小栗忠順の罷免とは——慶応四年正月、鳥羽伏見の敗報が届いた江戸城で起きたこと

慶応四年の正月、鳥羽・伏見の敗報が届いた江戸城で、勘定奉行の小栗忠順はなお戦うべきだと唱え、正月十五日に全ての役を解かれました。この十数日のあいだに、幕府がどちらへ進むかが決まります。ところが、その場で何が語られたのかを伝える確かな記録は、思いのほか多くありません。ここでは日付のはっきりしている事実と、語り継がれてはいるけれど裏づけの取れない話とを、はっきり分けて並べてみます。

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正月三日、鳥羽と伏見で幕府軍が敗れました

国立公文書館は、明治元年すなわち慶応四年の正月三日に鳥羽・伏見で新政府側と幕府側が武力衝突し、新政府軍が勝ったと記しています。ここから明治二年五月に箱館で榎本武揚らが敗れるまでの一連の戦いが、戊辰戦争と呼ばれるものです。緒戦の数日で形勢は決まり、大坂城にいた将軍徳川慶喜は、会津藩主の松平容保と桑名藩主の松平定敬を伴って海路で江戸へ引き上げました。

大坂には幕府方の兵がまだ多く残っていました。総大将が先に帰ったという事実は、戦いの勝ち負け以上に重い意味を持ちます。江戸城で待っていた幕臣たちは、まず何が起きたのかを知ることから始めなければなりませんでした。

正月十一日、誰も口を開きませんでした

その日の江戸城の空気を伝える記録が一つ残っています。勝海舟の日記です。国立国会図書館が公開している慶応四年正月十一日の条で、勝は「初て伏見の顛末を聞く」と書き起こし、会津・桑名の両藩主も供のなかにいたと記しました。そして詳しい話を問いただそうとしても、居並ぶ役人たちは「唯青色、互に目をもってし、敢て口を開らく者なし」と続けます。

青ざめて目配せをするばかりで誰も説明しない、という一行は、このあとの評議がどんな空気のなかで行われたかを想像させます。責任の所在が誰にもはっきりしないまま、方針だけを決めなければならない状況でした。小栗忠順と勝海舟という二人の距離も、この数日で決定的になります。

小栗が唱えた主戦論は、輪郭だけが伝わっています

国立国会図書館は小栗について、戊辰戦争に際し強硬な抗戦論を主張して罷免されたと簡潔に記しています。抗戦論そのものがあったことは公的な記述として確かめられます。問題は、その中身です。

よく語られるのは、東海道を進んでくる新政府軍を箱根の険しい地形で足止めし、そこへ幕府の艦隊が駿河湾から艦砲を撃ちかけて挟み撃ちにする、という作戦案です。幕府はオランダで建造させた開陽丸を擁しており、海の上では優位に立てるという読みが背景にあったとされます。ただし、この案を記した同時代の史料の名を挙げている公的な資料は見あたりませんでした。語り口にも幅があり、箱根とする説、駿河とする説、具体的な地名を出さない説が入りまじっています。ですからここでは、諸説ありとしたうえで、確かめられるのは強硬な抗戦論という骨格までだと申し添えておきます。

勝との対立は、史実としては輪郭がぼやけています

小栗の主戦論と勝の恭順論がぶつかった、という筋書きは広く知られています。けれども、二人が評定の席で直接わたり合ったことを示す一次史料は、確認できませんでした。小栗忠順(小栗上野介)とは何をした人物かで整理したとおり、二人は万延元年の遣米使節にそろって加わりながら、乗った船も役目も別でした。対立の構図は、後世に物語として整えられていった面が小さくありません。

実際に恭順へ舵を切らせたのは、慶喜自身の判断でした。慶喜は二月十二日に江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎し、後のことを勝海舟と大久保忠寛、すなわち大久保一翁に託します。勝はその後、三月十三日と十四日に西郷隆盛と会談しました。十三日の日記に勝は「戦と不戦と興と廃とに到りて、今日述るところにあらず」と書きつけており、決着は翌日へ持ち越されています。

正月十五日、御役御免が申し渡されました

小栗が役を解かれたのは、慶応四年正月十五日です。処分の内容は御役御免、そして勤仕並寄合、すなわち役職を持たない旗本の身分に戻す、というものでした。高崎市も、小栗が慶応四年の正月に全ての役職を罷免されたと記しています。

罷免を誰がどのように決めたのかについては、老中と若年寄が江戸城中で申し渡したと伝える記述がありますが、公的機関の資料でその場面まで確かめることはできませんでした。また、勝が罷免に関与したことを示す史料も、探した範囲では一件も出てきません。罷免からほどなく勝が海軍と陸軍の要職に相次いで起用されたことは事実ですが、それは結果としての入れ替わりであって、因果を示す証拠とは別ものです。

三月一日、許しを得て権田村へ移りました

役を失った小栗は、幕府に帰農を願い出ます。許しを得て上州権田村、いまの高崎市倉渕町権田へ土着したのが慶応四年三月一日です。到着は三月のうちで、村の東善寺を仮住まいとし、観音山に住まいを建てはじめました。江戸に残ってなお戦いを説くのではなく、領地へ引いて田畑に向かう道を選んだことになります。

けれども、その暮らしは続きませんでした。高崎市によれば、倉渕での滞在はわずか六十五日です。閏四月五日に家臣三人とともに捕らえられ、翌閏四月六日、倉渕町水沼の烏川の河原で斬首されました。享年四十二です。そこに至る経緯は小栗忠順はなぜ斬られたのかにまとめています。

残されたものは、碑と家族でした

水沼の川原には昭和七年に碑が建てられ、「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻まれました。この碑は昭和五十七年四月一日に高崎市の指定史跡となっています。取り調べらしい取り調べもないままの処刑であったことを、地元の自治体が公式に「罪なくして」と表現し続けている点は、記憶されてよいことです。現地の様子は【現地取材】東善寺と小栗上野介の墓でも触れました。

斬首の翌日には養子の又一も高崎城内で斬られ、身重の妻は会津へ逃れます。その後の家族がどう生き延びたかは小栗忠順の遺児はどう生きたかのとおりです。慶応四年正月の十数日は、一人の幕臣の政治生命を断つと同時に、一つの家の運命も変えてしまいました。

参考にした資料

  • 国立国会図書館『近代日本人の肖像 小栗忠順』
  • 国立国会図書館『日記の世界 勝海舟』
  • 国立公文書館『日本のあゆみ 明治元年一月 鳥羽・伏見の戦い』
  • 高崎市『デジタル広報高崎 本市ゆかりの幕臣・小栗上野介』
  • 高崎市『高崎市文化財情報 小栗上野介忠順終焉の地』
  • 東善寺『小栗上野介忠順の略歴』
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