氏の本拠でした。しかし慶長2年(1597年)、宇都宮国綱は豊臣秀吉に所領を取り上げられて改易されます。その後、浅野長政の一時預かりを経て、慶長3年(1598年)に蒲生氏郷の子・蒲生秀行が18万石で入りました。

宇都宮藩の始まりとされるのは、関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601年)12月、奥平家昌が10万石で入ったときです。家昌の母は徳川家康の長女・亀姫で、家昌は家康の外孫にあたります。家康の死後に日光東照宮が造られると、宇都宮城は将軍が日光へ参詣する際の宿泊地となり、信頼の厚い譜代大名が置かれる城になりました。

その後の藩主家は、本多正純(元和5年・1619年入封)、奥平忠昌、奥平松平家の松平忠弘、本多忠平、奥平昌章、阿部正邦と、短い期間で次々に替わります。奥平忠昌の死後の寛文8年(1668年)には、寵臣の殉死が幕府の殉死禁止令に触れたことなどから、奥平家は2万石を減らされて出羽山形へ移されました。忠昌の法要の場で起きた刃傷事件は、のちに江戸三大仇討ちの一つ「浄瑠璃坂の仇討」へとつながっていきます。

戸田家が落ち着くまで

宝永7年(1710年)、越後高田藩から戸田忠真が入りました。高田から来た家臣は、宇都宮の雪の少なさを喜んだと伝わります。忠真は正徳4年(1714年)から享保14年(1729年)まで老中を務めました。しかし寛延2年(1749年)、戸田忠盈は肥前島原藩へ移され、代わって島原から深溝松平家の松平忠祇が入ります。

深溝松平家の時代は苦難続きでした。島原からの引っ越しに約6万8500両がかかって財政が苦しくなり、明和元年(1764年)の増税をきっかけに「籾摺騒動」と呼ばれる農民一揆が起こります。同じ年と明和3年(1766年)には大洪水、安永2年(1773年)には城下で1800戸あまりが焼ける大火に見舞われました。安永3年(1774年)、ふたたび島原との入れ替えで戸田忠寛が宇都宮に戻り、以後は戸田家が明治まで治めます。忠寛は寺社奉行・大坂城代・京都所司代を歴任しましたが、そのための出費で藩の財政は「火の車」になったといわれます。

日光に近い城下ならではの負担

宇都宮は奥州道中と日光道中の分かれ道にあり、将軍の日光社参では宿泊地となりました。宿所の修築や新築、街道の整備、人馬の徴発などの負担は大きく、奥平忠昌の時代の46年間だけで、江戸時代に19回あった将軍家の社参のうち13回が行われています。天保14年(1843年)の徳川家慶の社参が、将軍家最後の社参でした。一方で、人の往来が多いため旅籠が40軒ほどあり、質屋・薬種・酒造・呉服などの商売も栄えました。

坂下門外の変と宇都宮藩

幕末の宇都宮藩が幕府ににらまれるきっかけになったのが、文久2年(1862年)1月の坂下門外の変です。襲撃者の一人・河野顕三は宇都宮の尊攘派の菊池教中や児島強介と親交があり、襲撃には大橋訥庵の影響が大きかったとされます。大橋は、戸田家と縁のある佐野屋の婿養子だった縁で藩に招かれ、尊王攘夷を説いていた人物でした。文久元年(1861年)8月には、幕府が命じたアメリカ公使館の警護を藩が断ったこともあります。この苦しい立場を打開する策として出されたのが、本文にある山陵修補の事業でした。

領地のようす

幕末の領地は下野国の河内郡114村、塩谷郡43村、都賀郡8村、芳賀郡3村で、城のある河内郡が中心でした。明治維新の後には、塩谷郡の旧旗本領3村と、河内国志紀郡・丹北郡の旧幕府領の村も加わっています。藩の石高は7万7850石でしたが、天狗党の乱の後に一時5万石に減らされ、のちに戻されたのち、慶応2年(1866年)に戸田忠至へ1万石を分けて高徳藩が立ったため、6万7850石となりました。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、7万7850石(戸田家が長く治めた時期の石高)のこの藩はおよそ千八百三十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「宇都宮藩」

場所・アクセス・地図

宇都宮の現地を歩いた記録

宇都宮藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。

残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

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