岩崎弥太郎とは何をした人物か—土佐の地下浪人の子が、長崎で藩の船を買い、三菱をつくるまで

長崎の湊の倉庫街で荷を数える羽織袴姿の男と、荷を運ぶ人足たち(イメージイラスト)

岩崎弥太郎は、土佐の地下浪人の子に生まれ、長崎で藩の船と武器を買う仕事を任され、のちに三菱をつくった人です。幕末の彼は商人ではなく、藩の貿易実務を預かる役人でした。樟脳や和紙を売り、その金で軍艦を買う。そういう仕事をしていました。

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地下浪人の子でした

岩崎弥太郎の肖像写真
岩崎弥太郎(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

天保五年、土佐国の井ノ口村、いまの高知県安芸市井ノ口に生まれました。西暦でいうと、国立国会図書館と安芸市立歴史民俗資料館は1834年、安芸市の公式ページは1835年としています。和暦の年末生まれで、換算の仕方で割れる年です。

家は地下浪人でした。郷士の株を売ってしまい、武士の身分から外れた家です。安政二年には父が投獄され、弥太郎自身も獄につながれ、安芸郡を追放されています。土佐藩の身分の仕組みは「土佐藩の有名人を身分で分けると」で扱っています。

吉田東洋と出会い、後藤象二郎に引き上げられました

追放されたあとに出会ったのが吉田東洋でした。江戸へ出て安積艮斎の塾にも入っています。東洋が暗殺されたのちは、その甥にあたる後藤象二郎の下で働きました。

身分の外に弾き出された男が、藩政の中枢に拾われた。この順番がのちの働き方を決めています。

慶応二年、開成館に入りました

慶応二年、土佐藩直営の開成館に登用されます。殖産と貿易を一手に担う役所です。

ここで押さえておきたいのは、このとき後藤象二郎が開成館奉行であると同時に、軍艦奉行でもあったことです。藩の商いと藩の船が、同じ人間の下にありました。物を売って金をつくり、その金で船を買う。弥太郎の仕事はその回路の中にありました。

慶応三年、長崎の全権を任されました

長崎の湊の倉庫街で荷を数える羽織袴姿の男と、荷を運ぶ人足たち(イメージイラスト)
慶応年間の長崎、湊の倉庫街(イメージ)

翌年、長崎の開成館出張所、いわゆる長崎土佐商会へ送られます。慶応三年六月には経営の全権を任されました。

安芸市の説明はこう書いています。長崎土佐商会は樟脳、和紙、鰹節といった土佐の産物を輸出し、その利益で軍艦や武器を買った。高知市のほうは、洋式の艦船や銃を買う仕事は外国人を相手にするもので、大変な仕事だったと書いています。

三十代の初めの男が、藩の船を買う現場にいたわけです。

★海援隊との関係は、通説より険しいものでした

「龍馬に教えられて海運を志した」という話をよく見かけます。安芸市立歴史民俗資料館も「以前に長崎で坂本龍馬から得た示唆により海運業に着眼します」と書いています。

ただ、弥太郎自身が日記に書き残した言葉は、ずいぶん違う調子です。高知市の資料が引いているのはこの一文です。

過日来海援隊ノ引合、商会ノ盛衰ヲ深思発シ、何分心気不快

海援隊とのやり取りと商会の先行きを考えると、どうにも気分が晴れない。そういう意味です。

無理もない面はあります。慶応三年六月、長崎で英国船イカルス号の水兵が殺され、海援隊に嫌疑がかかりました。のちに他藩の者の仕業と分かりますが、その後始末は土佐商会に降りかかります。同じころのいろは丸沈没事件の処理も弥太郎の担当でした。弥太郎は主任を辞めて長崎を一度離れています。

接点があったことは確かです。ただ、一次史料に近い記録に残っているのは、協働というより摩擦でした。「龍馬の教えで三菱が生まれた」は通説として扱うのが正確です。龍馬の側の話は「坂本龍馬がつくった“会社”—亀山社中と海援隊」で扱っています。

明治三年、九十九商会—藩の船を借りて始めました

明治三年九月、明治政府の意向を受けた大阪府の指導で土佐商会は解散します。廃藩置県より前のことです。同年十月、九十九商会が設立され、弥太郎は社長となって「土佐屋善兵衛」を名乗りました。

このとき藩から借り受けた洋式船が三隻あります。夕顔丸・鶴・紅葉賀。この三隻で東京、大阪、神戸、高知のあいだの海運を始めました。

幕末に藩が買った船が、そのまま明治の海運会社の元手になった。三菱の出発点は、土佐藩の船でした。

なお、弥太郎が経営を握った時期は資料で割れています。高知市は明治三年十月に社長就任、安芸市は明治三年に責任者となり翌年に経営を引き受けたとしています。

三菱へ

明治六年に三菱商会を設立。のちに郵便汽船三菱会社となります。明治十八年には日本郵船会社の設立にこぎつけますが、その結果を見ないまま、同じ年の二月七日に病で亡くなりました。五十二歳でした。

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訪ねるなら

  • 岩崎彌太郎生家(高知県安芸市井ノ口)。寛政七年に建てられた家が現存します。所有者の厚意で一般開放されていますが、建物の内部は見られません(母屋の土間までは入れます)。開放は九時から十六時三十分、十七時閉門。月曜と年末年始は休み。火気厳禁、ペット不可
  • 生家の練塀は国の登録有形文化財です(平成二十二年四月二十八日登録)。山石と赤土を積み、上に桟瓦を葺いた「イシグロ」と呼ばれる伝統的な塀で、折れ曲がって十五メートル続きます。建物より先に塀が登録されているのが面白いところです
  • 安芸市立歴史民俗資料館(安芸市)。弥太郎を扱っています

墓所については、公的機関の資料で確かめられませんでした。

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 高知市「弥太郎、九十九商会へ」(弥太郎の日記、九十九商会が借り受けた藩船の船名)
  • 安芸市「三菱創業者『岩崎彌太郎』」「岩崎彌太郎生家」、安芸市立歴史民俗資料館
  • 国立国会図書館「日本人の自筆」、国立公文書館アジア歴史資料センター(後藤象二郎)
  • 文化庁 文化遺産オンライン「岩崎家住宅練塀」
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