坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか—近江屋事件の実行犯と黒幕、油断の理由、暗殺後の土佐藩とゆかりの地

近江屋の2階、坂本龍馬暗殺の夜(イメージイラスト)

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慶応3年(1867)11月15日の夜、京都・河原町の醤油商「近江屋」の2階で、坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われました。龍馬はその夜のうちに、中岡は2日後に亡くなります。大政奉還からひと月あまり、新しい国の形が決まろうとしていたさなかの事件でした。

龍馬はなぜ殺されたのか。実行犯は誰で、黒幕はいたのか。用心深かったはずの龍馬が、なぜその夜は無防備だったのか。そして龍馬の死のあと、時代と土佐藩はどう動いたのか。このページでは、こうした疑問に順に答えていきます。最後に、龍馬のゆかりの地をまとめて紹介します。

目次

先に答え—龍馬暗殺(近江屋事件)とは

いつ慶応3年(1867)11月15日の夜。この日は龍馬の誕生日だったと伝えられます
どこで京都・河原町蛸薬師の醤油商、近江屋(井口新助の家)の2階。土佐藩邸のすぐ近くでした
被害坂本龍馬(数え33歳)は死去。中岡慎太郎は2日後の17日に、従僕の山田藤吉も翌日に亡くなりました
実行犯京都見廻組の佐々木只三郎らとする説が有力です。元隊士・今井信郎の供述がその根拠です
なぜ幕府側から見れば、寺田屋で捕り方を撃った「お尋ね者」でした。ほかに、倒幕派・紀州藩などにも動機があったとする説があります
黒幕薩摩藩説、紀州藩説、土佐藩内部説など。どれも決め手となる史料はありません
その後半月あまり後に王政復古の大号令。新しい政治の主導権は薩摩・長州に移っていきます

時代背景—大政奉還から1か月、国の形が決まる直前だった

龍馬が斬られる1か月前の慶応3年10月14日、15代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返しました(大政奉還)。これを慶喜に勧めたのは土佐藩で、その案のもとになったのが、龍馬が後藤象二郎に示したとされる「船中八策」です。

ところが同じ10月14日、薩摩と長州には、幕府を討てという「討幕の密勅」が下されていました。大政奉還によって討幕の名目はいったん失われましたが、薩長の武力倒幕派は、なお徳川家の力を奪う機会をうかがっていました。

龍馬は11月に入ると、新しい政府のしくみを箇条書きにした「新政府綱領八策」を書いています。将軍家も含めた諸侯の会議で国を動かす、という考え方でした。武力で決着をつけたい側と、話し合いで新しい体制に移りたい側。その綱引きのまっただ中で、龍馬は斬られたのです。

龍馬はなぜ暗殺されたのか

龍馬を「消したい」と考えうる勢力は、一つではありませんでした。

  • 幕府の側から見て:龍馬は前年の慶応2年(1866)1月、伏見の寺田屋で伏見奉行所の捕り方に囲まれ、拳銃で応戦して捕り方を死傷させています(坂本龍馬を救った拳銃—スミス&ウェッソンと寺田屋事件)。幕府から見れば、薩長同盟の仲立ちをした危険人物であり、役人を殺傷した「お尋ね者」でした。
  • 武力倒幕派から見て:慶喜を新しい政治の中に残そうとする龍馬の構想は、徳川を倒したい側にとってはじゃまになりえました。
  • 紀州藩から見て:慶応3年4月、海援隊のいろは丸が紀州藩の船と衝突して沈み、龍馬は談判で紀州藩から多額の賠償金を勝ち取りました。紀州藩には恨みが残ったといわれます。

実行したとされる見廻組は、幕府の治安組織です。いま有力な説に従えば、龍馬は「幕府の側の論理」で斬られたことになります。ただし、それとは別の動機が重なっていたのではないか、という疑いが、黒幕説を生み続けています。

事件の夜、近江屋で何が起きたのか

近江屋の2階、坂本龍馬暗殺の夜(イメージイラスト)
近江屋の2階、坂本龍馬暗殺の夜(イメージイラスト)

このころ龍馬は、近江屋に身を寄せていました。夜、陸援隊の隊長・中岡慎太郎が訪ねてきて、二人は2階で話しこんでいました。

そこへ、数人の男が「十津川郷士」と名乗って訪ねてきます。取り次ぎに出た従僕の山田藤吉(もと力士)が階段を上がったところを斬られ、男たちはそのまま2階へ駆け上がりました。不意を突かれた龍馬は額を深く斬られ、刀を抜く間もなく、鞘のまま受け止めたとも伝えられます。中岡も全身に傷を負いました。

刺客が去ったあと、龍馬は「脳をやられた、もういかん」と言って倒れたと、中岡の話として伝えられています。中岡は2日間生き、襲撃の様子を語り残しました。それが事件を知る大きな手がかりになっています。

実行犯は誰か—京都見廻組と今井信郎の供述

明治3年(1870)、箱館戦争で降伏した元京都見廻組の今井信郎が、取り調べで「見廻組の与頭・佐々木只三郎の指図で、龍馬らを襲った」と供述しました。今井の供述では、佐々木のほか、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助ら数人が加わり、今井自身は下で見張りをしていたといいます。今井は禁固の刑を受けましたが、のちに許されました。

指揮した佐々木只三郎は、清河八郎を斬った人物としても知られ、鳥羽・伏見の戦いで傷を負って亡くなっています。明治の終わりには、見廻組にいた渡辺篤が、自分も加わったと書き残しました。こうした証言が重なり、現在では見廻組が実行したとする説がもっとも有力とされています。

ただし、誰が実際に龍馬を斬ったのか、組の上から命令があったのか、といった細かな点は、証言の食い違いもあって、いまも議論が続いています。

黒幕は誰か—なぜ「真犯人」の話は尽きないのか

見廻組が実行したとしても、「誰が命じたのか」という疑問が残ります。そこから、さまざまな黒幕説が生まれました。

  • 薩摩藩説:武力で幕府を倒したい薩摩にとって、慶喜を残そうとする龍馬がじゃまになった、という説。
  • 紀州藩説:いろは丸事件で多額の賠償金を払わされた恨み、という説。事件直後、海援隊士たちはこれを信じ、紀州藩の三浦休太郎を襲う天満屋事件を起こしました。
  • 土佐藩内部説:龍馬の立場をよく思わない土佐の一部の仕業、という説。

どの説も、決め手となる史料はありません。龍馬があまりに多くの人と関わり、多くの勢力の利害の真ん中にいたからこそ、「誰にでも動機がある」ように見えるのかもしれません。

はじめは新選組が疑われた

現場には、刀の鞘や、先斗町の料亭のものとされる下駄が残されていました。新選組から分かれた御陵衛士の伊東甲子太郎らが「鞘は新選組の原田左之助のものだ」と証言したこともあり、まず疑われたのは新選組でした。のちに流山で捕らえられた近藤勇が処刑された背景にも、この疑いがあったといわれます。新選組がなぜ疑われ、隊士たちがその疑いをどう背負ったのかは、坂本龍馬暗殺と新選組—なぜ疑われ、隊士たちは何を背負ったのかでくわしく書いています。

龍馬はなぜ油断したのか

寺田屋で襲われた経験があり、狙われていることも知っていた龍馬が、なぜその夜はあっさり斬られてしまったのか。伝えられていることを並べると、いくつかの「すき」が重なっていたことがわかります。

  • 土蔵ではなく母屋の2階にいた:近江屋では、ふだんは裏の土蔵に隠れていたとされます。この日は風邪をひいていて、用を足しやすい母屋の2階に移っていたといわれます。
  • 土佐藩邸に入らなかった:龍馬の脱藩の罪はこの年に許されていて、藩邸は目と鼻の先にありました。それでも龍馬は、窮屈な藩邸に入らず、町家に身を置き続けました。
  • 客を疑わなかった:刺客は「十津川郷士」と名乗りました。十津川の郷士には尊王の志士が多く、龍馬たちを訪ねてきてもおかしくない相手でした。取り次いだ藤吉も、まさか刺客とは思わなかったのでしょう。
  • 刀が手元になかった:龍馬の刀は、床の間に置いてあったと伝えられます。とっさに抜くことができず、鞘のまま受けるしかなかったとされます。
  • 警告はあった:数日前、御陵衛士の伊東甲子太郎が龍馬を訪ね、身辺に気をつけるよう、藩邸に移るよう勧めたという話も伝わっています。

大政奉還が実現し、幕府と争う時代は終わりつつある—。そうした空気が、龍馬自身の警戒をゆるめていたのかもしれません。

暗殺場所—近江屋とはどんな場所だったのか

近江屋は、京都・河原町通に面した醤油商で、主人は井口新助といいました。土佐藩の御用を務める商家で、龍馬をかくまっていました。すぐ近くには土佐藩の京都藩邸があり、海援隊が京都での拠点にした材木商「酢屋」も歩いて数分のところにありました。

近江屋の建物は残っていません。いま跡地には「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地」の石碑が立ち、京都市の案内板が事件のいきさつを伝えています。河原町の繁華街のただ中で、通り過ぎてしまいそうな場所です(【現地取材】坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難の地(近江屋跡))。

暗殺のあと、時代はどう変わったのか

龍馬の死からわずか24日後の12月9日、薩摩藩などは御所を固め、「王政復古の大号令」を出しました。その夜の小御所会議では、慶喜に官職と領地を返させることが決まり、慶喜を新しい政治から外す流れがはっきりします。龍馬が考えていたような、徳川家も加わった諸侯の会議による政治は、ここで遠のきました。

翌慶応4年1月には鳥羽・伏見の戦いが起こり、戊辰戦争が始まります。龍馬が生きていたら戦は避けられたのか—それは誰にもわかりませんが、話し合いでの移行を最後まで探った人物がいなくなったことは確かです。

龍馬が率いた海援隊は、長岡謙吉らが引き継ぎ、瀬戸内の塩飽諸島や小豆島を治めるなどの活動を続けましたが、明治元年(1868)に解散しました(龍馬の死後、海援隊は瀬戸内の島を占領していた)。中岡の陸援隊は、紀州の高野山で挙兵し、新政府軍の一翼を担いました。

土佐藩の勢いは弱まったのか

大政奉還を建白したのは土佐藩でした。その意味で、慶応3年10月の時点では、土佐藩は政局の主役の一つでした。しかし龍馬と中岡という、薩摩・長州と直接つながる二人を一度に失ったことで、土佐藩は薩長との太いパイプを失います。

小御所会議では、山内容堂が慶喜をかばって強く反論しましたが、岩倉具視らに押し切られました。主導権は薩長に移り、土佐藩は「大政奉還で先手を取ったのに、新政府づくりでは後手に回った」形になります。

ただし、土佐藩がそのまま沈んだわけではありません。戊辰戦争では板垣退助の迅衝隊が東山道を進み、会津まで戦いました。新政府でも後藤象二郎・板垣退助・佐佐木高行らが要職につき、「薩長土肥」の一角を占めます。その後、板垣らは明治6年(1873)の政変で政府を去り、自由民権運動の中心になっていきました。龍馬の死は、土佐藩が政局の真ん中から一歩外れるきっかけの一つになった、といえるでしょう(土佐藩(高知藩)/山内家)。

坂本龍馬のゆかりの地

龍馬の足跡は、生まれた高知から、江戸、京都、長崎、下関、鹿児島まで日本各地に残っています。主なゆかりの地を地域ごとに紹介します。

高知

  • 坂本龍馬誕生地(高知市上町):生家跡に石碑が立っています。近くに「高知市立龍馬の生まれたまち記念館」があります。
  • 桂浜と坂本龍馬像(高知市浦戸):太平洋を見つめる銅像は昭和3年(1928)に建てられました。
  • 高知県立坂本龍馬記念館(高知市浦戸):龍馬の手紙などを展示しています。
  • 和霊神社(高知市神田):坂本家の守り神。脱藩の前に参拝したと伝えられます。
  • 梼原の維新の門(高岡郡梼原町):脱藩の道の途中。龍馬ら脱藩した志士の群像があります。

京都・伏見

  • 寺田屋(京都市伏見区):慶応2年1月、龍馬が捕り方に襲われた船宿。お龍の機転で危機を知ったと伝えられます。いまの建物は、のちに再建されたものとされます。
  • 近江屋跡(京都市中京区河原町通蛸薬師下る):暗殺の現場。石碑と案内板があります。
  • 酢屋(京都市中京区):海援隊の京都の拠点だった材木商。いまも同じ場所で商いを続けています。
  • 京都霊山護国神社(京都市東山区):龍馬と中岡慎太郎の墓があります。近くに幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」もあります。

長崎・下関・鹿児島

  • 亀山社中記念館(長崎市伊良林):龍馬たちがつくった亀山社中の跡(坂本龍馬がつくった“会社”—亀山社中と海援隊)。
  • 風頭公園の坂本龍馬像(長崎市):長崎港を見下ろす高台に立っています。
  • 伊藤助太夫家跡(山口県下関市):龍馬がお龍と暮らした「自然堂」の跡。
  • 塩浸温泉と霧島(鹿児島県霧島市):寺田屋の傷を癒すため、お龍と訪ねた「日本最初の新婚旅行」の地とされます。

東京・神奈川・兵庫・福井

  • 千葉定吉道場跡(東京都中央区):江戸で北辰一刀流を学んだ道場の跡。
  • 品川・浜川砲台跡の龍馬像(東京都品川区):ペリー来航のとき、土佐藩の警備に加わった場所とされます。
  • 信楽寺・お龍の墓(神奈川県横須賀市):龍馬の死後、お龍が晩年を過ごした地(【現地取材】信楽寺・お龍の墓を訪ねる)。
  • 神戸海軍操練所跡(神戸市中央区):勝海舟のもとで龍馬が学んだ操練所の跡。碑が立っています。
  • 福井:龍馬が暗殺の直前に訪ね、由利公正(三岡八郎)と新政府の財政を語り合った城下(【現地取材】福井城址を歩く)。

▶ この事件を起こした側の人物

✎ 筆者のひとこと

犯人は見廻組でほぼ決まりと言われながら、黒幕説が今も絶えないのは、龍馬がそれだけ多くの勢力にとって「都合の悪い人」だったからでしょう。

それだけ世間から注目された逸材だった、ということでもあるのでしょう。

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