栗本鋤雲(くりもと じょうん)は、蝦夷地の箱館に送られた幕府の医者から、フランスとの交渉をになう外国奉行へ転じた人物です。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公である小栗忠順とは幼いころからの友人どうしで、横須賀に製鉄所を建てる話が動きはじめたときも、フランスとの仲立ちをつとめました。維新のあとは新政府に仕えず、新聞の編集者として筆で暮らしています。小栗の有名な言葉を書き留めて後の世に伝えたのも、この人でした。小栗忠順(小栗上野介)とは何をした人物かとあわせて読むと、幕末のフランスとの結びつきが立体的に見えてきます。
医者の家に生まれ、奥医師になりました
文政五年三月十日、江戸に生まれました。父は幕府の医官である喜多村槐園で、鋤雲はその三男にあたります。もとの姓は喜多村、名は鯤、通称は瀬兵衛といい、のちに栗本家の養子となって家を継ぎました。鋤雲は号で、匏庵とも名のっています。
嘉永元年に家業を継いで奥医師となり、将軍家の医療にたずさわる立場に就きました。このまま医者として一生を終えても不思議ではない経歴でしたが、そうはなりませんでした。上役の機嫌をそこねたことが理由とされ、職を解かれてしまいます。
蝦夷地へ移るよう命じられました
安政五年、蝦夷地への移住を命じられました。行き先は箱館、いまの函館です。左遷といえば左遷ですが、鋤雲はここで医者の腕だけで生きようとはしませんでした。国立国会図書館の解説は、この時期の仕事を「山野の開拓、病院の造成などに力を注いだ」とまとめています。薬園をひらき、病院を整え、土地そのものを作り変える側にまわったわけです。
なお、箱館に移った年については資料によって書きぶりが分かれます。安政五年とする辞典がある一方で、箱館にいた年数を十年と記す辞典もあり、数えかたが一致していません。確実に言えるのは、文久三年に江戸へ戻るまで、人生のかなりの部分を北の港町で過ごしたということです。
箱館で、フランス人宣教師と机を並べました
箱館での出会いが、その後の鋤雲を決めました。相手はメルメ・ド・カションというフランス人宣教師です。カションは日仏修好通商条約を結ぶために来日したグロ男爵の通訳として日本に渡り、安政六年の暮れに箱館へ入りました。函館市文化・スポーツ振興財団の人物伝によれば、鋤雲がカションに日本語を教え、その代わりにフランス語を学んだといいます。
鋤雲の質問は語学にとどまりませんでした。フランスの政治、経済、軍事、風俗習慣まで各分野にわたって尋ね、その内容を『鉛筆紀聞』としてまとめています。書物や翻訳ではなく、生きているフランス人からじかに聞き書きした情報でした。幕府のなかでフランスの事情をこれほど具体的に語れる人物は、当時ほとんどいませんでした。
カション自身も箱館に腰を据えるつもりでいました。万延元年にはフランス語の学校をひらき、役人や町の人にフランス語を教えています。上司あての手紙に、遠大な希望のすべては箱館に設立したフランス語学校のうちにある、と書き送ったほどの熱の入れようでした。カションは文久三年の夏に箱館を去りますが、二人の縁はここで切れず、のちに江戸と横浜で結び直されます。
江戸に戻り、目付から外国奉行へ進みました
文久三年、鋤雲は江戸に呼び戻されます。学問所頭取をつとめたのち、元治元年には目付となりました。医者の家に生まれた人間が、幕府の監察にあたる役職に就いたことになります。慶応元年には軍艦奉行並を経て外国奉行に進み、外交の最前線に立ちました。
この昇進は、箱館で身につけたフランス語とフランス知識があってのものでした。ちょうどこのころ、駐日フランス公使レオン・ロッシュが幕府への接近を強めており、フランス語のわかる幕臣が急に必要になっていたのです。しかも、ロッシュのそばには箱館で机を並べたカションが再び現れます。北の港町で交わした問答が、そのまま幕府の外交の現場へ持ち込まれたかたちになりました。
横須賀製鉄所は、四人の話し合いから始まりました
横須賀市の説明では、鋤雲は小栗上野介忠順の幼いころからの友人であり、フランスとの仲立ち役でした。カションとは箱館時代をともに過ごした親密な間柄です。小栗、ロッシュ、栗本、カションの四人が顔を合わせて話し合い、そのおよそ一か月後に横須賀が造船施設の建設地に決まりました。国立国会図書館の資料も、ロッシュが勘定奉行の小栗忠順と目付の栗本鋤雲を通じて幕府に接触し、慶応元年に製鉄所建設の約定を交わしたと記しています。
この時期、鋤雲はフランス語を話せる幕臣を育てる仕事にも関わりました。国立公文書館の展示資料によれば、元治二年二月から幕臣の子弟が次々と横浜へ送られ、慶応元年八月に横浜仏語伝習所が落成し、翌年十二月には伝習生が五十九名に達しています。横須賀製鉄所とはという施設は、こうした語学の下地とあわせて用意されたものでした。
慶応三年にフランスへ渡り、帰る国が変わっていました
慶応三年、鋤雲はフランスへ派遣されます。この年、幕府はパリ万国博覧会に将軍名代として徳川昭武を送り出しており、向山一履を全権公使とする一行がヨーロッパにいました。国立国会図書館は、この使節の顔ぶれのなかに外国奉行として栗本鋤雲の名を挙げています。田辺太一、渋沢栄一、箕作麟祥、佐野常民といった、のちの日本を動かす人々が同じ時期にパリにいました。幕府が海外へ人を送った回数は十年ほどのあいだに六回で、これが最後の大がかりな使節にあたります。万延元年遣米使節とはという最初の一団に小栗が加わってから、まだ七年しか経っていませんでした。
ところが、鋤雲が海の向こうで働いているあいだに、足もとの幕府が消えました。大政奉還、王政復古と続き、帰国した明治元年には、仕えるべき主君も役所もありません。小栗忠順はなぜ斬られたのかという出来事も、この留守のあいだに起きています。
新政府には仕えず、新聞記者として後半生を送りました
維新のあと、鋤雲は新政府に仕えませんでした。明治五年に横浜毎日新聞へ入り、明治六年には郵便報知新聞に編集主任として入社します。随筆をさかんに寄稿し、明治十八年に退社しました。旧幕臣が官職を得て立身する例も多いなかで、筆一本で立つ道を選んだかたちです。明治三十年三月六日に世を去りました。
その文章は『匏庵十種』や『匏庵遺稿』としてまとめられ、幕末を知るための史料になっています。幕府が倒れても値打ちのあるものは残る、という趣旨で小栗が語ったと伝わる「土蔵付売家」の一言も、出典をたどると鋤雲の『匏庵十種』に行き着きます。政治から身を引いた男が書き残したおかげで、友人の言葉がいまも引用され続けているわけです。小栗忠順と勝海舟をめぐる語り口の多くも、この種の回想を土台にしています。
参考にした資料
- 国立国会図書館『近代日本人の肖像』
- 国立国会図書館『近代日本とフランス——憧れ、出会い、交流』
- 函館市文化・スポーツ振興財団『函館ゆかりの人物伝』
- 横須賀市『横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)』
- 国立公文書館『激動幕末』
