文久3年(1863)8月、大和の五條で、尊王攘夷をかかげる浪士たちが兵を挙げました。主将に若い公家の中山忠光をいただき、土佐の吉村寅太郎らが中心となった「天誅組」です。彼らは幕府の代官所を襲い、天皇の直轄地を宣言しました。ところが、挙兵の翌日に京都で政変が起き、彼らはたちまち「暴徒」として追われる身となります。そして約40日後、大和の山中で壊滅しました。
この記事では、天誅組の変を、なぜ浪士たちが兵を挙げたのか、八月十八日の政変で何が変わったのか、高取城攻めの失敗から鷲家口での最期まで、進軍図を使ってわかりやすく解説します。のちの戊辰戦争よりも5年早い、「倒幕のさきがけ」と呼ばれた戦いです。
天誅組の変とは?ひとことで言うと
孝明天皇の大和行幸(攘夷を祈るための大和へのお出まし)にさきがけて、尊攘派の浪士たちが大和で挙兵し、幕府の五條代官所を襲った事件です。ところが翌日の八月十八日の政変で行幸は取りやめとなり、天誅組は大義名分を失いました。十津川郷士を加えて高取城を攻めましたが敗れ、諸藩の追討軍に追われて、9月下旬に鷲家口で壊滅しました。
| 期間 | 文久3年(1863)8月17日〜9月下旬。約40日 |
|---|---|
| 場所 | 大和国 五條(現在の奈良県五條市)から十津川、吉野の山中、鷲家口(東吉野村)まで |
| 天誅組 | 主将・中山忠光、総裁・吉村寅太郎・藤本鉄石・松本奎堂。はじめ約40人の浪士。十津川郷士を加えて千人あまり |
| 幕府側 | 高取藩のほか、紀州藩・津藩・彦根藩・郡山藩など、幕府の命を受けた諸藩の追討軍 |
| 結果 | 天誅組は壊滅。吉村寅太郎・藤本鉄石・松本奎堂らは討ち死にし、捕らえられた者の多くは京都で処刑。中山忠光は長州へ逃れたが、翌年に暗殺される |
なぜ浪士たちは兵を挙げたのか
攘夷の熱と、大和行幸の詔
文久3年の京都は、長州藩と尊王攘夷派の公家・浪士たちが朝廷を動かす時代でした。8月13日、孝明天皇が大和の神武天皇陵などに参拝し、攘夷を祈るという「大和行幸」の詔が出されます。尊攘派にとっては、天皇みずから攘夷の先頭に立つ、待ちに待った知らせでした。
「行幸の先駆け」として
これに応えたのが、土佐を脱藩した吉村寅太郎たちです。8月14日の夜、彼らは攘夷派の若い公家・中山忠光を主将にいただき、行幸の先駆けとなるべく京都を出ました。このとき集まった同志は38人で、そのうち18人が土佐、8人が久留米の脱藩浪士だったといわれます。中山忠光はこのときわずか19歳でした。


一行は伏見から船で大坂へ下り、堺に上陸して河内を通り、大和へ入ります。途中、河内の庄屋たちも加わりました。
8月17日、五條代官所の襲撃

8月17日の夕方、天誅組は幕府の天領を治める五條代官所を襲いました。代官の鈴木源内を斬り、代官所に火を放ちます。そして五條の桜井寺に本陣を置き、この地を天皇の直轄地とすること、この年の年貢を半分にすることを宣言しました。自分たちを「御政府」と名のったため、のちに「五條御政府」とも呼ばれます。

翌18日、桜井寺で組織も定められました。主将は中山忠光、総裁は吉村寅太郎・藤本鉄石・松本奎堂の3人。ほかに監察や砲隊、小荷駄(兵糧)の係などを置き、ひとつの軍の形をととのえました。
八月十八日の政変—大義名分を失う
ところが、まさにその8月18日、京都では大事件が起きていました。会津藩と薩摩藩が手を組んで孝明天皇を動かし、長州藩と尊攘派の公家たちを朝廷から追い出したのです(八月十八日の政変)。大和行幸は取りやめとなり、三条実美ら7人の公家は長州へ落ちていきました(七卿落ち)。
「行幸の先駆け」として挙兵した天誅組は、ここで大義名分を失います。朝廷の側から見れば、勝手に幕府の代官所を襲った「暴徒」になってしまったのです。それでも彼らは兵を引きませんでした。
十津川郷士を加え、高取城へ
千人にふくれあがった天誅組
天誅組は本陣を山深い天ノ川辻(天辻)に移し、吉村寅太郎らが十津川郷に入って協力を求めました。十津川郷は古くから朝廷に仕えてきた土地で、郷士たちは勤王の気風が強い人々です。その結果、およそ960人の十津川郷士が加わり、天誅組は千人あまりの軍にふくれあがりました。

ただ、急に集められた郷士たちは統制がとれておらず、武器も足りませんでした。休みや食事も十分に与えられないまま戦いに駆り出され、不満を口にした郷士が内通を疑われて斬られるという出来事まで起きています。
天誅組の武器
天誅組の武器は、河内の狭山藩などから取り上げたゲベール銃や槍、弓、刀などで、全体にとても貧弱でした。松の木をくりぬいて木製の大砲を十数門つくりましたが、まともに火を噴かず、戦いの役には立たなかったといわれます。
高取藩とは
天誅組の前に立ちはだかった高取藩は、植村家が治めた2万5千石の小さな譜代の藩です。寛永17年(1640)、幕府の大番頭だった植村家政が加増を受けて大名となったのが始まりで、それから幕末まで、植村家が高取城を守り続けました。
高取城は、標高およそ580メートルの高取山の上に築かれた山城です。山の上に高い石垣を幾重にもめぐらせた城で、美濃の岩村城・備中の松山城とともに日本三大山城に数えられます。江戸時代になって多くの山城が捨てられるなか、高取城は平地に下りることなく、山の上の城のまま幕末を迎えました。
高取藩は、小さな藩ながら尊王の気風もある藩でした。10代藩主の植村家教は儒学者の谷三山を招いて学び、尊王攘夷の考えに傾いています。ただ、幕府から大和の守りを任された譜代の藩として、勝手に兵を挙げた天誅組を城下に入れるわけにはいきませんでした。兵は少なくても、城には大砲や鉄砲がそろっていました。
天誅組の変のあと、高取藩は京都の警備にもあたり、戊辰戦争では新政府の側について京都御所を守りました。明治4年(1871)の廃藩置県で、高取藩はその歴史を終えます。
8月26日、高取城攻めの失敗
8月26日、天誅組は大和の高取城を攻めました。山の上に築かれた堅い城で、守る高取藩の兵は少数でしたが、大砲や鉄砲をそろえていました。坂を攻め上がる天誅組に城から砲火が浴びせられると、寄せ集めの軍はたちまち混乱して総崩れとなり、敗走します。この敗戦をきっかけに、隊から逃げ出す者も出はじめました。

追討軍に追われて—十津川郷士の離反
幕府は紀州藩・津藩・彦根藩・郡山藩などの諸藩に天誅組の追討を命じ、大軍で大和を取り囲みました。天誅組は山中で抵抗を続けましたが、敗退を重ね、しだいに追いつめられていきます。
さらに朝廷からは、天誅組を朝廷に背く者とする令旨が出されました。京都にいた十津川郷士が郷に戻って説得した結果、9月15日、天誅組の主力だった十津川勢は離反を決めます。郷士たちの代表だった野崎主計は、その責任を取って自害しました。9月19日、中山忠光はついに天誅組の解散を命じます。
9月24日、鷲家口の戦い
残った隊士たちは、伊勢方面へ抜けようと吉野の山道を進みました。しかし9月24日、東吉野の鷲家口で、待ち構えていた追討軍に捕捉されます。激しい戦いのなかで一行は散り散りになり、多くの隊士がこの山中で討ち死にしました。

総裁の松本奎堂と藤本鉄石はここで戦死し、深手を負っていた吉村寅太郎も、追討軍に見つかって最期をとげます。包囲を抜けられたのは、中山忠光とその護衛の池内蔵太・石田英吉ら、ごくわずかでした。捕らえられた隊士の多くは京都の六角獄に送られ、のちに処刑されています。
長州へ逃れた中山忠光も、元治元年(1864)11月、身を隠していた長州の地で刺客に殺されました。20歳でした。
戦いの流れ(文久3年)
| 月日 | 出来事 |
|---|---|
| 8月13日 | 孝明天皇の大和行幸の詔が出される |
| 8月14日 | 中山忠光を主将に、吉村寅太郎ら38人が京都を出る |
| 8月17日 | 五條代官所を襲い、代官・鈴木源内を討つ。桜井寺に本陣を置く |
| 8月18日 | 京都で八月十八日の政変。大和行幸が取りやめとなる |
| 8月下旬 | 本陣を天ノ川辻に移し、十津川郷士約960人を加える |
| 8月26日 | 高取城を攻めるが敗れる |
| 9月15日 | 十津川郷士が離反を決める |
| 9月19日 | 中山忠光が天誅組の解散を命じる |
| 9月24日 | 鷲家口の戦い。天誅組は壊滅する |
| 元治元年11月 | 中山忠光、長州で暗殺される |
この戦いが示したもの
天誅組の変は、わずか40日で終わりました。敗れた理由ははっきりしています。挙兵のよりどころだった大和行幸が翌日には消えてしまったこと、寄せ集めの兵と貧弱な武器では城ひとつ落とせなかったこと、そして頼みの十津川郷士が朝廷の令旨ひとつで離れていったことです。勢いだけで兵を挙げても、政局の風向きが変われば、たちまち孤立してしまう。天誅組はそれを身をもって示しました。
それでも、幕府の代官所を武力で襲い、天皇の直轄地を宣言したこの挙兵は、幕府に正面から刃向かった最初の武力蜂起のひとつでした。同じ年の10月には但馬で生野の変が起き、5年後には戊辰戦争で幕府そのものが倒れます。天誅組の変が「倒幕のさきがけ」と呼ばれるのは、そのためです。明治になって、吉村寅太郎は坂本龍馬・武市半平太・中岡慎太郎とともに、維新に功のあった土佐の志士として位を贈られています。
現地を歩く—五條と東吉野
奈良県五條市には、天誅組が襲った五條代官所の跡や、本陣を置いた桜井寺があります。天誅組が攻めた高取城跡は、山の上に高い石垣が残る日本有数の山城で、日本三大山城のひとつに数えられます。最後の戦いの地となった東吉野村には、吉村寅太郎の墓をはじめ、天誅組の隊士たちの墓や終焉の地の碑が点在しています。


高取城跡の石垣(写真:8-hachiro, CC BY-SA 4.0, Wikimedia Commons)
ゆかりの地をめぐる道順は、姉妹サイトの天誅組の歴史旅モデルコース|五條代官所跡・桜井寺で紹介しています。
筆者の感想
天誅組ゆかりの五條には、まだ行ったことはありませんが、思うことはあります。
大和行幸にさきがけて決起したのでしょうけど、結局その行幸は取りやめになってしまい、当初の予定が狂いましたよね。やはり、行幸が実施されてからの決起では遅いのでしょうかね。
一時はけっこうな人数になりましたけど、それもつかの間、追討を受けて壊滅。こうした各地での「さきがけ」の決起(義挙)で、優秀な人が数多く亡くなっていったのでしょうね。同じ年の但馬の生野の変(生野義挙)、平野国臣、そして関東でもさまざまな義挙がありました。
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参考資料
- 『五條市史』
- 『東吉野村史』
- 舟久保藍『実録 天誅組の変』(淡交社)
文:佐藤秀信
※進軍図・場面の絵はイラストです



