小栗上野介忠順を斬ったのは、二十二歳の青年でした。原保太郎です。慶応四年閏四月、上州権田村で小栗父子と家臣を斬った軍監の一人です。
この人は、そのあと八十九歳まで生きています。小栗は四十二歳で死にました。小栗を斬った青年は、小栗より六十八年長く生きたことになります。その六十八年に何があったのかを追うと、明治という時代の形がそのまま見えてきます。
丹波園部の小藩を出た三男
国立国会図書館の憲政資料室によりますと、原保太郎は弘化四年(一八四七年)七月、京都の園部に生まれました。園部藩は小出家二万四千石の外様の小藩です。原は藩士の三男でした。
園部藩そのものは、早くから朝廷側に寄っていました。慶応四年正月には陣屋を城郭に改める許可を新政府から得て、同年四月に園部城が完成します。日本で最後の築城といわれるものです。重臣たちは西園寺公望の山陰道鎮撫軍に従いました。
ところが原は、この藩のルートで官軍に入ったわけではありません。藩を離れ、江戸へ出ています。
練兵館の塾頭から、岩倉具視の食客へ
文久三年(一八六三年)、原は江戸の斎藤弥九郎の練兵館に入門し、塾頭まで進みました。練兵館は神道無念流の道場で、桂小五郎が塾頭を務めたことで知られるところです。この経歴は、大正七年に出た斎藤弥九郎の伝記のなかに、原本人の談として収められています。
そして慶応三年(一八六七年)、原は岩倉具視の食客になります。憲政資料室はこの一行をはっきり記しています。小藩の三男が、剣の腕を足がかりに江戸へ出て、倒幕の中心人物の身近に入り込んだわけです。
慶応四年正月、東山道総督に随行。同年四月、上野国巡察使兼軍監に任じられます。これが権田村へ来たときの正式な肩書です。総督は岩倉具視の次男の具定、副総督は三男の具経でしたから、原は総督の父の食客として、その子の軍に付いていたことになります。
二十二歳で人を斬り、二十四歳で留学した
閏四月六日に小栗を、七日に子息の又一を斬ってから三年後、原は海を渡ります。明治四年(一八七一年)四月に米国のラトガース大学へ留学し、明治六年三月からは英国へ移って経済学を学び、明治九年に帰国しました。
ラトガース大学は、幕末から明治初めに日本人がもっとも多く学んだ大学の一つです。小栗が遣米使節でアメリカを見てから十年あまり、小栗を斬った青年が同じ国で学んでいたことになります。
山口県令から北海道庁長官まで
帰国後の官歴は、憲政資料室の記載でたどれます。
- 明治十四年(一八八一年)二月 山口県令
- 明治十九年(一八八六年)七月 山口県知事
- 明治二十八年(一八九五年)七月 福島県知事
- 明治二十九年(一八九六年)四月 北海道庁長官
- 明治三十一年(一八九八年)十一月 農商務省山林局長
- 明治三十六年(一九〇三年)七月 貴族院勅選議員
山口県には県令と知事を合わせて十四年ほどいました。長州の地で、幕臣を斬った男が十四年知事を務めたことになります。
李鴻章が撃たれた日
山口県知事としての最後は、思わぬ形でした。明治二十八年三月、日清講和会議のために下関に来ていた清国全権の李鴻章が狙撃されます。講和交渉の最中に相手国の全権が撃たれるという事件で、原は県の責任者として辞任しました。
このとき医師として現場に関わった石黒忠悳の日記が、国立国会図書館で公開されています。
なお下関では、明治二十一年にふぐ食が解禁されたとき、伊藤博文が「原知事」に働きかけて実現したと伝えられています。ただし下関の公的な解説は、働きかけた相手を山口県令と書くだけで知事名を挙げていません。ここは伝承として読んでおくのが安全です。
文書は四百五点、研究は一本
原が残した文書は、四百五点が国立国会図書館の憲政資料室に寄託されています。そのうち書簡は三百通で、差出人の多い順に北垣国道が六十五通、杉孫七郎が三十六通、香川敬三が二十八通です。
この香川敬三は陸援隊の幹部でした。権田村へ一緒に来た軍監の豊永貫一郎も陸援隊の隊員です。原の手紙の束のなかに、陸援隊の線が残っていたことになります。
いっぽうで、原についてまとまった研究は、石川敦彦「三代山口県令原保太郎小伝」(『山口県地方史研究』)がほぼ唯一です。山口県立山口図書館が、これ以外に見当たらなかったと明言しています。小栗を斬った人物でありながら、本人の評伝はほとんど書かれていません。
「自分が斬った」と語ったのか
原が晩年に、自分が小栗を斬ったと語ったという話が広く伝わっています。この出どころは、阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』に収められた原への聞き書きです。山口県立山口図書館が、この箇所を公式のレファレンス回答で示しています。
さらにこの聞き書きをもとに、井伏鱒二が「普門院さん」という小説を書いています。普門院はさいたま市にある小栗家の菩提寺で、小栗の首が運び込まれた寺です。
ただし、小栗上野介顕彰会の東善寺が同書の錯誤を指摘する頁を設けており、聞き書きの信頼性には留保が必要です。原が本当に自ら斬ったのかは、断定できません。安中藩の徒目付が斬ったという説も流れていますが、こちらは公的な資料に出どころが見つかりません。
昭和十一年まで生きた
原保太郎が亡くなったのは昭和十一年(一九三六年)十一月二日です。満州事変の五年後、二・二六事件のあった年にあたります。
小栗は慶応四年に斬られ、「逆賊」とされました。名誉が回復されるまでには長い時間がかかり、水沼の碑が建ったのは昭和七年です。その碑が建ったとき、小栗を斬った男はまだ生きていました。
参考資料
国立国会図書館憲政資料室「原保太郎関係文書(寄託)」、福島県の歴代知事名簿、北海道博物館の所蔵資料解説、山口県立山口図書館のレファレンス回答、国立国会図書館「日記の中の近代」(石黒忠悳日記)。練兵館の経歴は大正七年刊の斎藤弥九郎伝に収められた本人談によります。園部藩の石高と最後の藩主は当サイトの藩ページと同じ資料によります。小栗を斬ったのが原本人かどうか、ふぐ食解禁への関与、脱藩の経緯については、いずれも断定できる資料がないため、そのように書いています。

