幕末の坂本龍馬が斃れたあと、海援隊はどうなったのか。解散して終わり、と思われがちですが、そうではありません。隊は瀬戸内海の島々へ渡り、そこを占領して統治していました。
塩飽諸島、小豆島の東部、直島、男木島、女木島。二代目隊長となった長岡謙吉のもとで、海援隊はこれらの旧幕領を土佐藩の預り地として押さえ、現地の若者を集めて梅花隊という部隊まで編成しました。
ところが、その海援隊もわずか三か月ほどで土佐藩に解散を命じられます。そして島の人びとは、去っていった隊士たちを神として祀りました。
あまり知られていないこの話を、日付を追って整理します。広く流布している説明にはいくつも誤りが混じっているので、そこも合わせて正しておきます。

龍馬の死と、三つに割れた海援隊
慶応三年(1867)十一月十五日の近江屋事件で、海援隊は求心力を失います。その後の動きは、おおむね三つに分かれました。
ひとつは長岡謙吉の一派で、讃岐の旧幕領を占領し、のちに梅花隊へと再編されていきます。この記事が追うのはこの流れです。ふたつめは菅野覚兵衛の一派で、長崎奉行所の接収にあたりました。みっつめは長崎に残った隊士たちで、長崎遊撃隊を母体とする振遠隊に加わります。石田英吉が隊長を務めました。
なお、陸奥宗光らが紀州藩士・三浦休太郎を襲った天満屋事件は慶応三年十二月七日のことです。ただし、この事件と讃岐行きを直接つなぐ史料は確認できません。

二代目隊長・長岡謙吉
長岡謙吉は天保五年(1834)、高知城下浦戸町の医師・今井孝順の長男に生まれました。母方が坂本龍馬の継母・伊予の縁者にあたるといわれます。
幼くして河田小龍に学び、大坂で儒医に入門し、安政六年には長崎で二宮敬作に医学を、シーボルトに英語と国際法を学びました。医師であり、語学と国際法を修めた人です。龍馬が後藤象二郎に示したとされる船中八策の成文化に関わったとも伝えられますが、船中八策そのものの史料的な信頼性に疑問が呈されてもいますので、そう伝えられるという以上には書けません。
その長岡が二代目の海援隊長に正式に任じられたのは、慶応四年四月十二日のことでした。ここが面白いところで、讃岐での活動のほうが先に始まっており、藩の辞令は後から追いかけてきたのです。
慶応四年正月、高松城が開く
話の前提として、まず高松藩の立場があります。高松藩は鳥羽伏見で旧幕府側について戦い、朝敵とされました。
正月十日、朝廷は薩摩・安芸・長門・因幡・土佐・津の各藩に高松藩の討伐を命じます。翌十一日には土佐藩主に高松・松山両藩の討伐が沙汰され、十二日にはおよそ千八十五人の土佐討伐軍が高知城下を発ちました。総督は深尾成質、大軍監兼大隊司令は乾退助、のちの板垣退助です。
十八日、高松藩の責任者二名が切腹します。そして正月二十日、土佐藩兵が高松城へ入城しました。血は流れていません。興正寺門主の仲介と、責任者の首級を差し出しての謝罪嘆願によるものでした。
この日、長岡謙吉が高松城の接収にあたったとする記述も見かけますが、年表や自治体史のレベルでは裏づけが取れませんでした。確実にたどれるのは、正月十八日に長岡が丸亀藩への使者として動き、勤王家の土肥大作を獄中から解放したことです。
小坂騒動—海援隊が来る前に、島はもう焼けていた
ここが、この話でいちばん誤って伝えられている部分です。
小坂騒動は小豆島ではなく、塩飽諸島の本島(ほんじま)で起きました。現在の香川県丸亀市本島町小坂です。そして海援隊がこれを鎮圧したわけでもありません。
塩飽は人名(にんみょう)と呼ばれる特権を持つ島でした。小坂は江戸のはじめに安芸から移ってきた家船の漁民の集落で、人名株を持っていません。
正月十七日、鳥羽伏見の敗報が届くと、小坂の漁民およそ三百人が、人名の有力な七家に対して人名株二人分を譲れと要求しました。維新で人名の特権は消えたはずだ、という言い分です。拒まれ、翌十八日には年寄の屋敷に乱入し、勤番所へ強訴に及びます。寺の住職の仲裁でいったんは収まりました。
ところが十九日、小坂側が武装して朱印状の奪取を図ります。笠島浦の若衆が火縄銃二十挺で迎え撃ち、小坂勢は総崩れになりました。人名側は塩飽十一島に召集をかけておよそ千人を動員し、木烏神社に本営を置きます。
そして十九日の夜から二十日の未明にかけて、人名勢が小坂浦を襲いました。船二百余を奪い、集落を焼き払っています。小坂側の死者は十八名。生き残ったおよそ四百八十人は勤番所の牢や物置に押し込められました。
海援隊が本島に着いたのは、この後です。正月二十三日に中村官兵衛・島田源八郎ら七、八人が先発し、二十四日に八木彦三郎が入りました。鎮圧ではなく、焼け跡の後始末と占領統治から始まったのです。
「土州支配所」—占領統治の中身
海援隊は塩飽勤番所に本陣を置き、ここを土州支配所として機能させます。門前に土佐藩の高札を掲げ、玄関には三葉柏の幔幕と紋所の高張提灯を並べました。
接収の日付を並べると、動きの速さがよく分かります。
- 正月二十日—塩飽諸島が土佐藩預り地に。八木彦三郎が事務を担当
- 正月二十一日—長岡が金毘羅で軍用金千両を借用。蒸気船一艘、小銃五百挺、書物三十箱、戦砲五挺の購入にあてる
- 正月二十五日—直島・女木島・男木島の三島が土佐藩預り地に
- 正月二十七日—長岡が丸亀の遍照寺内に私塾「白蓮社」を開く。門人およそ二十名
- 二月九日—朝廷から土佐藩へ、讃岐諸島と小豆島の鎮撫を命じる親書
- 三月—小豆島東部の三か村(草加部・大部・福田)が土佐藩預り地に
ここも訂正しておきます。草加部・大部・福田は島の名ではなく、小豆島東部の村の名です。そして土佐藩が押さえたのは小豆島の東部三郷だけで、島全体ではありません。西部の六郷は津山藩領でした。
統治の中身は、二面あります。海援隊は牢に入れられていた小坂の漁民を解放し、「土佐ゴヤ」と呼ばれる仮設の長屋を三か所に建て、二月九日には救恤米、三月七日には金二百両を配りました。
ところが、焼き討ちを行った人名側への処罰はきわめて軽いものでした。指導者が閉門謹慎一週間、年寄が手鎖三十日という程度で、一週間後には惣年寄が「前役そのままに忠勤に励むよう」と申し渡されて復職しています。
この評価は分かれています。海援隊を解放軍とみる説と、逆に土佐の陰謀とみる説の両方があり、諸説あります。ただ日付と処分の内容を並べるかぎり、従来の人名組織を温存したまま上に乗った占領統治だった、と読むのが素直でしょう。
梅花隊—島の若者で作った軍隊
海援隊の隊士は十数名です。これでは島々の統治は回りません。そこで現地で兵を集めました。
慶応四年四月十五日、海援隊は管内へ布令を出します。年貢の未納分の詮議を免じ、十七歳から三十歳までの志願兵を募るという内容でした。こうして塩飽の若者から一個小隊が編成されます。これが梅花隊です。
装備は金毘羅から借りた千両で購った小銃五百挺。字七番新田におよそ五反歩の調練場を設け、毎日訓練が行われたと記録されています。
おもしろいのは幹部の顔ぶれです。惣年寄・高島惣兵衛の子である高島覺平をはじめ、人名衆の子弟が名を連ねています。焼き討ちをした側の家から幹部を出し、焼かれた小坂からも松江甚太郎ら数名が入隊しました。島を二つに割った両方から兵を集めたことになります。
ここでも訂正が必要です。梅花隊が明治元年の秋に解散したというのは誤りで、実際には明治三年七月まで存続しました。香川県史の年表は「塩飽諸島で土佐藩が一小隊を編成し海援隊と名づける。のち梅花隊と改称、明治三年七月解隊」と記しています。
この年表の書き方から、もうひとつ分かることがあります。現地の部隊の名は当初そのまま「海援隊」でした。よく使われる「新海援隊」という呼び方は、当時の呼称としては確認できません。後世の呼び名と考えるべきです。
そして、隊士のほとんどが奥羽戦争へ出兵したという説明も裏づけが取れません。明治三年まで讃岐にいた部隊ですから、部隊としての出征は考えにくいところです。個人としてなら、石田英吉が慶応四年七月に長崎から秋田へ渡り、角間川の戦いから盛岡城入城まで戦っています。
正式に認められた十七日後に、解散を命じられた
海援隊が土佐藩から小豆島・塩飽の鎮撫を正式に認められたのは四月十二日です。長岡が二代目隊長に任じられたのも同じ日でした。
ところが四月二十九日、土佐藩は海援隊に解散を通告します。「王政復古、更始御一新の御趣意に随い奉り、ひとまず御解放の思し召しこれあり候」という文言でした。正式な承認から、わずか十七日です。(解散の日付は閏四月二十七日とする資料もあり、諸説あります。)
なぜ切られたのか。土佐藩の方針を無視した年貢の減免、現地徴用による事実上の独立部隊化、長岡が丸亀藩の政治顧問のようになっていたこと—いくつか理由が挙げられますが、これらは研究者の推論であって、一次史料が明言しているわけではありません。
島々の管轄はほどなく移ります。五月十六日に倉敷代官所が倉敷県となり、十七日に小豆島と琴平、六月十四日に塩飽諸島、そして七月一日に直島・女木島・男木島が倉敷県の管轄となって、土佐藩兵は撤退しました。倉敷県への移管を明治元年の秋とする説明も見かけますが、実際は初夏のことです。
島民は、彼らを神にした
そして、この話にはもうひとつ先があります。
明治三年(1870)、小坂の人びとは海援隊士を祭神とする「土州様」を、集落の大山神社に合祀しました。八木彦三郎は「生佛さま」と呼ばれ、島村要も「活き仏さま」と敬われたと伝えられます。病気になると金毘羅宮へ日参して快癒を祈ったという話まで残っています。
社の名は三度変わりました。大正七年、海援隊士十三名の名が判明して「十三神社」と改められます。読みは「とさ」で、土佐の当て字です。翌大正八年に山上から現在地へ移り、昭和九年、実際に塩飽を担当したのは十三人のうち数名だと分かって、八木彦三郎と島村要の頭文字から「八島神社」と改められました。いまの社名はこれです。
集落を焼かれた側の人びとが、後から来て後始末をした占領者を神として祀り、その名を百五十年たったいまも社名に残しています。幕末の話としては、ずいぶん静かで、ずいぶん重い結末です。
塩飽勤番所跡へのアクセス・地図
海援隊が本陣を置いた塩飽勤番所は、香川県丸亀市本島町泊に現存します。寛政十年(1798)の建築で、国の史跡です。本島港から歩いておよそ十分。八島神社は同じ本島の小坂にあります。
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この記事の情報源について
主に次の資料に拠りました。
- 『香川県史 別編Ⅱ 年表 近代』(香川県編、四国新聞社)
- 『新編丸亀市史2 近世編』『八島神社誌』ほかを引く地元研究の記述
- 丸亀市の文化財解説(塩飽勤番所)、世界大百科事典(小坂騒動)
広く流布している説明のうち、小坂騒動の場所、海援隊の役割、梅花隊の解散時期、倉敷県への移管時期については、資料に照らして本文で訂正しました。裏の取れない事柄はその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。


