幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る

安岡嘉助(やすおか かすけ)は、文久2年(1862年)4月8日の夜、土佐藩の参政・吉田東洋を斬った3人のうちの一人です。土佐の郷士の家に生まれ、土佐勤王党に加わった若者でした。
東洋を斬って脱藩したあと、嘉助は天誅組の挙兵に加わり、敗れて捕らえられ、京都の獄で命を落とします。資料は多くありませんが、分かっていることを、藩と身分、幕末の歩み、立場の変化、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にまとめます。
安岡嘉助とは—先に答え
| 藩・身分 | 土佐藩の郷士・安岡正理(文助)の二男。香美郡山北村(現在の高知県香南市)の生まれ |
|---|---|
| 生没 | 天保7年(1836年)11月22日〜文久4年(1864年)2月16日。享年29 |
| 名前 | 名は正定 |
| 一族 | 兄は戊辰戦争で戦死した安岡覚之助。一族に海援隊の安岡金馬、子孫に作家の安岡章太郎 |
| 幕末に何をした | 土佐勤王党に加わり吉田東洋を暗殺。脱藩後、天誅組の挙兵に参加 |
| 事件 | 吉田東洋暗殺(文久2年4月8日)、天誅組の変(文久3年) |
| 最期 | 天誅組の戦いで傷を負って捕らえられ、京都の六角獄舎に入れられたのち、文久4年2月16日に処刑 |
| 墓所 | 京都の霊山、香南市の安岡家墓地 |
土佐・山北村の郷士の家に生まれる
安岡嘉助は天保7年(1836年)、土佐藩の香美郡山北村(現在の高知県香南市香我美町山北)の郷士・安岡正理(文助)の二男として生まれました。兄の覚之助も勤王の志士で、のちに戊辰戦争の会津攻めで戦死しています。
安岡家は文化4年(1807年)に郷士の株を得た家で、一族からは海援隊の安岡金馬が出ています。嘉助の子孫にあたる作家の安岡章太郎は、一族の幕末を『流離譚』に描きました。
幕末に何をしたのか—東洋を斬り、天誅組へ
土佐勤王党と吉田東洋暗殺
嘉助は武市半平太の土佐勤王党に加わり、文久2年4月8日の夜、那須信吾・大石団蔵とともに吉田東洋を斬りました(吉田東洋暗殺とは)。
脱藩して京都へ
脱藩した3人は長州を経て京都に入り、久坂玄瑞の保護を受け、一時は京都の薩摩藩邸にかくまわれました。
天誅組の挙兵に加わる
文久3年(1863年)8月17日、土佐脱藩の吉村虎太郎らが公家の中山忠光を担いで大和で挙兵すると、嘉助も那須信吾らとともに加わりました。天誅組は五條の代官所を襲いましたが、翌日の八月十八日の政変で朝廷の方針が変わり、追討される側になります。8月26日の高取城攻めに敗れたのち、天誅組は各地を転戦しながら崩れていきました。
立場の変化—薩摩に残らなかった一人
藩の役職に就いた記録はありません。東洋を斬った3人のうち、大石団蔵は薩摩藩士に取り立てられ、のちにイギリスへ留学しました。しかし嘉助はその道を選ばず(あるいは選ばれず)、那須とともに天誅組の挙兵に身を投じます。同じ夜に刀を振るった3人の運命は、ここで大きく分かれました。
逸話
嘉助自身の逸話は、確かな形ではほとんど伝わっていません。映画『人斬り』(1969年)などの作品にも登場しますが、いずれも創作です。むしろ嘉助の名は、安岡一族の歴史の中で語り継がれてきました。安岡章太郎の『流離譚』は、勤王に生き、戦い、命を落とした一族の人びとを、残された手紙や記録からたどった作品です。
関わった事件
吉田東洋暗殺(文久2年4月8日)
藩主・山内豊範への講義を終え、雨の中を帰る参政・吉田東洋を、那須・大石・安岡の3人が襲って斬りました。東洋の死で改革派は退けられ、土佐勤王党が一時、藩の動きを大きく左右するようになります。
天誅組の変(文久3年8月〜9月)
天誅組は十津川郷士を加えて戦いを続けましたが、9月には鷲家口で壊滅し、那須信吾も戦死しました。嘉助は戦いのなかで傷を負い、捕らえられました。
最期—六角獄舎で処刑
捕らえられた嘉助は、京都の六角獄舎に入れられ、文久4年(1864年)2月16日に処刑されました。29歳でした。天誅組で捕らえられた者の多くが、この六角獄舎で命を落としています。辞世は伝わっていません。墓は京都東山の霊山と、郷里・香南市の安岡家の墓地にあります。
安岡嘉助ゆかりの地
安岡家住宅(高知県香南市)
香南市香我美町山北979-1。文政11年(1828年)に建てられた主屋などが残る郷士の屋敷で、平成17年(2005年)に国の重要文化財に指定されました。公開の状況は事前に確かめてください。
霊山(京都市東山区)
坂本龍馬らの墓がある京都霊山護国神社の墓地に、嘉助の墓もあります。
吉田東洋記念之地碑(高知市)
高知市追手筋2丁目、追手前小学校の東側の塀沿いに立つ碑です。
天誅組ゆかりの地(奈良県)
五條の代官所跡や、那須信吾らが戦死した東吉野村の鷲家口など、天誅組の足跡は奈良県の各地に残ります(那須信吾)。
幕末・明治の暗殺事件を読む
- 桜田門外の変(1860)—大老・井伊直弼
- 坂下門外の変(1862)—老中・安藤信正
- 吉田東洋暗殺(1862)—土佐藩の参政
- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 目明し文吉の殺害(1862)—三条河原
- 清河八郎暗殺(1863)—麻布一ノ橋
- 姉小路公知暗殺・朔平門外の変(1863)
- 芹沢鴨暗殺(1863)—壬生・八木邸
- 平岡円四郎暗殺(1864)—一橋慶喜の側近
- 佐久間象山暗殺(1864)—三条木屋町
- 原市之進暗殺(1867)—将軍慶喜の側近
- 赤松小三郎暗殺(1867)—東洞院通
- 坂本龍馬暗殺・近江屋事件(1867)
- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
- 横井小楠暗殺(1869)—寺町丸太町
- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
- 大久保利通暗殺・紀尾井坂の変(1878)
- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
▶ 暗殺した側の人物をもっと読む
- 有村次左衛門—桜田門外の変でただ一人の薩摩藩士
- 関鉄之介—桜田門外の変の現場の指揮役
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- 大橋訥庵—江戸の儒者。坂下門外の変を計画し、事件直前に捕らえられた
- 那須信吾—土佐勤王党。吉田東洋を斬った
- 大石団蔵(高見弥市)—吉田東洋を斬り、のち薩摩藩士として英国へ留学
- 岡田以蔵—土佐の郷士。「天誅の名人」と恐れられた
- 田中新兵衛—町人から薩摩藩士になった「人斬り新兵衛」
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- 河上彦斎—肥後の「人斬り彦斎」
- 依田雄太郎・鈴木豊次郎—将軍慶喜の側近・原市之進を斬った幕臣
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参考資料
- Wikipedia「安岡嘉助」
- コトバンク「安岡嘉助」(日本人名大辞典)
- Wikipedia「天誅組の変」
- 文化遺産オンライン「安岡家住宅 主屋」
- 安岡章太郎『流離譚』(講談社文芸文庫)


