小栗忠順と勝海舟を比べる——石高・家格・役職の表でみる、二人の幕臣の階段と結末

江戸城の廊下で背を向けて左右に分かれていく二人の幕臣(小栗忠順と勝海舟のイメージ)

小栗忠順(小栗上野介)と勝海舟は、よく「犬猿の仲」「宿命のライバル」として並べられます。主戦論の小栗と恭順論の勝。考え方が正反対なだけでなく、片方が役を追われると、もう片方が要職に就く、という場面もありました。

二人の関係を物語として追った記事は、小栗忠順と勝海舟——同じ幕府に仕えた二人は、なぜ正反対の道を選んだのかにまとめています。この記事では見方を変えて、家格・石高・役職を表で並べて比べてみます。数字で並べると、二人は同じ「幕臣」でも、出発点からまるで違っていたことがわかります。

目次

家格と石高——2,500石の上級旗本と、41石の小普請

まず、生まれた家から比べます。

 小栗忠順勝海舟
生まれ文政十年(1827年)、江戸・神田駿河台文政六年(1823年)、江戸・本所亀沢町
家三河以来の「安祥譜代」の旗本。小栗家十二代旗本の列には入っていたが、もとは御家人の家
家禄2,500石(のち200石加増で2,700石)41石余
父小栗忠高。新潟奉行などをつとめた勝小吉。無役の小普請で、生涯役に就かなかった
屋敷神田駿河台の旗本屋敷本所の小さな屋敷

知行を持つ旗本の平均は、千石あまりだったとされます。小栗家の2,500石はその倍以上で、「上級旗本」と呼んでよい家でした。一方、勝の家の41石は、旗本としては最も下のほうです。父の小吉は役に就けず、暮らしは苦しいものでした。

勝家の曽祖父・銀一(男谷検校)は越後の貧しい農家の出で、目が見えず、江戸で金貸しをして財をなした人です。その財で子を御家人の男谷家に入れ、勝小吉はそこから勝家に養子に入りました。三河以来の家筋を誇る小栗家とは、家の成り立ちからして違っていたわけです。

ただ、年は勝のほうが四つ上です。役人として先に世に出たのも勝でした。

なぜ太平洋を渡ったのか

二人は安政七年・万延元年(1860年)、そろってアメリカへ渡ります。ただし、乗った船も、行った理由も違いました。

同じ太平洋でも、ポーハタン号の甲板に立つ小栗(左)と、荒波の咸臨丸で船べりにつかまる勝(右)(イメージ)
同じ太平洋でも、ポーハタン号の甲板に立つ小栗(左)と、荒波の咸臨丸で船べりにつかまる勝(右)(イメージ)

小栗は、日米修好通商条約の批准書を交換する遣米使節の目付として選ばれました。目付は使節の中で不正がないかを見張る監察の役です。そのうえ小栗には、金銀の交換比率をアメリカと話しあうという、表に出ない役目もありました。大老・井伊直弼が、小栗の経済の知識に目をつけて抜擢したと言われています。

勝は、使節の船とは別に幕府が出した咸臨丸に乗りました。長崎の海軍伝習所で学んだ日本人の手で、実際に太平洋を渡ってみる、という意味あいの強い航海です。最高責任者は軍艦奉行の木村喜毅で、勝の役職は「軍艦操練所教授方頭取」でした。対外的には艦長と説明されましたが、正式な艦長という職名があったわけではありません。

つまり小栗は外交と財政の仕事をしに、勝は船を動かす腕を試しに行ったのです。

アメリカで何をしたのか

 小栗忠順勝海舟
乗った船アメリカ軍艦ポーハタン号(帰りはナイアガラ号)幕府の軍艦・咸臨丸
行った先ハワイ、サンフランシスコ、パナマ、ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークサンフランシスコまで
主な仕事フィラデルフィアの造幣局で日本の小判を分析させる。ワシントン海軍工廠などを見学航海の指揮(ただし往路の大半は船酔いで寝込む)。サンフランシスコで船の修理を待つ
帰国大西洋・インド洋を回り、万延元年九月に帰国(結果として世界一周)万延元年五月五日、浦賀に帰着

小栗の仕事で有名なのは、フィラデルフィアの造幣局で日本の小判とアメリカの金貨を分析させたことです。日本の小判に含まれる金が多いことを示し、交換比率が日本に不利だと主張しました。交換比率の見直しそのものは実現しませんでしたが、日本側が根拠を示して主張したことは、アメリカの新聞にも取り上げられました。ワシントン海軍工廠で見た工場は、のちの横須賀製鉄所の手本の一つになりました。詳しくは万延元年遣米使節とはにまとめています。

勝のほうは、咸臨丸がサンフランシスコで修理を受けているあいだ、町のようすを見て回りました。往路はひどい船酔いで、同乗したアメリカ海軍のブルック大尉の日記には、勝がほとんど船室で寝ていたと書かれています。

勝がアメリカで何を感じたかについては、晩年の談話集『氷川清話』に、帰国後に老中から「アメリカと日本はどこが違うか」と聞かれ、アメリカでは人の上に立つ者がみなその地位にふさわしく賢く、その点は日本と正反対だ、という趣旨で答えた話が出てきます。ただし『氷川清話』は勝が晩年に語った話をまとめたもので、話を大きくしている部分もあると言われます。そのまま史実と受け取るのは慎重にしたほうがよいでしょう。

帰国後の出世の階段

アメリカから帰ったあと、二人の歩みははっきり分かれます。小栗はすぐに昇進し、勝はむしろ海軍から外されました。

年小栗忠順勝海舟
万延元年(1860年)外国奉行に昇進。200石加増で2,700石に蕃書調所頭取助に移る。海軍から離される
文久元年(1861年)対馬事件の処理で意見が通らず、外国奉行を辞める講武所砲術師範。左遷と受け取られた
文久二年(1862年)勘定奉行、町奉行、歩兵奉行軍艦操練所頭取に戻り、軍艦奉行並に
文久三年(1863年)勘定奉行などを辞める。陸軍奉行並に就くが半月ほどで辞める神戸海軍操練所の設立に動く
元治元年(1864年)勘定奉行に戻る。十二月に軍艦奉行五月に軍艦奉行(安房守)。十一月に罷免
慶応元年(1865年)ふたたび勘定奉行。横須賀製鉄所の建設が始まる役に就かず
慶応二年(1866年)海軍奉行並を兼ねる軍艦奉行に復帰。宮島で長州と停戦交渉
慶応三年(1867年)陸軍奉行並も兼ねる—
慶応四年(1868年)正月十五日に罷免。閏四月六日、斬首正月十七日に海軍奉行並、二十三日に陸軍総裁

小栗は、役を辞めたり外されたりしてもすぐに呼び戻され、勘定奉行には四度就いています。財政と軍事の実務を任せられる人が、ほかにいなかったからです。

勝は、咸臨丸から帰ったあと二年ほど海軍の外に置かれ、文久二年に軍艦奉行並として戻ってからも、元治元年の罷免でふたたび長く役を離れます。勝が重く用いられるのは、戦ではなく交渉が必要になったときでした。

片方が去ると、片方が就く——入れ替わりは本当か

「どちらかが罷免されると、もう片方が要職に就く」という見方を、年表で確かめてみます。はっきり当てはまるのは二回です。

  • 元治元年(1864年)——十一月十日、勝が軍艦奉行を罷免される。その約一か月後の十二月十八日、小栗が同じ軍艦奉行に就く。
  • 慶応四年(1868年)——正月十五日、小栗が勘定奉行と陸軍奉行並を罷免される。二日後の十七日、勝が海軍奉行並に就き、二十三日には陸軍総裁となる。

一方で、慶応二年(1866年)に勝が軍艦奉行に戻ったときは、小栗は勘定奉行のままで、役を追われてはいません。二人が同時に要職にあった時期もあったわけです。

ですから「入れ替わり」は、いつもそうだったわけではなく、幕府の方針が大きく変わった二つの節目で起きたことだと言えます。元治元年は、幕府が海軍を諸藩と一緒に育てようという勝の考えを危ぶんだとき。慶応四年は、将軍・徳川慶喜が戦をやめて恭順すると決めたときです。どちらの人物を使うかが、そのまま幕府の進む方向を表していたのです。

なお、慶応四年の小栗の罷免に勝が関わったことを示す史料は、見つかっていません。罷免を決めたのは慶喜です。この経緯は小栗忠順の罷免とはで詳しく書いています。

対極的な結末

 小栗忠順勝海舟
慶応四年の立場主戦論。罷免されて上州権田村へ恭順論。陸軍総裁として新政府軍と交渉
最期閏四月六日、取り調べもなく斬首。42歳明治三十二年(1899年)、東京・赤坂で没。77歳(数え)
明治以降「逆賊」とされ、名誉回復は大正以降海軍卿、枢密顧問官。明治二十年に伯爵

江戸城の無血開城をまとめた勝は、明治政府でも海軍卿や枢密顧問官をつとめ、伯爵になりました。小栗は、江戸を離れて権田村に移ったわずか二か月後、新政府軍に捕らえられ、取り調べもないまま斬られています。処刑の経緯は小栗忠順はなぜ斬られたのかにまとめました。

2,500石の上級旗本として生まれ、若くして要職を重ねた小栗が罪人として死に、41石の貧しい家から出た勝が伯爵として死んだ。出発点と結末が、ちょうど逆になっています。

比べてみてわかること

並べてみると、二人の違いは「考え方が正反対だった」だけでは説明しきれません。小栗は幕府の中枢で、財政・軍事・外交の実務を担う立場にずっといました。幕府を立て直すことが、そのまま自分の仕事でした。勝は、家柄の後ろ盾がないぶん、幕府の外にも人脈を広げ、坂本龍馬や西郷隆盛とも話ができる人でした。

幕府が戦うと決めれば小栗が、戦わないと決めれば勝が必要になる。二人は仲が悪かったというより、幕府がどちらに進むかによって、交互に呼ばれる役回りだったと見ることもできます。

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この記事の情報源

日本大百科全書・国史大辞典(ジャパンナレッジ)の小栗忠順・勝海舟の項、国立国会図書館レファレンス協同データベース、幕末幕臣動向(小栗忠順)、ウィキペディア日本語版の小栗忠順・勝海舟・咸臨丸・万延元年遣米使節の各項目などをもとにまとめました。役職の日付は資料によって前後することがあります。『氷川清話』の談話は、勝の晩年の回想である点に注意して引いています。

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