有村次左衛門とは何をした人物か—桜田門外の変で井伊直弼の首を挙げた薩摩藩士。有村三兄弟、薬丸自顕流、22歳の最期とゆかりの地

有村次左衛門の肖像

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有村次左衛門の肖像
有村次左衛門(パブリックドメイン)

有村次左衛門(ありむら じざえもん)は、安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で、大老・井伊直弼の首を挙げた薩摩藩士です。襲撃に加わった18人のうち、ただ一人の薩摩の者でした。

自らも深手を負い、その日のうちに22歳で亡くなっています。兄たちとともに尊王攘夷に生きた「有村三兄弟」の末弟の生涯を、藩と身分、幕末の歩み、立場の変化、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。

目次

有村次左衛門とは—先に答え

藩・身分 薩摩藩士・有村兼善の四男。禄の少ない家の出とされる
生没 天保9年(1839年)12月28日〜安政7年(1860年)3月3日。享年22(23・21とする資料も)
名前 諱は兼清
兄弟 兄に有村俊斎(のちの海江田信義)、有村雄助
幕末に何をした 江戸で兄の雄助とともに水戸藩士と交わり、安政の大獄に憤って井伊直弼の暗殺計画に加わる
事件 桜田門外の変で井伊の駕籠を襲い、首を挙げる
最期 引き揚げる途中で斬られて深手を負い、辰ノ口の遠藤家屋敷の前で自刃を図り、まもなく死去
墓所 青山霊園、小塚原回向院(東京都)

薩摩の有村三兄弟の末弟

有村次左衛門は天保9年(1839年2月)、薩摩藩の藩士・有村兼善の四男として生まれました。家は禄の少ない家だったといわれます。兄の有村俊斎は、のちに海江田信義と名を改めて明治政府の要人となった人、すぐ上の兄・雄助も尊王攘夷の志士でした。

剣は鹿児島で薬丸兼義に薬丸自顕流を学び、のちに江戸で北辰一刀流も修めました。一撃に全力を込める薩摩の剣が、のちの桜田門外で生きることになります。

幕末に何をしたのか—江戸で水戸の志士と交わる

安政5年(1858年)、次左衛門は兄の雄助とともに江戸で尊王攘夷の活動に加わり、水戸藩の志士たちと交わりました。この年、大老・井伊直弼は勅許を待たずに日米修好通商条約を結び、反対する大名や志士を次々に処罰する安政の大獄を始めます。

安政6年、次左衛門は雄助や水戸藩士とともに井伊の暗殺を計画しました。水戸の高橋多一郎らは、井伊を討ったあと薩摩藩が兵を率いて上京し、尊王攘夷の義兵を挙げるという大きな構想を描いており、次左衛門はその薩摩側の窓口の一人でした。

立場が上がった経緯—薩摩と水戸を結ぶ若者

藩の役職に就いた記録はなく、次左衛門は一介の若い藩士にすぎませんでした。その次左衛門が歴史の表舞台に立ったのは、兄の雄助とともに水戸の志士と薩摩藩をつなぐ役割を担ったからです。薩摩藩はけっきょく兵を出しませんでしたが、次左衛門は脱藩して計画に加わり、ただ一人の薩摩藩士として襲撃の中心に立ちました。

逸話

猿叫とともに

井伊を斬るとき、次左衛門は薬丸自顕流独特の甲高い掛け声「猿叫(えんきょう)」とともに太刀を振り下ろしたとされます。

雪を口に含んで

深手を負ったあと、雪を口に含んでいたところを助けられたと伝わります。この日の江戸は季節外れの雪でした。

辞世

辞世は「岩金も砕かざらめや武士の国安かれと思い切る太刀」と伝わります(字句には異同があります)。

関わった事件—桜田門外の変(安政7年3月3日)

前日の夕方、品川宿の相模屋で、襲撃に加わる者たちが別れの宴を開きました。当日の朝は愛宕神社に集まり、雪の中を桜田門外へ向かいます。江戸城へ登城する井伊の行列が近づくと、水戸の森五六郎が訴え出るふりをして行列に近づき、合図のピストルが撃たれて襲撃が始まりました。

次左衛門は行列の中央にある井伊の駕籠に迫り、井伊を外へ引きずり出して討ち取り、その首を挙げました。首を刀の切っ先に刺して引き揚げましたが、途中で彦根藩士・小河原秀之丞に後頭部を斬られ、重い傷を負います。事件のくわしい経緯は桜田門外の変とは、討たれた側の井伊直弼の人物像は井伊直弼とは何をした人物かをどうぞ。

最期—辰ノ口で力尽きる

次左衛門は和田倉門外の辰ノ口まで来たところで力尽き、若年寄・遠藤胤統(近江三上藩主)の屋敷の前で自刃を図りましたが果たせず、遠藤家の屋敷に運び込まれてまもなく息を引き取りました。現在のパレスホテル東京のあたりとされます。22歳でした。井伊の首は遠藤家の屋敷に置かれたのち、井伊家に返されています。

兄の雄助は、変に呼応して京都へ向かう途中、伊勢の四日市で捕らえられました。薩摩藩は藩の関与を隠すため雄助を鹿児島に送り、3月24日に切腹を命じます。兄弟は同じ月のうちに相次いで命を落としました。明治35年(1902年)、次左衛門には正五位が贈られています。

有村次左衛門ゆかりの地

有村雄助・次左衛門誕生之地の碑(鹿児島市高麗町)

鹿児島市高麗町13。鹿児島中央駅から歩いて15分ほどです。碑のある場所は私有地(民家)なので、敷地には入らず外から見学してください。

青山霊園(東京都港区)

港区南青山2-32-2。次左衛門の墓があり、兄・雄助の墓もあるとされます。

小塚原回向院(東京都荒川区)

荒川区南千住5-33-13、JR南千住駅から歩いて数分。桜田門外の変の志士たちの墓が並び、次左衛門の墓もあります。

桜田門と愛宕神社(東京都千代田区・港区)

襲撃の現場である桜田門と、当日の朝に志士たちが集まった愛宕神社。水戸側の志士たちの墓は【現地取材】水戸・常磐共有墓地を歩くで紹介しています。

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参考資料

  • Wikipedia「有村次左衛門」
  • コトバンク「有村次左衛門」(日本人名大辞典・世界大百科事典ほか)
  • Wikipedia「桜田門外の変」
  • Wikipedia「有村雄助」
  • 鹿児島明治維新150年「有村雄助・次左衛門誕生之地」
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