慶応四年閏四月六日の夕方、身重の小栗道子は、夫が河原で斬られたその日のうちに上州権田村を離れ、会津を目指して山へ入りました。付き添ったのは村役人と、村の若者たちでした。一行は信州から越後へ大きく回り込み、二十二日をかけて、閏四月二十八日の夜に会津若松へたどり着いています。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』は小栗忠順を主人公に据えますが、この逃避行は、その主人公が舞台から退いたあとに始まる道行きです。ここでは到着後の話よりも、道中そのものを日付と地名でたどってみます。
閏四月四日、夫は妻を村役人に託しました
菩提寺である東善寺の説明によりますと、閏四月三日、西軍がふたたび攻め寄せるという知らせが権田に届きました。忠順は妻の道子とともに東善寺を出て、いったん村のなかへ身を移しています。ところが翌四日、村の名主である佐藤藤七が訪ねてきて、村の者が難儀いたします、と説きました。忠順はこれを容れ、道子と別れて自分だけ東善寺へ戻ります。捕らえられるために戻ったようなものでした。この日、高崎・安中・吉井の三藩の兵が寺に踏み込み、忠順は縛られます。前後のいきさつは小栗忠順はなぜ斬られたのかに詳しく書きました。
別れぎわに忠順が道子を託した相手が、村役人の中島三左衛門でした。中島は村の者を集めて護衛隊を仕立て、自ら隊を率いて会津へ向かうことになります。幕府の要職を歴任した旗本の妻の身柄が、名も知られていない上州の村役人ひとりの判断にゆだねられた形でした。忠順がなぜ会津を行き先に選んだのかを直接語った書き付けは、見つけられていません。
出発したのは、夫が斬られたその日の夕方でした
閏四月六日、忠順は烏川ぞいの水沼の河原で斬られました。高崎市は、この日が西暦の千八百六十八年五月二十七日にあたると記しています。そして同じ日の夕方、道子たちは権田村を出ました。妻が村を離れたときに夫の死を知っていたのかどうか、確かめられる記録はありません。翌七日には、養子の又一忠道が高崎の城下で斬られています。二十一歳でした。
逃げたのは小栗家の女三人です。道子は三十歳で、腹に子を宿していました。忠順の母くには六十三歳、そしてもうひとりが、又一の許婚である鉞子で、十五歳でした。鉞子にとっては、婚約者が斬られたまさにその前日に村を発ち、その死を道中で聞くことになった旅でした。人物そのものの経歴は小栗忠順(小栗上野介)とは何をした人物かに、江戸城での失脚のいきさつは小栗忠順の罷免とはにまとめてあります。
一行は二手に分かれ、越後の堀之内村で落ち合いました
三人は同じ道を行きませんでした。身重の道子は護衛隊とともに山越えの道をとり、地蔵峠を越えて、七日の夕方に坂上村の高橋円次郎家へ入ります。八日の夕刻には六合村の広池で息を入れ、十二日に和光原の山田弥平次家、屋号をヤマニという家に着いて、三日ほど体を休めました。そこから野反の池のほとりを通り、秋山郷の和山温泉に二晩泊まり、反里口の根津仁右衛門家、二十日には十日町の中条村にある岡田寛蔵家と、村から村へ渡っていきます。泊めた家の名が屋号つきで残っているところに、この旅の性格がよく出ています。
一方、母のくにと鉞子は、善光寺参りの一行を装いました。草津白根山の北にあたる渋峠を越え、信州を回って越後を目指したといいます。歳をとった女と娘という組み合わせのほうが、関所や番所で咎められにくいという判断だったのでしょう。二手に分かれた二組は、越後の堀之内村でたまたま行き会い、そこから先は一緒に進みました。偶然の合流であったと東善寺は伝えています。
路銀を取りに戻った二人は、白根山で捕まりました
この旅で捕らえられた者もいます。中沢兼五郎と塚越房吉の二人です。二人は道子を守って歩いていた途中、中条村から権田へ引き返すよう命じられました。旅の費えが尽きかけたので、金を調達しに戻ろうとしたのです。ところがその帰り道、白根山の中腹にあたる芳ヶ平で警戒にあたっていた松代藩の兵に見とがめられ、そのまま牢へ入れられて取り調べを受けました。
二人は結局許され、ほうほうの体で権田へたどり着いたと記録されています。何をどう答えて放免されたのかは分かりません。ただ、この一件は、上州から信州へ抜ける峠がすでに新政府側の兵に押さえられていたことを示しています。女たちが山また山を選んで歩いたのは、物見遊山のためではありませんでした。二人はのちにあらためて会津へ向かっています。
閏四月二十八日に会津へ着き、その三日後に主が戦死しました
一行は六日町、新潟と下り、二十六日の夜に会津藩の拠点であった酒屋の陣屋へ入りました。そこから津川を経て越後街道をさかのぼり、二十八日の夜、ついに会津若松へ着きます。最初に身を寄せたのが紙問屋の湊屋善兵衛の家で、そこから家老の横山主税の家へ迎えられ、その家族に保護されました。権田を出てから二十二日目のことでした。
ところが、この落ち着き先は三日ともちませんでした。横山主税は五月一日、白河表で戦死します。二十二歳でした。諱は常守とも常忠とも伝えられ、資料によって揺れています。白河城をめぐる戦いは閏四月二十四日、つまり一行が会津に着く四日前にすでに始まっていました。主を失った屋敷に身重の女を置いておくわけにもいかず、道子たちは横山家を出て、南原にあった野戦病院代わりの農家へ移ります。逃げ込んだ先が、まもなく戦場になろうとしていました。
六月十日、南原の避難所で国子が生まれました
そして六月十日、道子はその南原の避難所で女の子を産みます。国子と名づけられました。養子の又一は斬られていますから、この赤子が忠順の血を引く唯一の子でした。落ちのびた先の、病院に充てられた農家の一室で、幕府最後の勘定奉行の娘が生まれたことになります。なお、南原が現在のどのあたりにあたるのかを明記した公的な資料は、今回は見つけられませんでした。
その後の会津は知られているとおりです。九月十四日に若松城への総攻撃があり、九月二十二日に開城しました。道子たちは南原からさらに南へ退いて松川村に移り、権田から来た護衛の者たちとともにそこで冬を越しています。年が明けた明治二年の春、一行は会津を発って東京へ出ました。村の者たちは道子と赤子を静岡まで送り届け、乞食同然の姿になって権田へ帰ったと伝えられます。母と娘が東京でどう暮らし、誰に支えられたのかは小栗忠順の遺児はどう生きたかに譲ります。
村が払った代償、会津で死んだ二人と相間川の姉妹観音
権田の若者のなかには、道子を送り届けたあと会津軍に加わった者がいました。佐藤銀十郎は二十一歳、水有の出で、フランス式の調練を受けていた男です。九月十一日、熊倉の戦いで討たれました。もうひとりの塚越冨五郎は二十三歳、同じく水有の者で、八月三十日、西会津の一竿の戦いで胸を撃たれて死んでいます。ほかに佐藤福松、大井伝兵衛、渡辺筆吉といった名も伝わります。東善寺の境内には忠順父子の墓を挟むように、家臣と家族、それに会津での戦死者の墓が並んでいます。現地の様子は【現地取材】東善寺と小栗上野介の墓に書きました。
逃げたのは小栗家の女たちだけではありません。用人であった塚本真彦の家族も村を出ています。群馬県の観光資料によりますと、妻と三人の子は共倒れになることを避けるため、次女と三女の二人を相間川に沈め、長男だけを背負って落ちたといいます。高崎市は、この一家を慰めるために建てられた観音像を姉妹観音として小栗関連の史跡に挙げており、像は立ち入りのできない区域にあったことから倉渕せせらぎ公園の近くへ移されました。沈められた姉妹の名や年齢、その日付までは確かめられていません。道子の一行が生き延びたのと同じ月に、同じ村から出た別の一行がこうなったということだけを書きとめておきます。
参考にした資料
- 東善寺『会津へ逃れた小栗上野介夫人』
- 高崎市『小栗上野介の関連史跡』
- 高崎市『デジタル広報高崎 本市ゆかりの幕臣・小栗上野介』
- 群馬県観光物産国際協会『心にググっと観光ぐんま 群馬ゆかりの幕臣 小栗上野介』
- 国立国会図書館『写真の中の明治・大正 会津戦争と若松城』
