2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
神奈川県横須賀市。米海軍と海上自衛隊が使っている基地の中に、明治四年に完成した石造りのドライドックが、いまも現役で残っています。幕府が倒れる三年前に着工したものです。造らせたのは勘定奉行の小栗忠順。着工の三年後に、小栗は取り調べもないまま斬られました。この記事では、その横須賀製鉄所がどうやって作られ、何を日本に残したのかを見ていきます。
きっかけは、一隻の船の修理でした
元治元年、幕府の船「翔鶴丸」が故障しました。小栗の交渉で、横浜に停泊していたフランス軍艦の乗員が修理を引き受けます。このときのフランス側の仕事ぶりが誠実だったことから、幕府はフランスを強く信頼するようになりました。以後の親密な幕仏関係は、ここが出発点です。
(この修理が製鉄所建設の直接のきっかけだった、と書いた史料は確認できていません。時期が近いのは確かですが、因果は断定できません。)
なぜフランスだったのか
実は最初、幕府はアメリカに協力を要請しています。ですが南北戦争の最中で断られました。フランス側にも事情がありました。当時フランスは蚕の伝染病に苦しんでおり、日本の生糸と蚕種を求めていたのです。利害が一致しました。
仲介したのは栗本鋤雲とフランス人宣教師カション。小栗・栗本・公使ロッシュ・カションの四人が面談し、一か月もたたないうちに建設地として横須賀が選ばれています。ロッシュは慎重でした。いきなり大規模施設を作る前に小さい工場から、と進言し、慶応元年一月にまず横浜製鉄所が置かれています。
なぜ横須賀だったのか
国立国会図書館の解説には、「ツーロン軍港に似た地形の横須賀が選ばれました」とあります。横須賀市の説明も、ヴェルニーがフランスのツーロン港に似た横須賀港を気に入った、という書き方です。
ただし「地形が似ていた」という以上の説明——水深がどうだったといった数字——は、今回調べた範囲では見つかりませんでした。用地買収や漁民への補償がどうなったのかも、ネット上の公的資料には出てきません。『横須賀市史』の現物にあたる必要がありそうです。
ヴェルニーは、二十七歳でした
首長に招かれたフランソワ・レオンス・ヴェルニーは、一八三七年十二月二日、フランス中部アルデシュ県オーブナの生まれです。
十六歳でリヨンのリセに入り、一八五六年にエコール・ポリテクニークへ合格しました。百十五名中六十四位という記録が残っています。海軍造船工学学校を経て、一八六二年に中国の寧波へ赴任。副領事として造船所建設を監督し、砲艦四隻を竣工させてレジオンドヌール勲章を受けました。
日本に来たのは一八六五年一月。生年から数えると満二十七歳です。(二十八歳・二十九歳とする資料もありますが、数え方の違いでしょう。)
そして十一年余り、日本にいました。
何人のフランス人が来たのか
ここは資料によって数字が違います。
- 約四十名(慶應義塾大学の研究紀要)
- 四十五名(日本建築学会の要望書)
- 百三十名——技師・職工・医師・教師(横須賀市)
- 技術者四十数人、家族を含め二百人(慶応二年の再来日時)
数え方の違いです。技術者だけなら四十〜四十五名、家族や後から来た人を含めた在留フランス人は百三十〜二百名規模、と見ておけば大きく外れません。
ドックは、番号順に完成していません
ここは知られていない話です。横須賀のドライドックは一号から六号までありますが、作られた順番が番号どおりではありません。
| ドック | 起工 | 竣工 | 渠内寸法 |
|---|---|---|---|
| 第1号 | 慶応3年3月 | 明治4年1月 | 全長123m・幅29m・深9m |
| 第3号 | 明治4年5月 | 明治7年1月 | 全長97m・幅18m・深8m |
| 第2号 | 明治13年7月 | 明治17年7月 | 全長156m・幅32m・深12m |
| 第4号 | 明治34年11月 | 明治38年9月 | — |
| 第5号 | 明治44年7月 | 大正5年3月 | — |
| 第6号 | 昭和10年7月 | 昭和15年5月 | 幅60m・深19m |
三号が二号より十年早く完成しています。一号と三号を設計したのはヴェルニー。二号を設計したフランス人技師ジュウエットは着工前に帰国してしまい、実質的には日本人技術者が建てました。一号ドックの建設では、耐震のための設計変更が行われています。三号のときには輸入セメントを使い、この経験が日本人技術者によるセメント国産化につながりました。
そして——六基すべてが、いまも現役で使われています。米海軍と海上自衛隊の共同利用です。一号ドックは明治四年の竣工から百五十年以上、艦を上げ下ろしし続けています。一般公開はされていません。ヴェルニー公園から対岸に見ることができます。
お金はどこから出たのか
総額二百四十万ドル。四年継続で、年六十万ドルという計画でした。幕府の財政は火の車です。ではどうしたか。ひとつは貨幣の増鋳による発行益でした。万延二分金——通称「小栗二分金」などを鋳造して得た利益を建設に充てています。
もうひとつがフランスからの借入です。『横須賀市史』には「百万ドルの経費を輸出生糸を担保としてフランスから借り入れることとした」とあり、原平三『幕末洋学史の研究』にも同様の記述があります。担保は生糸でした。のちには両製鉄所そのものを未払金五十万ドルの担保に入れています。
幕府が実際にいくら払い終えていたかについては、慶応四年の引き継ぎ時点で百五十八万ドルという数字があります。ただしこれは一つの二次資料でしか確認できませんでした。
明治政府は、抵当を回収してまで事業を続けました
幕府が倒れたあと、この事業がどうなったか。明治元年九月、新政府が接収します。参与兼外国事務掛の小松帯刀が動き、オリエンタル・バンクから貸付を受けて抵当を回収しました。倒した相手が始めた事業を、借金してまで引き継いだわけです。そしてヴェルニーは、帰国しませんでした。雇い主が幕府から明治政府に変わっても、そのまま任務を続けています。
この造船所が日本に残したもの
技術者を育てる学校を作りました
黌舎(こうしゃ)といいます。明治三年に開かれ、明治二十一年まで続きました。入学資格は原則十三歳から二十歳。卒業者は約百人。モデルはパリのエコール・ポリテクニークです。当初はフランス語で造船学と機械学を講じ、明治九年ごろから日本語に改められました。
大事なのは、この学校がヴェルニーの当初の計画書にすでに書き込まれていたことです。「日本政府ハ他年内國人ヲシテ佛人ニ代リテ造船事業ニ當ラシムル爲メ造船所内ニ学校ヲ興シ」——いずれ日本人だけで造船をやれるようにする、というのが最初からの設計思想でした。
横須賀市自然・人文博物館は、「ヴェルニーとティボディエがあえて来日して横須賀製鉄所で最も力を注いだのは教育でした」と書いています。当時の日本で最高水準の学校だった、とも。
卒業生のうち辰巳一・桜井省三・黒川勇熊・山口辰弥の四名が工学博士になりました。明治二年の時点で日本人職員は七百五十八名。そこから百名を選抜して西洋式の技術を伝習しています。彼らがやがて民間へ流れ、技術を持ち出しました。そこが日本の産業資本主義の土台になったと国立国会図書館は評価しています。
日曜が休みになりました
横須賀市の公式サイトが挙げている、この工場の運営方法です。
- 労働時間は午前六時三十分から午後五時三十分
- 西洋式の時計による時間管理
- 日曜日を休日に設定
- 月給制を採用
- 医師を常駐させ、職員と職工の治療にあたらせた
時計で時間を測り、日曜に休み、月給をもらい、けがをしたら工場の医者にかかる。いま当たり前のことが、幕末の横須賀から始まっています。会計の面でも、フランス人エミール・ド・モンゴルフィエが近代経理簿記を持ち込みました。
メートル法が最初に使われた場所です
横須賀市の記述にこうあります。「メートル法が日本で初めて使用されたのは、横須賀や横浜での製鉄所建設の測量や機械設計でした」ドックの設計図はメートル法で描かれ、日本人の職人が尺貫法に置き換えて造りました。日本がメートル条約に加入するのは明治十八年です。それより二十年早く、現場では使われていました。
富岡製糸場につながっています
フランスからはフランス積みと呼ばれるレンガの積み方が入りました。木骨れんが造やトラス工法も、原型は横須賀製鉄所の建物にあります。それを受け継いだのが、フランス人技師バスチャンが設計した富岡製糸場(明治五年完成)です。
灯台と、水道
ヴェルニーの仕事は造船所だけではありません。観音埼灯台は明治元年の暮れに完成し、翌年一月一日に点灯しました。日本初の洋式灯台です。続いて品川沖・野島埼・城ヶ島の灯台も。そして水です。造船所は水が足りませんでした。ヴェルニーは明治六年に走水からの引水を計画し、明治八年に着工。明治九年、走水から造船所まで約七キロの水道が完成しました。
ヴェルニーはその完成を見ずに帰国しています。帰国は明治九年三月十二日でした。この水はいまも「ヴェルニーの水」と呼ばれています。
造船所から、海軍工廠へ
組織の名前は何度も変わりました。
- 明治元年9月——明治政府が接収、工部省の管轄に
- 明治4年4月——「横須賀造船所」に改称
- 明治5年10月——工部省から海軍省へ
- 明治17年——横須賀鎮守府が置かれ、その附属工場に
- 明治36年11月——「横須賀海軍工廠」に改編
ここで生まれた船
清輝——明治維新後、初の国産軍艦です。明治六年に起工し、明治八年三月に進水、明治九年に竣工しました。排水量八九七トン。設計はヴェルニー、建造は日本人職工です。そしてこの船は、明治十一年から翌年にかけてヨーロッパまで行きました。日本の艦船として初めての遠征です。横浜を出て一年三か月、帰ってきています。ほかにも——
- 天城(スループ、明治十一年竣工)——設計はヴェルニーとティボディエ
- 日本初の潜水艇(明治三十八年進水)
- 薩摩(明治四十二年竣工)——初の国産戦艦
- 山城(大正六年竣工)——排水量三万トン超。昭和十九年、スリガオ海峡で沈みました
そのほか陸奥、翔鶴、信濃。日本の主力艦の多くが、ここで生まれています。(なお日露戦争で活躍した装甲巡洋艦「日進」は横須賀の建造ではありません。イタリアのアンサルド社製で、開戦直前にアルゼンチンから購入したものです。)
そして戦後
昭和二十年八月三十日、米軍が横須賀へ進駐します。十月十五日に横須賀海軍工廠は廃止されました。ですが施設は残りました。旧工廠の関係者百五十名が残留し、米海軍は「旧海軍工廠の機能を再利用して恒久的な艦船修理工場にする」計画を立てます。昭和二十二年四月、米海軍艦船修理廠が誕生し、その年の末には従業員千名を超える工場になりました。
昭和四十五年末、六号ドックを除く艦船修理部が日本側に返還されています。小栗が幕府の金で作った造船所は、幕府が倒れても、日本が戦争に負けても、動き続けました。
いま見に行けるもの
ヴェルニー記念館とスチームハンマー
横須賀市東逸見町のヴェルニー公園にあります。ブルターニュ地方の住宅を模した建物です。ここにスチームハンマーが二台あります。一八六五年オランダ製で、慶応二年に横須賀へ届いたもの。建設時に六台輸入されたうちの二台です。
驚くのは使われた期間です。明治維新後は日本海軍が引き継ぎ、戦後は米軍横須賀基地で、それぞれ一九七一年と一九九六年まで動いていました。幕末に来た機械が、平成まで現役だったことになります。平成十年に国の重要文化財、平成二十五年に機械遺産第五十八号に指定されています。
ティボディエ邸
旧横須賀製鉄所の建築で、現存が確認されているのはこの一棟だけです。
明治二年ごろの建築で、副首長ティボディエの官舎でした。平成十五年の解体時に小屋組みが保存され、「よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸」として復元・公開されています。入館は無料です。
旧走水水源地
ヴェルニーが引いた水道の水源地です。煉瓦造の貯水池は明治三十五年の完成で、平成十二年に国の登録有形文化財になりました。設計は横須賀鎮守府の海軍技師・井川喜久蔵と堀池好之助。(貯水池そのものはヴェルニーの時代のものではなく、後年の建造です。ヴェルニーが敷いたのは明治九年の導水管のほうにあたります。)
第1号ドライドック
基地の中なので入れません。ヴェルニー公園から対岸に見えます。
結局、この造船所は何だったのか
船を造る工場です。ですがそれだけではありませんでした。メートル法を持ち込み、日曜休日と月給制を持ち込み、簿記を持ち込み、レンガの積み方を持ち込み、技術者を育てる学校を作り、灯台と水道を残しました。そこで学んだ日本人が民間へ散っていきました。
小栗はこれを、幕府が倒れることを承知のうえで作っています。「同じ売据にしても土蔵付き売据の方がよかろう」——その土蔵が、これです。
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主な参考資料
- 横須賀市「横須賀製鉄所(造船所)」/「横須賀とフランスの歴史」/横須賀市水道局「ヴェルニー」
- 国立国会図書館「近代日本とフランス」
- 財務省広報誌『ファイナンス』(令和6年2月号)
- 横須賀市自然・人文博物館
- 文化遺産オンライン/日本機械学会「機械遺産」
- 『横須賀市史 上』(横須賀市)、原平三『幕末洋学史の研究』、鳴岩宗三『幕末日本とフランス外交』
- 関根政美「近代日本における工業化の一断面」(慶應義塾大学)、鵜飼政志「明治黎明期におけるインフラ事業の性格再考」(立命館大学)

