関鉄之介とは何をした人物か—桜田門外の変で現場を指揮した水戸藩士。郡奉行所からの抜擢、1年半の逃避行、斬首とゆかりの地

雪の桜田門外で井伊直弼の行列を待つ浪士たちと指揮役の関鉄之介の場面のイラスト

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関鉄之介(せき てつのすけ)は、安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で、襲撃の現場を指揮した水戸藩士です。自らは斬り込まず、全体を見渡す役として、大老・井伊直弼を討つ計画を最後まで動かしました。

事件のあと、鉄之介は1年半にわたって各地を逃げ続け、越後の温泉地で捕らえられて斬首されます。吉村昭の小説『桜田門外ノ変』の主人公としても知られる人です。藩と身分、幕末の歩み、抜擢の経緯、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。なお、確かな肖像は伝わっていません。

目次

関鉄之介とは—先に答え

藩・身分 水戸藩士。父は関新兵衛昌克。水戸の城下(現在の水戸市栄町のあたり)の生まれ
生没 文政7年(1824年)10月17日〜文久2年(1862年)5月11日。享年39
名前 諱は遠、号は士任など。変名は三好貫太郎
幕末に何をした 藩校弘道館で学び、北郡奉行所の与力から郡奉行・高橋多一郎に抜擢される。諸藩に井伊打倒を説いて回る
抜擢の経緯 北郡務方として大子の郷校建設や農兵づくりを進め、改革派の中心の一人に
事件 桜田門外の変で現場指揮。全体の統率は金子孫二郎
最期 約1年半の逃避行ののち越後の湯沢温泉で捕らえられ、文久2年5月11日、江戸・小伝馬町の牢で斬首
墓所 常磐共有墓地(水戸市)、小塚原回向院(東京都荒川区)

水戸藩士の家に生まれ、弘道館で学ぶ

関鉄之介は文政7年(1824年)、水戸藩士・関新兵衛昌克の子として、水戸城下の馬喰町片町(現在の水戸市栄町2丁目のあたり)に生まれました。藩校の弘道館で学び、徳川斉昭のもとで育った水戸学の尊王攘夷の考えに強く影響を受けます。

幕末に何をしたのか—農兵づくりと諸藩への遊説

北郡奉行所の与力から

安政2年(1855年)、北郡奉行所の与力となりました。翌安政3年、郡奉行の高橋多一郎に認められ、北郡務方に抜擢されます。鉄之介は奥久慈の大子で郷校(農村の学校)の建設と農兵の組織づくりを進め、藩内の改革派の輪を広げました。

井伊打倒を説いて回る

安政5年(1858年)、大老・井伊直弼が勅許を得ないまま条約を結び、斉昭らを処罰すると、水戸藩の改革派は激しく反発します。同年10月、鉄之介は高橋の指示で、越前藩・鳥取藩・長州藩などを回り、井伊打倒の決起を促しました。しかし安政の大獄の締めつけのなかで、諸藩は動きませんでした。

抜擢された経緯—高橋多一郎の右腕へ

鉄之介を引き立てたのは、郡奉行の高橋多一郎でした。奉行所の与力という下役から北郡務方に抜擢され、農村の改革と農兵づくりという実務を任されたことで、鉄之介は改革派の中でも行動力のある中心人物と見られるようになります。諸藩への遊説を任されたのも、その信頼があったからです。

井伊の暗殺計画では、金子孫二郎・高橋多一郎らとともに中心に立ち、当日は金子が全体を統率し、鉄之介が現場を指揮するという分担が決まりました。

逸話

最後の宴

襲撃の前日、3月2日の夕方、品川宿の相模屋で別れの宴が開かれました。襲撃に加わる18人がそろったのは、このときが最初で最後だったといわれます。

滝本いの

鉄之介には、吉原の芸者だった滝本いのという愛妾がいました。いのの京橋の家は江戸での鉄之介の隠れ家となり、志士たちの密会にも使われました。いのは事件のあと捕らえられて拷問を受けましたが、何も語らないまま牢で亡くなったと伝わります。

小説『桜田門外ノ変』

吉村昭の小説『桜田門外ノ変』は、鉄之介を主人公にして事件と逃避行を描き、平成22年(2010年)には映画にもなりました(いずれも創作を含みます)。

関わった事件—桜田門外の変(安政7年3月3日)

雪の桜田門外で井伊直弼の行列を待つ浪士たちと指揮役の関鉄之介の場面のイラスト
雪の桜田門外で行列を待つ浪士たち(イメージイラスト)

当日の朝、志士たちは愛宕神社に集まり、季節外れの雪の中を桜田門外へ向かいました。井伊の行列が近づくと、森五六郎が訴え出るふりをして行列の先頭に近づき、合図のピストルが撃たれて襲撃が始まります。鉄之介は斬り込みには加わらず、現場の指揮にあたりました。井伊は駕籠から引き出されて討たれ、首は薩摩藩士の有村次左衛門が挙げました。事件の経緯は桜田門外の変とはをどうぞ。

1年半の逃避行

3月5日に江戸を出た鉄之介は、中山道を通って大坂に入りましたが、そこで同志の高橋多一郎らの死と、薩摩藩の挙兵が実現しないことを知ります。その後は西国を転々とし、文久元年(1861年)7月には奥久慈の袋田(現在の茨城県大子町)に入って、桜岡家にかくまわれました(入った年を万延元年とする資料もあります)。かつて郷校づくりを進めた土地の人びとが、鉄之介を支えたのです。

最期—越後で捕らえられ、小伝馬町で斬首

文久元年10月、鉄之介は越後の湯沢温泉(現在の新潟県岩船郡関川村)で捕らえられました(捕らえられた場所を雲母温泉とする辞典もあります)。水戸で牢に入れられたのち江戸へ送られ、文久2年(1862年)5月11日、日本橋小伝馬町の牢で斬首されました。39歳でした。明治24年(1891年)、従四位を贈られています。

関鉄之介ゆかりの地

常磐共有墓地(茨城県水戸市)

水戸市松本町13-34。徳川光圀が藩士のためにつくった墓地で、関鉄之介ら桜田門外の変の志士の墓があります(【現地取材】水戸・常磐共有墓地を歩く)。水戸駅北口からバスで「末広町3丁目」下車です。

小塚原回向院(東京都荒川区)

荒川区南千住5-33-13、JR南千住駅から歩いて数分。鉄之介の墓があり、滝本いのの墓と碑もあります。

湯沢温泉の碑(新潟県関川村)

鉄之介が捕らえられた湯沢温泉の温泉街に、関鉄之介にちなむ碑が立っています。

袋田と大子(茨城県大子町)

鉄之介が郷校づくりと農兵の組織に力を注ぎ、逃避行の途中でかくまわれた奥久慈の地です。

桜田門と愛宕神社(東京都)

襲撃の現場と、当日の朝の集合場所です。

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参考資料

  • Wikipedia「関鉄之介」
  • コトバンク「関鉄之介」(日本人名大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
  • Wikipedia「桜田門外の変」
  • Wikipedia「常磐共有墓地」
  • 吉村昭『桜田門外ノ変』(新潮文庫)
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