高知城:山内一豊が関ヶ原の戦いの戦功により得た土佐24万石の高知城 【お城特集 日本の歴史】

関ヶ原の戦いの功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊は、長宗我部元親・盛親が居城としていた浦戸城に取りあえず入城します。しかし、慶長六年(1601年)に大高坂山に新たな城の築城を始め、慶長八年(1603年)に本丸と二ノ丸が完成し、浦戸城から移りました。

高知城:山内一豊が関ヶ原の戦いの戦功により得た土佐24万石の高知城 【お城特集 日本の歴史】

土佐国は長宗我部元親・盛親の領地だったため掛川からの移封後は国を治めることに苦心しました。元長宗我部氏の旧臣を郷士とし、掛川から連れてきた山内家の家臣を上士とし、厳しい身分制度を設けました。

ちなみに幕末に活躍した土佐の多くの者が郷士出身です。一例をあげると、坂本龍馬、中岡慎太郎、田中光顕、岩崎弥太郎などが有名です。

高知城:山内一豊が関ヶ原の戦いの戦功により得た土佐24万石の高知城 【お城特集 日本の歴史】

高知城:山内一豊が関ヶ原の戦いの戦功により得た土佐24万石の高知城 【お城特集 日本の歴史】

また、龍馬や慎太郎の考えに賛同し幕末後期に活躍したのが上士出身の板垣退助や後藤象二郎らがあげられます。龍馬が京都で暗殺さえされなければ、明治初期の土佐出身者の立身も違ってきたことでしょう。

高知城:山内一豊が関ヶ原の戦いの戦功により得た土佐24万石の高知城 【お城特集 日本の歴史】

■ 長宗我部元親・盛親が居城としていた浦戸城跡
http://www.jp-history.info/castle/229.html

高知県高知市丸の内1-2-1

目次

教授館から文武館へ、吉田東洋が城の西に開いた学舎

土佐藩で最初の藩校は、宝暦九年に八代藩主山内豊敷が追手筋に開いた教授館で、身分を問わず入学できた点に特色があり、ジョン万次郎もここで学びました。幕末の参政吉田東洋は文久二年、この教授館に代わる藩校として高知城の西側に「文武館」を開き、文武は車の両輪の如しを掲げて、洋書や砲術といった新しい時代に即した学術を取り入れます。文武館はのちに致道館と改称され、西洋式軍備に対応できる人材を育てる場となりました。

追手筋に倒れた参政と、致道館の東門から出た迅衝隊

その東洋は文久二年四月、外出先から帰る途中を土佐勤王党の党員に襲われて命を落とします。高知市の説明では、殉難の碑は追手筋二丁目に建つものの、実際の現場はそこよりやや南寄りであったと伝わります。城のすぐ外で藩論を握る人物が斃れたこの事件は、土佐藩が勤王へ大きく傾く転機となりました。それから六年後、戊辰戦争に際して土佐藩の迅衝隊は東洋が遺した致道館に集合し、その東門から出陣したと伝えられます。致道館の表門は武道館の正門として現存し、高知県の重要文化財に指定されています。

本丸がまるごと残り、十五棟が国の指定を受けるまで

維新後の高知城は、明治六年に本丸以外の建物が取り払われ、明治九年には追手門を除く大部分が払い下げられました。それでも本丸御殿にあたる懐徳館をはじめ本丸の建物群は失われず、全国で本丸御殿がすべて残るのは高知城だけといわれます。天守ほか十四棟、あわせて十五棟が昭和九年一月三十日に国の指定を受け、城跡そのものも昭和三十四年六月十八日に国の史跡となりました。

山内一豊と妻・千代—高知城のはじまり

内助の功 高知城を築いた山内一豊の妻・千代(見性院)は、「内助の功」の手本として語り継がれてきました。一豊がまだ身分の低い武士だったころ、千代が嫁入りのときに持ってきた金を差し出して名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまって一豊の出世の糸口になったという話です。城内の追手門の近くには、馬を引く一豊の像と、千代の像が建っています。

大火と再建 一豊は慶長六年(1601)から大高坂山に城を築き始め、城は二代忠義のときに完成しました。ところが享保十二年(1727)の大火で、天守をはじめ城の多くが焼けてしまいます。いまの天守は、寛延二年(1749)ごろまでに元の姿にならって建て直されたもので、追手門とともに江戸時代の建物として残っています。

高知城の縄張りと、城下から出た人びと

河中山から高智山へ

山内一豊は慶長六年(1601年)九月に大高坂山で鍬初めを行い、慶長八年に入城しました。城全体が完成したのは二代忠義のころで、慶長十六年ごろとされます。築城の総奉行を務めたのは百々越前守綱家で、近江の石工集団・穴太衆を配下に持っていたと伝わります。一豊は城の名を「河中山城」としましたが、慶長十五年に「高智山城」と改められ、のちに略されて「高知城」となりました。

梯郭式の平山城

高知城は、最も高い所に本丸を置く梯郭式の平山城です。本丸の北には空堀を隔てて二ノ丸、東の一段低い所には三ノ丸が置かれ、ほかに獅子の段や帯郭がありました。城壁はすべて石垣で、大手口は南東の麓、搦手口は西の麓にあります。本丸と二ノ丸をつなぐ詰門のまわりは、攻め手を迷わせる通路の造りが高く評価されています。南を流れる鏡川と北の江ノ口川が、外堀の役目を果たしていました。

享保十二年の大火のあと、天守は焼ける前の姿を写して再建されました。再建の年は延享四年(1747年)とする説と、寛延二年(1749年)とする説があります。城全体の再建は宝暦三年(1753年)まで続きました。

城下に生まれた幕末の人物

高知の城下からは、幕末を動かした人物が何人も出ています。

  • 坂本龍馬:上町の生まれ
  • 近藤長次郎:屋敷跡が同じ上町にある
  • 板垣退助:天保八年(1837年)に城下の中島町で生まれる
  • 後藤象二郎:翌天保九年に片町で生まれる

城から歩いて回れる範囲に、生誕地の碑がいくつも残っています。

廃城から公園へ

明治六年の廃城令ののち、城跡は高知公園となりました。このとき二ノ丸御殿、三ノ丸御殿、鉄門などが取り壊されています。その後、明治四十三年(1910年)に造園家・長岡安平の設計で、公園として整えられました。

場所・アクセス・地図

高知県高知市丸ノ内

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