小栗家の領地・権田村とは—いつから知行所だったのか、代官はいたのか、年貢はどう届いたのか。参勤交代のない旗本と家臣の数

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

小栗上野介忠順が最後の六十四日を過ごした上州権田村(いまの群馬県高崎市倉渕町権田)は、小栗家の知行所、つまり幕府から与えられた領地の一つでした。

では、権田村はいつから小栗家の領地だったのでしょうか。小栗家は村に代官を置いていたのか。年貢はどうやって江戸の屋敷まで届いたのか。そもそも旗本に参勤交代はあったのか。小栗家には何人の家臣がいたのか。旗本の領地と暮らしの仕組みを、権田村を例にたどります。

大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、松坂桃李さんが主人公の小栗忠順を演じます(主演、2025年3月3日発表)。

目次

権田村と小栗家—先に答え

いつから小栗家の領地か宝永元年(1704年)から。天保八年(1837年)にいったん幕府領となり、翌年に小栗家へ戻りました
村の大きさ村高は三百七十五石余。幕末の家数は二百二十三軒
代官は置いたか小栗家が権田村に陣屋や代官を置いた記録は見つかりません。村の名主が実務を担っていたと考えられます
年貢の届き方名主が村の年貢を集め、米と金(永)で納めました。領主側は割付状で額を知らせ、皆済目録で受け取りを示します
参勤交代ありません。旗本はふだん江戸に住む「定府」で、参勤交代をしたのは交代寄合と呼ばれる一部の旗本だけでした
家臣の数総数を記した史料は見つかっていません。軍役の規定(案)では二千石で三十八人、三千石で五十六人とされます

小栗家の領地は七か所に散らばっていた

小栗家の知行は二千五百石で、忠順の代の万延元年(1860年)に二百石が加えられ、二千七百石になりました。郷土史家の市川光一氏によれば、その領地は上野・下野・上総・下総など七か所に分かれていたといいます。

旗本の領地は、大名のように一つの地域にまとまっているとは限りません。いくつもの村に散らばり、一つの村を何人かの旗本で分け合うことも珍しくありませんでした。

確かめられる村を挙げると、次のとおりです。

  • 上野国群馬郡権田村(高崎市倉渕町権田):三百七十五石余
  • 上野国緑野郡小林村・森村(藤岡市):万延元年に加えられた二百石の大部分がこの二村とされます
  • 下野国足利郡高橋村(足利市):館林市の資料に「旧知行所」として名が見えます

ほかの村の名と石高は、わかっていません。小栗家の石高と家の歴史は小栗忠順の石高は二千七百石で詳しく取り上げています。

権田村はいつから小栗家の領地だったのか

群馬県立文書館の解説などによれば、権田村が小栗家の領地になったのは宝永元年(1704年)です。それまでは三之倉藩領、豊岡藩領、幕府領と移り変わっていました。

その後、天保八年(1837年)にいったん幕府領に戻されますが、翌年には再び小栗家の領地になります。忠順が生まれたのは文政十年(1827年)ですから、生まれたときから権田村は小栗家の村でした。

宝永元年の小栗家の当主は、年代からみて三代目の政重と考えられます。ただし、どの当主がどういう経緯で権田村を得たのかを示す記録は、確かめられていません。

権田村はどんな村だったのか

権田村は、榛名山の西、烏川の上流に開けた山あいの村です。幕末の記録では家数が二百二十三軒ありました。

村には領主への年貢のほかにも、さまざまな負担がありました。烏川の堤防や橋の普請、中山道の宿場へ人馬を出す助郷、近くの大戸関所の修理などです。山の村らしく、田より畑の多い村でした。

この村の寺が、のちに小栗の墓が建つ東善寺です。曹洞宗の寺で、寺紋の「丸に立波」は小栗家の家紋と同じです。東善寺は、小栗家との縁は権田村が知行所になった宝永元年から始まったとしています。

▶ 「主人公・小栗忠順の生涯」の記事

代官はいたのか—村を動かしたのは名主

大きな旗本のなかには、知行所に陣屋を構え、家臣を代官として送る家もありました。けれども、小栗家が権田村に陣屋や代官を置いた記録は見つかっていません。

平凡社の世界大百科事典によれば、中小の旗本は、知行所の名主や有力な百姓に代官の仕事を任せることが少なくありませんでした。権田村でも、寛永年間から二つの家が交代で名主を務めており、村の実務は名主が担っていたと考えられます。

名主・佐藤藤七と小栗家

権田村の名主と小栗家の結びつきを示すのが、佐藤藤七です。

藤七は文化四年(1807年)、本動堂村(いまの藤岡市)の名主の家に生まれ、跡継ぎのいなかった権田村の名主・佐藤家に婿に入りました。小栗家に才能を見込まれて江戸で仕え、万延元年の遣米使節では、小栗の従者の一人としてアメリカへ渡っています。村の名主が、領主の家来として世界を一周したのです。

慶応四年(1868年)に小栗が権田村へ移り住めたのも、こうした村との長いつながりがあったからでしょう。遣米使節については万延元年遣米使節とはで紹介しています。

年貢はどうやって小栗家に届いたのか

知行所の年貢は、おおむね次の流れで領主のもとに届きました。国税庁税務大学校の租税史料の解説などをもとにまとめます。

  1. 年貢割付状:領主の側から村へ、その年の年貢の額と納める期日を知らせます。
  2. 名主が村で集める:名主が村の百姓から年貢を集めます。畑の年貢(夏成)は金で、米の年貢(秋成)は収穫に合わせて何回かに分けて納めました。
  3. 小手形:納めるたびに、仮の受け取りが出されます。
  4. 年貢皆済目録:年内に納め終えると、翌年の初めに正式な受け取りが村へ渡されます。

権田村については、正徳三年(1713年)の割付状が残っています。村高三百七十八石余に対し、年貢は米七十九石余と永四十五貫余でした。「永」は銭で数える単位で、実際には金で納める分です。米と金の両方で納めていたことがわかります。

米は俵に詰めて運ばれ、金は名主らが江戸の屋敷へ届けたと考えられます。小栗家の屋敷は、江戸の神田駿河台にありました。ただ、権田村から駿河台まで年貢をどう運んだかを具体的に示す記録は、見つかっていません。

二千七百石の手取りはどのくらいか

石高はあくまで領地の村々の生産高で、小栗家にそのまま入るわけではありません。年貢の率を四割(四公六民)とすれば、計算上は二千七百石のうち千石あまりが小栗家の取り分になります。

ただし年貢の率は村によっても時期によっても違います。権田村の正徳三年の例を目安として換算すると、村高のおよそ三割ほどでした。換算の仕方で数字は大きく変わるので、あくまで目安です。

旗本に参勤交代はなかった

大名は一年おきに国元と江戸を行き来する参勤交代を課されましたが、旗本は原則として江戸に住み続けました。これを「定府」といいます。旗本は将軍のそばで役職を務めるのが仕事でしたから、江戸を離れないのが当然だったのです。

例外は「交代寄合」と呼ばれる旗本です。一万石に満たなくても、領地に陣屋を構えて住み、大名と同じように参勤交代をしました。幕末には三十あまりの家がありました。小栗家は交代寄合ではなく、駿河台の屋敷に代々住み、忠順も勘定奉行などの役職を江戸で務めています。

つまり、小栗家の当主にとって、権田村はふだん自分が住む場所ではなく、年貢を納めてくれる遠くの村でした。

江戸を出て、知行所に住むという決断

そんな小栗が権田村へ移り住んだのは、慶応四年(1868年)のことです。正月に役職を解かれた小栗は、一月二十八日に知行所へ土着したいと願い出て、翌日には許されました。

二月二十八日に駿河台の屋敷を出て、三月一日の夕方に東善寺に着いています。高崎を出て室田で昼をとり、権田村に入りました。

旗本が知行所に住むこと自体がどれほど珍しかったのかは、はっきりした資料が見つかっていません。ただ、江戸の屋敷で暮らし、江戸城に勤めることが旗本の生き方の基本だったことを考えると、小栗の土着は、新しい時代を村で迎えようとする大きな決断だったと言えるでしょう。村で何をしようとしていたのかは小栗上野介は権田村に砲台や陣屋を築いていたのかで取り上げています。

小栗家には何人の家臣がいたのか

旗本も、大名と同じように自分の家臣を抱えていました。将軍から見れば、旗本は直接の家来(直臣)で、旗本の家臣は家来の家来、つまり陪臣にあたります。

石高から見た家臣の数の目安

幕府は、石高に応じて戦のときに連れて行く人数を定めていました。慶安二年(1649年)の軍役の規定では、次のとおりです。

  • 二千石:三十八人(侍八人、鉄砲二人、槍持ち五人、馬の口取り四人など)
  • 三千石:五十六人

二千五百石の規定は見当たりませんが、この二つの間と考えれば、小栗家は戦の際に四十人から五十人ほどを出す家だったことになります。ただし、この慶安の規定は案だけで正式には出されなかったという見方もあります。また、ここには槍持ちや馬の口取りなど、戦のときだけ雇う人も含まれます。ふだんから屋敷に仕える家臣がこの人数だったとは限りません。

名前が残る小栗家の家臣

小栗家の家臣の総数を記した史料は見つかっていません。ただ、小栗とともに最期を迎えた家臣たちの名は、東善寺の供養墓に残されています。

  • 小栗とともに斬られた家臣:荒川祐蔵(三十六歳)、大井磯十郎、渡辺太三郎(二十歳)
  • 養子の又一とともに高崎で斬られた家臣:塚本真彦(三十七歳)、沓掛藤五郎(二十五歳)、多田金之助(二十歳)
  • 会津で戦死した家臣:佐藤銀十郎(二十一歳)、塚越富五郎(二十三歳)

このうち塚本真彦は小栗家の用人で、遣米使節にも随行して世界を一周した人です。用人は、旗本の家の家政を取り仕切る重臣でした。

なお、処刑の場所や従者の人数は、史料によって記述が異なります。高崎市の『市史のひろば』第七号が紹介する史料では、小栗は従者三人とともに、又一は従者四人とともに処刑されたとしています。

小栗の家族については小栗忠順の家族で紹介しています。

まとめ

  • 小栗家の知行二千七百石は、上野・下野などの七か所に分かれていた。
  • 権田村は宝永元年(1704年)から小栗家の領地で、村高は三百七十五石余。
  • 小栗家が代官を置いた記録はなく、村の実務は名主が担っていたと考えられる。名主の佐藤藤七は小栗に従ってアメリカへ渡った。
  • 年貢は割付状で額が知らされ、名主が米と金で納めた。
  • 旗本は江戸に住む定府で、参勤交代はなかった。小栗の権田村への土着は、その暮らしからの大きな転換だった。
  • 家臣の総数はわからないが、石高から見れば戦の際は四十〜五十人ほどを出す家だった。

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参考資料

群馬県立文書館「権田村」の解説(角川日本地名大辞典ほか)、市川光一『小栗上野介』(みやま文庫、2004年)の記述(国立国会図書館レファレンス協同データベースによる)、藤岡市の地域だより、館林市の資料、東善寺(小栗上野介顕彰会)の記述(佐藤藤七、権田村での六十四日、家臣の供養墓)、国税庁税務大学校「NETWORK租税史料」、コトバンク(世界大百科事典「旗本」「交代寄合」「軍役」)、高崎市立中央図書館『市史のひろば』第七号。知行所の全村名、家臣の総数、年貢の運び方は確認できていません。手取りの額は計算上の目安です。

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