徳川家定とは何をした人物か—黒船の直後に将軍となった「お飾り」の十三代、ほんとうに暗愚だったのか

江戸城の一室で自ら菓子を作る十三代将軍・徳川家定のイラスト

この記事で紹介する徳川家定は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

徳川家定は、江戸幕府の十三代将軍です。ペリーが来た直後の嘉永六年(1853年)に将軍となり、安政五年(1858年)に亡くなるまでの五年間、黒船・条約・跡継ぎ争いという大きな問題が続いた時代のまんなかにいました。ところが本人は生まれつき体が弱く、政治の場に立つことはほとんどできませんでした。そのため長く「暗愚な将軍」と言われてきましたが、近年は見直しも進んでいます。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、ふかわりょうさんが演じます。

目次

徳川家定とはどんな人か

  • 生まれ:文政七年(1824年)、十二代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。母は側室の本寿院(堅子)
  • 将軍就任:嘉永六年(1853年)、ペリー来航の直後に父・家慶が亡くなり、数え三十歳で十三代将軍に
  • 正室:三人。最初の二人は若くして亡くなり、三人目が薩摩から来た篤姫(天璋院)
  • 子ども:いない。そのため跡継ぎをめぐる大きな争いが起きる
  • 最期:安政五年(1858年)七月六日、数え三十五歳で死去。墓は上野の寛永寺

黒船の直後に将軍になった

嘉永六年六月三日、ペリーの艦隊が浦賀に来ました。その騒ぎのさなか、父の家慶は暑さのなかで体調を崩し、六月二十二日に亡くなります。跡を継いだのが家定でした。

ところが家定は、幼いころから病気がちで、人前に出ることや言葉を交わすことが苦手でした。将軍になってからも体の具合は思わしくなく、政治の実際は老中首座の阿部正弘に任されます。ペリーの再来航、日米和親条約、ロシアとの交渉と、外交の大事が続くなかで、将軍はほとんど表に出ませんでした。

家定の病が何だったのかは分かっていません。言葉を発する前に頭を後ろにそらしたり、足を踏み鳴らしたりする様子が記録に残っており、脳性麻痺だったのではないかとする説もあります。

三人の正室と篤姫

家定は将軍になる前に、公家の鷹司家と一条家から続けて正室を迎えましたが、二人とも若くして亡くなりました。三人目に迎えたのが、薩摩藩主・島津斉彬の養女となった篤姫です。いったん公家の近衛家の養女となる形をとり、安政三年(1856年)に江戸城の大奥に入りました。

この縁組みには、斉彬のねらいがあったと言われます。家定の跡継ぎに一橋慶喜を立てるよう、大奥の内側から働きかけてほしい、というものです。ただ、結婚から二年もたたずに家定は亡くなり、篤姫は二十三歳で未亡人となります。篤姫はその後、天璋院として大奥を守り、江戸城の明け渡しの際には徳川家の存続のために力を尽くしました。

跡継ぎ争い—一橋派と南紀派

子どものいない家定の跡を誰が継ぐのか。これが幕末の政治を大きく揺さぶりました。

一橋派 南紀派
推した人 一橋慶喜(水戸藩主・徳川斉昭の子) 徳川慶福(紀州藩主、のちの家茂)
主な支持者 徳川斉昭、松平慶永(春嶽)、島津斉彬など 井伊直弼、大奥、譜代大名の多く
理由 難しい時代には、年長で賢いと評判の慶喜がよい 将軍家により血筋の近い慶福がよい

家定自身が慶喜を好まなかったとも、母の本寿院や大奥が慶喜の父・斉昭を嫌っていたとも言われます。安政五年(1858年)四月、家定は彦根藩主の井伊直弼を大老に任じ、六月には慶福を跡継ぎとすることが決まりました。将軍として家定がはっきり自分の意思を示した、数少ない場面だったとも言われます。

この決定と、勅許を待たずに結ばれた日米修好通商条約に反発した人々を、井伊は安政の大獄で処罰していきます。そして、その井伊に見いだされて条約批准のための遣米使節に加わるのが、主人公の小栗忠順でした。

▶ 「大河の登場人物を知る」の記事

ハリスと会った将軍

安政四年(1857年)十月二十一日、アメリカ総領事のハリスが江戸城に上り、家定に大統領の国書を手渡しました。ハリスの日記には、家定が言葉を発する前に頭を後ろへそらし、足を踏み鳴らしたこと、そのうえで「遠方からの使節の来訪を喜ぶ。両国の交わりが永く続くことを望む」という意味のことを、はっきりした声で述べたことが書かれています。

「イモ公方」と呼ばれた将軍

家定には、料理にまつわる話がいくつも伝わっています。自分で豆を煮たり、カステラや饅頭を作ったりして、家臣にふるまったというのです。さつまいもを好んだことから「イモ公方」とも呼ばれました。毒を盛られるのを恐れて、自分で料理をしたのだという説もあります。

こうした話や、病のために政治に関われなかったことから、家定は長く「愚かな将軍」と言われてきました。越前藩主の松平慶永(春嶽)は、家定を非常に低く評価する言葉を残しています。ただし春嶽は、慶喜を跡継ぎにしようとして家定の側と対立した一橋派の中心人物でした。

一方で、家定のそば近くに仕えた旗本の朝比奈昌広は、のちに「家定公が暗愚だというなら、同じ時代の三百諸侯のなかにも、もっと劣る人はいくらでもいた」という趣旨のことを語っています。朝比奈は、大河では芝大輔さんが演じる小栗の友人の一人です。病のために表に出られなかった将軍が、ほんとうはどんな人だったのか。評価はいまも分かれています。

三十五歳の死

安政五年(1858年)七月六日、家定は数え三十五歳で亡くなりました。死因は脚気だったとも、この年に流行したコレラだったとも言われます。死はしばらく伏せられ、八月になって公表されました。跡は、決まったばかりの慶福が継ぎ、十四代将軍・家茂となります。家茂はこのとき十三歳でした。

家定の墓は、上野の寛永寺にあります。

大河『逆賊の幕臣』の徳川家定

番組の発表では、家定は「病弱で内向的、『お飾り』扱いされる孤独な将軍」と紹介されています。ふかわりょうさんは、父の家慶(宅麻伸さん)、跡を継ぐ家茂(神尾楓珠さん)、老中首座の阿部正弘(岩田剛典さん)らとともに「江戸城で出会う人々」として発表されました。周りに振り回される将軍として描かれるのか、朝比奈が語ったような人柄が描かれるのか、見どころの一つになりそうです。

発表されたほかの登場人物は、大河ドラマ『逆賊の幕臣』特集にまとめています。

あわせて読みたい

参考資料:Wikipedia日本語版「徳川家定」「天璋院」、ハリス『日本滞在記』、NHKの番組発表ほか。年齢は数え年です。

  • URLをコピーしました!
目次