亀山社中・海援隊の隊士一覧—龍馬がつくった「会社」に集まった人びと

幕末に坂本龍馬がつくった組織を、いま風に言えば「会社」になります。長崎で生まれた亀山社中と、それを土佐藩の外郭団体として組み替えた海援隊です。

このページは、当サイトが個別ページを持つ五十四人の隊士を、出身ごとにまとめた一覧です。名前をたどれば、その人の経歴のページへ移れます。

先に断っておくと、海援隊の隊員名簿は資料によって顔ぶれも人数も異なります。正式な入隊手続きが整っていたわけではなく、出入りも激しかったためです。この一覧も確定的なものではありません。

坂本龍馬の肖像写真
坂本龍馬(Wikimedia Commons、パブリックドメイン)
目次

亀山社中から海援隊へ

元になったのは亀山社中です。神戸海軍操練所が閉鎖されて行き場を失った塾生たちを、薩摩藩の援助を得て長崎に集めたのが始まりでした。船を動かし、荷を運び、そのあいだに薩摩と長州を結ぶという、商社と海運会社と政治工作機関を兼ねたような集団です。

これが慶応三年(1867)四月、土佐藩の外郭団体として認められ、名を海援隊と改めます。隊長は坂本龍馬。海援隊約規という規約が定められ、「およそ、わが国を脱する者、および他の志ある者、この隊に入る」という趣旨で、脱藩者にも門戸が開かれていました。

しかしこの年の十一月、龍馬は京都の近江屋で斃れます。二代目の隊長となったのが長岡謙吉で、翌明治元年閏四月に海援隊は解散しました。実質わずか一年ほどの組織です。

それでも、ここに集まった人たちのその後は目を見張ります。陸奥宗光は外務大臣として条約改正にあたり、岩崎弥太郎は三菱を興し、中島信行は衆議院の初代議長、中江兆民は自由民権の思想家となりました。白峰駿馬は造船業へ進んでいます。海運会社に集まった若者たちが、そのまま明治の日本をつくる側に回ったわけです。

長崎港を見下ろす亀山の高台で洋式帆船を指さす坂本龍馬と仲間たち(イラスト)
長崎港を見下ろす亀山の高台に集まった龍馬と仲間たち(イメージイラスト)。写真ではありません

隊士一覧(五十四人)

土佐藩の出身(二十三人)

脱藩した者が中心です。龍馬自身も脱藩者でした。

越前藩の出身(八人)

福井の松平春嶽と龍馬の縁から、越前の若者も加わりました。

そのほかの出身(五人)

紀州、鳥取、越後、長崎の商家など、出身は土佐に限りません。

出身の伝わらない隊士(十八人)

名前は名簿に見えるものの、出身や経歴の記録がほとんど残っていない人たちです。海援隊がどれだけ雑多な集まりだったかを、この人数が物語ります。

名を覚えておきたい隊士

五十四人のうち、幕末維新の展開に直接かかわった人たちを挙げておきます。

陸奥宗光は紀州の出身で、龍馬に「刀を二本差さなくても食っていける男」と評されたと伝わります。明治になって外務大臣となり、条約改正を成し遂げました。

長岡謙吉は龍馬の死後に二代目隊長を務めた人です。船中八策の筆記にあたったともいわれます。

近藤長次郎は饅頭屋の子から身を起こし、亀山社中でユニオン号の購入を成功させながら、英国留学を単独で企てたことを咎められて自刃しました。龍馬は「おれがいたら殺しはしなかった」と悔やんだと伝えられます。

沢村惣之丞は龍馬と一緒に脱藩した相手です。龍馬の死後、長崎で薩摩藩士を誤って撃ってしまい、自刃しました。

菅野覚兵衛はお龍の妹を妻とした人で、龍馬の義弟にあたります。高松太郎は龍馬の甥です。

岩崎弥太郎は土佐藩の商務組織を通じて海援隊とかかわり、のちに三菱を興しました。佐々木高行は土佐藩の重役として海援隊を監督する側にいた人です。

この一覧について

くり返しになりますが、海援隊の隊士名簿は一つに定まっていません。時期によって出入りがあり、記録も断片的です。当サイトも、判明している範囲で個別のページを設けているにすぎません。

また、隊士のなかには名前だけが伝わり、生没年も出身も分からない人が少なくありません。そうした人のページは短いままになっていますが、わずかな記録しか残らなかったこと自体もひとつの事実と考えて、無理に膨らませずに置いています。

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この一覧について

当サイトが個別ページを設けている海援隊士を、出身ごとに整理したものです。海援隊の隊員名簿は資料により顔ぶれと人数が異なり、確定的な一覧ではありません。誤りやお気づきの点はお問い合わせからご指摘ください。

隊員は何人だったのか

この一覧は氏名の伝わる隊士を並べたものですが、海援隊の隊員が全部で何人だったかという問いには、はっきりした答えがありません。

高知県立坂本龍馬記念館は「約五十人(水夫、火夫含む)」としています。『日本大百科全書』も「約五十名の隊員」です。公的な説明はこの数字でおおむね一致します。一方で、氏名が判明して名簿に並ぶ人は、それよりかなり少なくなります。差は、名の残らなかった水夫や火夫です。船を動かすには甲板員も機関員も要りますが、その人たちの名前は記録に残りませんでした。

もう一つ、亀山社中と海援隊を分けて数えられない事情があります。記念館はこう書いています。「亀山社中の正確な名簿はありませんが、その後身組織である海援隊は出身藩もあわせて記録されていますので、これを参考にします」。つまり社中の時代の人数は、そもそも確かめようがありません。

出身地の内訳は記録が残っていて、土佐藩のほか越前・越後・紀伊などの出身者がいました。土佐藩出身の人数は、記念館が十二名、山口大学紀要の論文が十六人としており、ここも一致しません。

当サイトはこれまで「全五十六名」という書き方をしていましたが、この数字の典拠は見つかっていません。確かな言い方に直し、確定数を主張しない形に改めています。

隊士の名簿のもとになる一次史料は、京都国立博物館が所蔵する『龍馬乃遺墨雄魂姓名録並海援隊日史秘記』三巻です。平成十一年六月七日に重要文化財に指定された「坂本龍馬関係資料」十点に含まれ、『海援隊日史』には隊士の人名録と、海援隊約規や船中八策をさらに発展させた新政治体制の構想草案などが収められています。筆者は海援隊の長岡謙吉かとされています。

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