この記事は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
史実をふまえたうえで、「もしあのとき別の道を選んでいたら」を管理人なりに考えるシリーズです。前半は史料にもとづく史実、後半の「もしも」の部分は管理人の考え(推測)です。

徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府の15代、そして最後の将軍です。将軍だったのは、わずか1年足らず。そのあいだに大政奉還で政権を朝廷に返し、鳥羽伏見の戦いのあとは大坂城から江戸へ引き上げ、戦わずに新政府に従いました。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、主人公・小栗忠順が仕え、そして最後に小栗を罷免する主君として登場するはずです。「最後の将軍は何をして、何をしなかったのか」を、小栗との関わりも含めてたどります。
徳川慶喜は何をした人?—先に答え
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 身分 | 江戸幕府15代将軍(最後の将軍)。水戸藩主・徳川斉昭の七男で、一橋家を継いだ |
| 生没年 | 天保8年(1837年)〜大正2年(1913年)。数えで77歳 |
| いちばん大きな仕事 | 慶応3年(1867年)10月、大政奉還。260年あまり続いた幕府の政権を朝廷に返した |
| よく言われること | 鳥羽伏見の戦いのさなか、兵を残して大坂城から軍艦で江戸へ帰った |
| 小栗忠順との関係 | 将軍として小栗にフランス式の改革を任せたが、慶応4年正月、徹底抗戦を説く小栗を罷免した |
| その後 | 静岡で30年近く趣味に生きる。のちに公爵となり、東京で亡くなった |
▶ あわせて読みたい — 大河『逆賊の幕臣』関連
生い立ち—水戸の斉昭の子、一橋家へ
慶喜は天保8年(1837年)、水戸藩主・徳川斉昭の七男として、江戸の水戸藩邸で生まれました。幼名は七郎麻呂。斉昭の方針で、幼いころから水戸で育てられ、藩校・弘道館で学問と武芸を仕込まれます。
水戸藩は『大日本史』の編さんで知られ、天皇を尊ぶ「水戸学」の本場でした。慶喜がのちに朝廷と戦うことをためらった理由の一つに、この水戸の教えを挙げる人は少なくありません。
弘化4年(1847年)、11歳で御三卿の一橋家を継ぎます。名前の「慶」の字は、12代将軍・徳川家慶からもらったものです。

将軍になるまで—「英明」と期待されながら
慶喜は若いころから頭の切れる人物として評判で、13代将軍・家定の跡継ぎに推す声が高まりました(将軍継嗣問題)。父の斉昭や越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬らが慶喜を推す「一橋派」です。しかし大老・井伊直弼ら「南紀派」が推した紀州の徳川家茂が14代将軍に決まり、慶喜は安政の大獄で隠居・謹慎を命じられます。
桜田門外の変で井伊が倒れると、慶喜は文久2年(1862年)、将軍の補佐役である将軍後見職に就き、政治の表舞台に戻りました。その後は京都に腰をすえ、朝廷の警護を指揮する禁裏御守衛総督として、元治元年(1864年)の禁門の変では自ら兵を率いて長州軍と戦っています。
| 年 | 年齢 | できごと |
|---|---|---|
| 1847年 | 11歳 | 一橋家を継ぐ |
| 1858年 | 22歳 | 将軍継嗣問題で家茂に敗れる |
| 1859年 | 23歳 | 安政の大獄で隠居・謹慎 |
| 1862年 | 26歳 | 将軍後見職に就く |
| 1864年 | 28歳 | 禁裏御守衛総督。禁門の変で長州軍と戦う |
| 1866年 | 30歳 | 家茂の死後、12月に15代将軍となる |
| 1867年 | 31歳 | 10月、大政奉還 |
| 1868年 | 32歳 | 鳥羽伏見の戦いのあと江戸へ。恭順・謹慎 |
年齢は数え年です。
将軍として何をしたのか—慶応の改革と、小栗・ロッシュ
慶応2年(1866年)7月、家茂が大坂城で亡くなり、12月、慶喜は15代将軍となります。慶喜が取り組んだのは、フランスの力を借りた幕府の立て直しでした(慶応の改革)。
- 軍の改革—フランスから軍事顧問団を招き、歩兵・騎兵・砲兵を西洋式に訓練
- 政治の改革—老中に陸軍・海軍・外国・会計などの担当を持たせ、今の内閣のような形に近づけた
- 横須賀製鉄所—フランスの技術で造船所の建設を進めた
- パリ万博—弟の徳川昭武を将軍の名代としてパリ万国博覧会に送った
この改革の実務を担ったのが、勘定奉行の小栗忠順と、フランス公使レオン・ロッシュでした。慶喜は大坂城でロッシュとたびたび会い、助言を受けています。

▶ 横須賀製鉄所とは/勘定奉行とは何をする仕事?小栗忠順の役職を解説
大政奉還—政権を朝廷に返す
慶応3年(1867年)、薩摩と長州は武力で幕府を倒す準備を進めていました。そこへ土佐藩の山内容堂が、「政権を朝廷に返してしまえば、倒す理由がなくなる」という案を慶喜に出します。
慶喜はこれを受け入れ、10月13日、京都の二条城に諸藩の重臣を集めて意見を聞き、翌14日、朝廷に政権の返上を申し出ました。これが大政奉還です。

慶喜のねらいは、政権を返しても、日本一の大名である徳川家が新しい政治の中心に残ることでした。しかし12月9日、薩摩などは朝廷で「王政復古の大号令」を出させ、慶喜に官位と領地の返上(辞官納地)を求めます。慶喜の計算は、ここで崩れました。
鳥羽伏見と、大坂城からの脱出
慶応4年(1868年)正月3日、京都へ向かった旧幕府軍と、薩摩・長州の軍が京都南郊の鳥羽と伏見でぶつかります。兵の数では旧幕府軍が上回っていましたが、新政府軍に「錦の御旗」が掲げられ、旧幕府軍は「朝敵」とされました。戦いは3日で旧幕府軍の敗北に終わります。

1月6日の夜、慶喜は「最後の一兵になっても戦う」と兵に告げたその夜に、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、老中らわずかな供とともに大坂城を抜け出し、大坂湾の開陽丸に乗って江戸へ向かいました。艦長の榎本武揚は城に上がっていて、置き去りにされています。

城に残された兵は、将軍がいないことを知って散り散りになりました。「総大将が兵を見捨てて逃げた」という評価は、この夜から始まります。

なぜ逃げたのか。朝敵になることを何よりも恐れたから、という説が有力です。水戸学で育った慶喜にとって、天皇の軍と戦うことはできなかった、というのです。ほかに、戦いを長引かせればイギリスとフランスが介入し、日本が分断されることを心配した、という見方もあります。
▶ 【幕末のもしも】慶喜が大坂城から逃げ帰らなかったら—海を押さえ、四方から京都を囲む
小栗忠順を罷免する
江戸に戻った慶喜は、江戸城で今後の方針を話し合わせます。勘定奉行の小栗忠順は、箱根で新政府軍を迎え撃ち、艦隊で海から背後を突く作戦を示して、徹底抗戦を説きました。
しかし慶喜は恭順の道を選び、1月15日、小栗を罷免します。このとき小栗が慶喜の袖をつかんで思いとどまるよう迫り、慶喜はそれを振り払って奥へ入った、という話が伝わっています。小栗は領地の上野国権田村へ移り、その3か月後、新政府軍に斬られました。

▶ 小栗忠順の罷免とは/【幕末のもしも】小栗忠順の作戦が採用されていたら/小栗上野介はなぜ殺されたのか
恭順と謹慎—江戸開城、水戸、そして静岡へ
慶喜は2月、上野の寛永寺に入って謹慎し、新政府への恭順を示しました。新政府との交渉は勝海舟らにゆだねられ、4月11日、江戸城は戦わずに明け渡されます。同じ日、慶喜は生まれ故郷の水戸へ移り、7月にはさらに駿府(静岡)へ移りました。徳川家は田安家の亀之助(徳川家達)が継ぎ、駿府70万石の一大名となります。
静岡の30年—写真と狩猟と自転車
明治2年(1869年)に謹慎を解かれたあとも、慶喜は政治に一切かかわらず、静岡で静かに暮らしました。そのかわり、趣味にはとことん打ち込んでいます。写真、狩猟、投網、囲碁、謡、油絵、そして当時めずらしかった自転車。自分で撮った写真も多く残っています。

明治30年(1897年)に東京へ移り、翌年には明治天皇に拝謁して、かつての「朝敵」の汚名は事実上晴れました。明治35年(1902年)には公爵となります。大正2年(1913年)11月22日、数えで77歳で亡くなり、上野の寛永寺の墓地(谷中霊園の隣)に葬られました。

慶喜はどう評価されているのか
| 見方 | 中身 |
|---|---|
| 逃げた将軍 | 鳥羽伏見で兵を残して江戸へ帰った。旧幕府方の多くが、これを許さなかった |
| 内戦を避けた人 | 戦わずに恭順したことで、江戸が戦場になるのを防ぎ、外国の介入も招かなかった |
| 改革者 | 慶応の改革で、幕府を近代的な政府に作り替えようとした |
| 小栗から見ると | せっかくの改革と海軍の力を、最後の場面で使わなかった主君 |
どの見方を取るかで、慶喜の姿は大きく変わります。大河ドラマで、小栗の目から慶喜がどう描かれるのかは、見どころの一つになりそうです。
徳川慶喜のゆかりの地
- 二条城(京都市)—大政奉還を諸藩の重臣に告げた二の丸御殿
- 大阪城(大阪市)—鳥羽伏見の戦いのとき、慶喜がいた城
- 弘道館(水戸市)—少年時代に学び、江戸開城のあと謹慎した水戸藩の藩校
- 寛永寺(東京都台東区)—江戸開城前に謹慎した寺。墓所もここにある
- 浮月楼(静岡市)—静岡時代の屋敷の跡

▶ あわせて読みたい
参考資料
- 家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館)ほか
- 写真:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
小栗忠順のゆかりの地をめぐる
小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。
- 【現地取材】小栗上野介ゆかりの地を1日でめぐる|築地・雑司ヶ谷・大宮・倉渕の回り方とモデルコース、ゆかりの地一覧(回る順番と移動時間、エリア別の一覧)
- 【現地取材】小栗上野介の生まれた場所はどこ?生誕地・神田駿河台の小栗家屋敷跡と横須賀のゆかりの地(ヴェルニー公園の胸像と、烏川の河原から運ばれた記念石。神田駿河台の生誕地)
- 小栗上野介ゆかりの地 ― 東京・横須賀・埼玉・群馬をたどる(まとめ)
- 倉渕・東善寺をめぐるモデルコース(都内発・車で1泊2日。墓所の東善寺、最期の地、普門院の首塚)
- 横須賀の日帰りコース(都内発。軍港めぐりで、小栗が始めた造船所を海から見られます)
倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。
泊まりがけで回るなら、宿は高崎駅の周辺か、倉渕から車で40〜50分ほどの伊香保温泉が便利です。横須賀は横須賀中央駅のまわりに宿が集まっています。空き室はじゃらんnet(高崎駅周辺・伊香保温泉・横須賀中央)で探せます(PR)。
小栗忠順をもっと知る本
記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。
※この欄の商品リンクはアフィリエイトリンク(PR)です。価格は掲載時点のものです。
2027年NHK大河ドラマ
『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集
放送日・キャスト28人と相関・あらすじ・見どころから、主人公・小栗忠順の生涯とゆかりの地の現地写真まで、1ページで徹底解説しています。
▶ 大河『逆賊の幕臣』の登場人物を知る
- 宅麻伸さんが演じる徳川家慶とは何をした人物か—「そうせい様」と呼ばれた十二代、天保の改革と阿部正弘の抜擢、黒船十九日後の死
- ふかわりょうさんが演じる徳川家定とは何をした人物か—黒船の直後に将軍となった「お飾り」の十三代、ほんとうに暗愚だったのか
- 神尾楓珠さんが演じる徳川家茂とは何をした人物か—十三歳で将軍、和宮と結ばれ、二十一歳で大坂城に没した十四代
- 岩田剛典さんが演じる阿部正弘とは何をした人物か—二十七歳で老中首座、黒船に「みんなの意見」を聞いた宰相
- 北村一輝さんが演じる鳥居耀蔵とは何をした人物か—天保の改革の「妖怪」、蘭学者を陥れ、二十三年の幽閉を生き延びた南町奉行
- 柄本明さんが演じる徳川斉昭とは何をした人物か—攘夷の旗頭「烈公」、慶喜を将軍にしようと井伊直弼と争った水戸藩主
- 岡部たかしさんが演じる井伊直弼とは何をした人物か—埋木舎の部屋住みから大老へ、小栗忠順を世に出し桜田門外に散った人
- 中村雅俊さんが演じる安積艮斎とは何をした人物か—小栗家の屋敷で塾を開き、二千人を育てた儒学者
- 宮野真守さんが演じる滝川具挙とは何をした人物か—小栗家の隣人、鳥羽街道で「通せ」と押し問答した大目付
- 高橋光臣さんが演じる駒井朝温とは何をした人物か—小栗の三歳上の幼なじみ、次男を小栗家の養子に出した大目付
- 芝大輔さんが演じる朝比奈昌広とは何をした人物か—小栗と同い年、将軍家定のそばに仕え、長崎奉行・勘定奉行を務めた旗本
- 甲本雅裕さんが演じる佐藤藤七とは何をした人物か—世界一周した上州権田村の名主、五十四歳の遣米使節従者
- 草川拓弥さんが演じる荒川祐蔵とは何をした人物か—遣米使節の従者から、小栗とともに斬られた家臣へ
- ANIさんが演じる武笠祐左衛門とは何をした人物か—小栗家の用人、主の首を大宮へ運んだと伝わる小姓・銀之助の父
- 瀧内公美さんが演じる勝民子(たみ)とは何をした人物か—貧乏旗本の勝海舟を支え、「勝のそばには埋めないで」と遺した妻
- 青木崇高さんが演じる栗本鋤雲とは—箱館の医者からフランス通の幕臣へ、小栗忠順を書き残した人
- 大河『逆賊の幕臣』朝廷側のキャストが発表されました—孝明天皇・明治天皇・岩倉具視・鷹司政通とは何をした人か
あわせて読みたい
- 小栗忠順(小栗上野介)とは何をした人物か
- 小栗忠順と勝海舟—同じ幕府に仕えた二人は、なぜ正反対の道を選んだのか
- 万延元年遣米使節とは
- 小栗忠順と勝海舟を比べる—石高・家格・役職の表でみる、二人の幕臣の階段と結末
- 小栗家とは—三河以来の旗本は何石で、城はあったのか


