幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る

中村半次郎(なかむら はんじろう)は、幕末の「四大人斬り」の一人に数えられる薩摩藩士です。明治になってからは桐野利秋(きりの としあき)と名を改め、陸軍少将にまで出世しました。
「人斬り半次郎」の異名で知られますが、記録で確かめられる暗殺は、慶応3年(1867)の赤松小三郎の一件です。貧しい城下士の家から西郷隆盛の腹心となり、最後は西南戦争で城山に散りました。藩と身分、幕末の歩み、出世の経緯、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。
中村半次郎(桐野利秋)とは—先に答え
| 藩・身分 | 薩摩藩の城下士。鹿児島城下の吉野(現・鹿児島市)の生まれ。家は貧しく、畑を耕して暮らした |
|---|---|
| 生没 | 天保9年(1838)12月〜明治10年(1877)9月24日。享年40(生年は天保10年説もある) |
| 名前 | はじめ中村半次郎。維新後に桐野利秋と改めた |
| 幕末に何をした | 島津久光に従って上京し、中川宮(朝彦親王)の守衛を務める。西郷隆盛のもとで国事に奔走 |
| 出世の経緯 | 西郷に見込まれて腹心に。戊辰戦争の功で賞典禄200石、明治4年に陸軍少将 |
| 事件 | 慶応3年9月3日、京都・東洞院通で上田藩の兵学者・赤松小三郎を斬る(本人の日記に記録) |
| 最期 | 明治10年9月24日、西南戦争の最後の戦い・城山の戦いで戦死 |
| 墓所 | 鹿児島市の南洲墓地(西郷隆盛の墓の近く) |
藩と身分—貧しい城下士の子
半次郎は天保9年(1838)、鹿児島城下の外れ、吉野の地に城下士・中村家の子として生まれました。城下士は薩摩藩の中では本来れっきとした武士の身分ですが、父が罪を得て島に流されたため家は苦しく、半次郎は畑を耕して家族を養ったと伝えられます。
学問を積む余裕はありませんでしたが、剣の腕は早くから知られ、示現流の流れをくむ剣の使い手として名をあげました(薩摩藩)。
幕末に何をしたのか—京都で西郷の手足に
文久2年(1862)、島津久光が兵を率いて京都に上ったとき、半次郎もその一員として京都に入りました。やがて中川宮(朝彦親王)の屋敷の守衛を任され、京都の公家や諸藩の志士たちと顔をつなぎます。長州や水戸の志士とも交わりがあり、各方面の動きを探る役目も果たしたといわれます。
西郷隆盛が京都で薩摩藩の政治を動かすようになると、半次郎はその手足となって働きました。慶応3年(1867)の京都での日々は、本人の『京在日記』に書き残されています。
出世した経緯—西郷に見込まれて陸軍少将へ
戊辰戦争では東海道を進む軍に加わって江戸に入り、続く会津戦争では軍監として戦いました。会津若松城が開城したとき、城の受け取りの場に立ち会ったのも半次郎でした。この功で賞典禄200石を受けます。
明治になると桐野利秋と名を改め、明治4年(1871)に御親兵の大隊長から陸軍少将に、翌年には熊本鎮台の司令長官に任じられました。学問のない一兵卒からの出世として、当時から目をひく存在でした。
逸話
- 「人斬り半次郎」の名:この異名は、池波正太郎の小説『人斬り半次郎』などで広く知られるようになりました。実際に記録で確かめられる斬殺は赤松小三郎の一件で、「多くの人を斬った」という話の多くは確かめられていません。
- おしゃれな軍人:明治の桐野は洋装を好み、香水をつけていたと伝えられます。城山で戦死したときも、遺体から香水の香りがしたという話が残っています。
- 西郷への忠誠:明治6年(1873)、西郷が政府を去ると、桐野も陸軍少将の職を捨ててすぐに鹿児島へ帰りました。
関わった事件—赤松小三郎暗殺
慶応3年9月3日、半次郎は田代五郎左衛門とともに、京都の東洞院通で上田藩の兵学者・赤松小三郎を斬りました。赤松は京都で薩摩藩士にイギリス式の兵学を教えていた、いわば藩の「先生」です。議会政治の建白を幕府にも出していた赤松を、幕府に通じる者と疑ったためとされます(赤松小三郎暗殺とは)。
半次郎の日記には、この日赤松を討ち果たしたことがはっきり書かれています。実行犯が自分で記録を残している、幕末の暗殺では数少ない例です。
最期—西南戦争、城山に散る
鹿児島に帰った桐野は、西郷を慕う士族の若者たちを集めた私学校の中心人物の一人となり、自らは吉野の開墾に打ち込みました。
明治10年(1877)、私学校の生徒たちが政府の弾薬庫を襲ったことをきっかけに西南戦争が始まります。桐野は西郷軍の実質的な指揮をとる幹部として熊本城攻めから各地を転戦しましたが、政府軍に押されて鹿児島へ戻り、9月24日、最後の戦いとなった城山の戦いで戦死しました。享年40。同じ日に西郷隆盛も自刃しています。
中村半次郎(桐野利秋)ゆかりの地
南洲墓地(鹿児島市上竜尾町)
西南戦争で戦死した西郷軍の将兵が眠る墓地で、桐野の墓は西郷隆盛の墓のすぐ近くにあります。隣接して南洲神社・西郷南洲顕彰館があります。
桐野利秋誕生地(鹿児島市吉野町)
生まれ育った吉野の地に、誕生地を示す碑が立っています。
城山(鹿児島市城山町)
西南戦争最後の戦いの地です。展望台からは桜島がよく見えます。周辺には西郷洞窟など、最後の日々の跡が残っています。
赤松小三郎遭難の地(京都市下京区・東洞院通)
半次郎が赤松を斬った場所です。四条通の南、東洞院通の一帯です。
幕末・明治の暗殺事件を読む
- 桜田門外の変(1860)—大老・井伊直弼
- 坂下門外の変(1862)—老中・安藤信正
- 吉田東洋暗殺(1862)—土佐藩の参政
- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 目明し文吉の殺害(1862)—三条河原
- 清河八郎暗殺(1863)—麻布一ノ橋
- 姉小路公知暗殺・朔平門外の変(1863)
- 芹沢鴨暗殺(1863)—壬生・八木邸
- 平岡円四郎暗殺(1864)—一橋慶喜の側近
- 佐久間象山暗殺(1864)—三条木屋町
- 原市之進暗殺(1867)—将軍慶喜の側近
- 赤松小三郎暗殺(1867)—東洞院通
- 坂本龍馬暗殺・近江屋事件(1867)
- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
- 横井小楠暗殺(1869)—寺町丸太町
- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
- 大久保利通暗殺・紀尾井坂の変(1878)
- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
▶ 暗殺した側の人物をもっと読む
- 有村次左衛門—桜田門外の変でただ一人の薩摩藩士
- 関鉄之介—桜田門外の変の現場の指揮役
- 高橋多一郎—水戸藩の奥右筆頭取。桜田門外の変を計画し、大坂で自刃
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- 河本杜太郎・河野顕三—越後と下野の医師の子。坂下門外の変で闘死
- 大橋訥庵—江戸の儒者。坂下門外の変を計画し、事件直前に捕らえられた
- 那須信吾—土佐勤王党。吉田東洋を斬った
- 大石団蔵(高見弥市)—吉田東洋を斬り、のち薩摩藩士として英国へ留学
- 安岡嘉助—吉田東洋を斬り、天誅組に加わって処刑された郷士
- 岡田以蔵—土佐の郷士。「天誅の名人」と恐れられた
- 田中新兵衛—町人から薩摩藩士になった「人斬り新兵衛」
- 佐々木只三郎—見廻組の与頭。清河八郎暗殺を指揮した
- 江幡広光・林忠五郎—一橋家付きの水戸藩士。平岡円四郎を斬った
- 河上彦斎—肥後の「人斬り彦斎」
- 依田雄太郎・鈴木豊次郎—将軍慶喜の側近・原市之進を斬った幕臣
- 今井信郎—見廻組。近江屋事件への関与を明治に語った
- 渡辺篤—見廻組。晩年に「龍馬を斬った」と書き残した剣客
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- 大石鍬次郎—新選組の監察。油小路で伊東甲子太郎の殺害に加わった
- 津下四郎左衛門—備前の若者。横井小楠を斬り、森鷗外が描いた
- 神代直人—長州の攘夷派。大村益次郎襲撃の首謀者
- 金輪五郎・団伸二郎—大村益次郎を襲った8人の刺客。秋田の草莽と長州の脱藩士
- 島田一郎—加賀藩の足軽の子。紀尾井坂の変の首謀者
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- 幕末四大人斬りとは—4人を比べる
- 幕末・明治の暗殺事件 特集(年表と全事件の一覧)
✎ 筆者のひとこと
「人斬り半次郎」という呼び名ほど、確かな記録は多くありません。調べるほど、貧しさから剣一本で身を立て、最後まで西郷についていった不器用な人物の姿が浮かんできます。
最後は西南戦争で命を落としましたが、作戦の立て方など、もう少しやれることはあったのではないかと思ってしまいます。一方で、会津若松城の開城で新政府軍の受け取り役を務めた戊辰戦争のときが、人生でいちばんの晴れ舞台だったのかもしれません。
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- 薩摩藩
参考資料
- コトバンク「桐野利秋」(日本大百科全書・世界大百科事典ほか)
- コトバンク「赤松小三郎」
- 池波正太郎『人斬り半次郎』(新潮文庫)


