幕末の土佐を動かしたのは、郷士と呼ばれた下級武士たちでした。坂本龍馬も、武市半平太も、この身分です。上士に頭を下げねばならず、道で行き会えば道を譲る側。その鬱屈が土佐勤王党を生みました。
ではその「郷士」という身分は、どこから来たのか。関ヶ原での長宗我部氏の敗北から来ています。
高知県南国市の丘に、その長宗我部氏の本拠だった岡豊城(おこうじょう)の跡があります。雨の日に登りました。石段は濡れて滑り、礎石の並ぶ平場には水がたまっていました。幕末より二百六十年も前に廃された城ですが、ここで負けた人たちの子孫が置かれた場所が、そのまま幕末の土佐になります。

岡豊城——長宗我部氏が四国を制した丘
岡豊城は、南国市の平野に突き出た標高およそ九十七メートルの丘に築かれた中世の山城です。現地の全体案内板によれば、平成二十年(二〇〇八)七月に国の史跡となりました。
尾根に沿って詰、詰下段、二ノ段、三ノ段、四ノ段と平場が連なり、あいだを堀切と竪堀が断ち切ります。伝厩屋敷跡と呼ばれる区画も残っています。歩いてみると、山城としては意外に登りやすく、それでいて曲輪の切り替わりごとに石段と切岸が現れる、よく整った縄張りでした。
この城から長宗我部元親が出て、土佐を統一し、四国のほぼ全域を手に入れます。ただし秀吉の四国攻めに屈し、土佐一国に押し戻されました。
なお、この秋に放送される番組が扱う「兄弟」は、元親とその弟・香宗我部親泰です。以下に書く元親の子どもたちの兄弟とは別なので、混同しないようにしてください。
四人の兄弟が、次々に消えた
元親の四人の息子たちの結末は、いずれも救いがありません。
長男の信親は、天正十四年(一五八六)の戸次川の戦いで戦死しました。二十二歳です。元親は自害しようとして家臣に止められ、伊予まで落ち延びたと伝えられます。この死を境に元親は覇気を失い、後継をめぐって異を唱えた一門を次々と切腹させました。
次男の香川親和は讃岐香川氏の養子でした。秀吉は親和に家督を継がせるよう計らいましたが、元親は末子の盛親を選びます。親和は翌天正十五年に岡豊城下で世を去りました。死因は病死とも、断食による自死とも、父による毒殺とも伝えられ、諸説あります。
三男の津野親忠は津野氏の養子でしたが、慶長四年に元親によって幽閉され、関ヶ原の直後、慶長五年九月二十九日に殺されました。二十九歳です。命じたのが盛親なのか、家臣の久武親直が盛親の名を騙って独断で行ったのか、これも諸説あります。
そして四男の盛親。成人した兄二人を飛び越えて世子に指名され、関ヶ原では西軍につきながら南宮山で戦わずに敗れました。改易ののち大坂の陣で戦い、慶長二十年五月十五日に六条河原で斬首。四十一歳でした。子どもたちも斬られ、大名家としての長宗我部氏はここで滅びます。


慶長五年、浦戸に籠もった一領具足
盛親の改易で土佐に入ることになったのが山内一豊です。ところが接収は、すんなりとはいきませんでした。
慶長五年(一六〇〇)、家康の使者が浦戸城の引き渡しに来ると、長宗我部の旧臣たちが開城を拒み、一万七千人で雪蹊寺を包囲したのです。浦戸一揆と呼ばれます。
抵抗したのは一領具足と呼ばれる層でした。平時は二、三町の田を耕し、槍の柄に草鞋と兵糧をくくりつけて具足とともに田の畔に置き、事あるときは武装して出陣する——その名の由来がこれです。半農半兵の在郷家臣で、自分たちは武士だという誇りを持っていました。彼らが恐れたのは、新しい領主のもとで武士身分を失うことでした。
一揆は重臣層の策謀で城外に締め出され、十二月一日に撃破されます。討たれた者の首は塩漬けにして大坂へ送られました。その数は二百七十三と伝えられます。一説に百七十三とも言われ、数には諸説あります。胴体は浦戸に葬られ、いまも石丸塚として残っています。
なお、山内一豊が相撲興行に名を借りて旧臣を集め虐殺したという逸話が広く語られますが、これは見解が分かれます。種崎の浜で七十三人が処刑されたという記述がある一方、「相撲に名を借りた騙し討ち」という筋立ては史実と異なるとする資料もあります。ここは断定を避けておきます。
上士と郷士——山内が作った二重構造
土佐に入った山内家は、家臣団を二層に分けます。
上士は、一豊が掛川から連れてきた家臣と、土佐入りの前後に上方で召し抱えた者たち。郷士をはじめとする下士は、その下に置かれた層です。
郷士制度の端緒は慶長十八年(一六一三)、香美郡山田村の開発で取り立てられた「慶長郷士」とされます。一豊はすでに没しており、二代忠義の代です。のちに家老の野中兼山が新田開発を推し進め、門地によらない登用を藩政に持ち込みました。
ここで大事なのは、採用条件です。宿毛市の市史によれば、郷士制度は「長宗我部の遺臣の懐柔、新田の開発、武備の増強」の三つをねらいとして設けられ、百人衆郷士の条件は「長宗我部の旧臣であること、新田三町歩以上を開墾すること」でした。つまり出発点においては、郷士とは確かに長宗我部遺臣のことだったのです。
敵の遺臣を、田を開かせることと引き換えに武士身分に留め置く。反乱の芽を摘みながら開墾を進める、よくできた仕組みでした。
ところが、幕末の郷士は長宗我部の子孫ではありませんでした
ここからが、この話のいちばん面白いところです。
同じ宿毛市史は、後発の百人並郷士では「長宗我部旧臣に限定せず」と基準が緩められたと記しています。さらに江戸中期以降、郷士の身分は株として売買されるようになりました。豪農や豪商が金で郷士株を買い、逆に食い詰めた郷士が株を売って地下浪人に落ちる。血筋とは無関係に、身分が動くようになったのです。
幕末の顔ぶれを、その目で見てみます。
坂本龍馬の家は、高知城下で質屋を営んだ才谷屋という商家です。酒と呉服で財を成し、明和七年(一七七〇)に六代目・直益が郷士株を買いました。その分家が郷士坂本家で、龍馬はその家に生まれています。長宗我部遺臣の血ではありません。商人が金で買った武士です。
武市半平太の家はもと豪農でした。五代前の半右衛門が享保十一年に郷士へ取り立てられ、文政五年に白札格へ上がっています。白札は上士として認められる格ですから、武市はむしろ下から上がってきた家でした。
岩崎弥太郎にいたっては、もっと露骨です。曾祖父の代に郷士の資格を売って地下浪人に落ち、弥太郎自身が二十七歳のとき借金をして郷士株を買い戻しました。売って落ち、買って戻る。身分が金で動くものだったことの、これ以上ない実例です。
つまり幕末の郷士たちは、血としては長宗我部の遺臣ではありませんでした。それでも彼らは「上士に踏まれる側」という同じ位置に置かれていました。長宗我部の敗北が幕末を作ったのは、血統を通じてではなく、山内家が作った二重構造という器を通じてだったのです。
ちなみに、土佐藩の身分差別を極端に描くのは小説の影響が大きいという指摘もあります。絹と木綿、雪駄と草履といった具体的な区別についても、確かな典拠は確認できませんでした。ここは語り伝えとして受け止めるべき部分です。ただし、次に挙げる事件は記録に残っています。
井口村刃傷事件——処分が示した身分の重さ
文久元年(一八六一)三月四日の夜、高知城下の井口村で事件が起きました。
上士の山田広衛と、郷士の中平忠次郎が路上で肩をぶつけます。忠次郎は非を認めて謝り、立ち去ろうとしました。ところが「軽格づれが」と罵られ、そのまま斬り殺されます。
報せを受けた兄の池田寅之進が山田を背後から討ち、駆けつけた上士の益永繁斎も斬って、その日のうちに割腹しました。従弟の宇賀喜久馬も切腹しています。
問題はそのあとの処分です。上士側——山田の父は謹慎のみ、弟には家督相続が許されました。郷士側——宇賀家と松井家は断絶、中平家と池田家は格禄没収。
先に斬ったのは上士のほうです。それでも家が残るのは上士で、潰されるのは郷士でした。この決定に郷士たちは激しく憤り、その半年後に土佐勤王党が結成されます。
なお、武市半平太が宇賀喜久馬に切腹を強要したという話が流布していますが、これは創作です。武市はむしろ寅之進の行動を批判したと伝えられます。
土佐勤王党——上士はほとんど入らなかった
文久元年八月、江戸築地の土佐藩中屋敷で土佐勤王党が結成されます。帰国後に同志を募り、加盟者は百九十二人に達しました。
その顔ぶれが、この党の性格を語ります。加盟者の大半は郷士・地下浪人・庄屋といった下級の層で、上士はごくわずかしか加わっていません(上士の人数については資料により二人とも二十人ほどとも記され、諸説あります)。
翌文久二年四月、党は参政の吉田東洋を暗殺します。実行したのは那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助の三人で、那須信吾は郷士でした。東洋は門閥や郷士の反感を買っていたと記されます。
切腹と斬首を分けたもの
山内容堂による弾圧で勤王党は壊滅します。そして慶応元年閏五月十一日、処分が下りました。
武市半平太は切腹。しかも法式どおり腹を三度かき切る三文字割腹を遂げたと伝えられます。前のめりになったところを二人の介錯人が両脇から心臓を突いて絶命させました。
同じ日、岡田以蔵ら四名は獄内で斬首されました。野根山に屯集した清岡道之助ら二十三人も、全員が斬首です。
この差は何だったのか。武市はすでに上士格の留守居組に昇っていたため拷問を免れ、切腹を許されたと記録されています。つまり切腹か斬首かを分けたのは、罪の軽重ではなく身分でした。同じ党の同じ日の処分が、そのまま土佐の二重構造を映しています。
戊辰戦争でも、上士と郷士は混ざらなかった
慶応四年(一八六八)正月、土佐藩は迅衝隊を編成して東へ向かいます。板垣退助が大隊司令、片岡健吉、谷干城らが並ぶ、戊辰の主力部隊のひとつです。
この迅衝隊は下士や郷士を主とした軽格によって編成されました。そして上士およそ四百名は、別に「馬廻銃隊」として編成されています。同じ藩の同じ戦争に出ながら、部隊が分かれていたのです。
迅衝隊は甲州勝沼で近藤勇の甲陽鎮撫隊を二時間ほどで破り、日光を経て会津若松城の攻略に加わりました。戦後、隊士たちは上士格へ昇進します。身分の壁は、二百六十年かけて動かなかったものが、戦争一つで動きました。

明治四年、廃藩と同じ年に元親が神になった
この物語には、きれいな結びがあります。
明治三年、廃仏毀釈によって長宗我部氏の菩提寺だった雪蹊寺が廃されました。翌明治四年(一八七一)、元親の弟の子孫にあたる島弥九郎与助らが高知藩庁に願い出て、旧雪蹊寺の本堂跡に秦神社を創建します。雪蹊寺にあった衣冠束帯姿の元親の木像を神体とし、戸次川で死んだ者たちの霊も祀りました。
明治四年は廃藩置県の年です。山内家の世が終わったその年に、旧臣の子孫が藩庁へ願い出て、長宗我部元親を神として祀り直した。二百七十年ぶりに、負けた側が公然と表に出たことになります。
ただし大名家として、あるいは華族としての長宗我部家の再興は確認できません。現代の当主を称する方は、元親の実弟・親房の系統から数えて十七代目にあたるとされます。
雨の岡豊山を歩いて
雨の日の山城は、正直なところ歩きにくいものです。石段は滑り、平場には水がたまります。
ただ、そのぶん見えるものもありました。詰の平場では、雨に洗われた礎石が黒く光って、建物の柱の位置をはっきりと示していました。石垣の石も一つひとつが濡れて輪郭を強め、乾いた日よりも積み方がよく分かります。訪れる人もなく、雨音だけがしていました。
丘の下には高知県立歴史民俗資料館があり、長宗我部の展示室が設けられています。城跡と資料館が同じ県立歴史公園のなかにあるので、雨の日でもここに逃げ込めるのはありがたいところです。
幕末を追いかけている身からすると、この丘は土佐の話の出発点にあたります。ここで負けた家の旧臣が郷士に固定され、その身分の器に、後の世の商人や豪農が入っていった。龍馬も武市も、その器のなかで生まれた人たちでした。幕末の土佐を知りたければ、まずこの丘に登るべきだと思います。
岡豊城跡へのアクセス・地図
岡豊城跡は高知県南国市岡豊町八幡にあり、高知県立歴史民俗資料館と同じ県立歴史公園のなかにあります。国の史跡で、自由に歩けます。山道は雨の日には滑りますので、靴にご注意ください。
▼ 土佐藩の歴代藩主や石高など、藩の詳しいデータはこちら
土佐藩(高知藩)/山内家20万2600石
▼ 土佐藩の支藩はこちら
中村藩(土佐藩支藩)/山内家3万石
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の解説板「岡豊城跡 全体案内板」
- 宿毛市史 近世編(郷士制度の採用条件)
- 高知市の文化財・観光解説(浦戸一揆、石丸塚、武市半平太旧宅及び墓)
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