会津藩/松平家23万石:松平容保 戊辰戦争最大の激戦地で白虎隊の悲劇が起こった会津藩

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会津藩の歩み

慶応四年(1868年)に鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が勃発します。会津藩は、桑名藩や幕府軍とともに新政府軍と戦ったが敗北しました。この戦の結果、朝廷は会津藩を「朝敵」としました。その後の奥羽戦線において、会津藩は「奥羽越列藩同盟」の支援を受け、また、庄内藩と「会庄同盟」を結ぶなどして新政府軍に抵抗しました。二本松城が落城すると難所として知られる「母成峠」から突如新政府軍が進撃し、一気に会津城下まで迫りました。会津藩は約一か月にわたり籠城しましたが、九月二十二日に降伏して開城しました。

会津藩/松平家23万石:松平容保【幕末維新写真館】

この降伏により、会津藩領は松平氏から没収され、藩主「松平容保」は鳥取藩預かりの禁錮刑となりました。

明治二年(1869年)に容保の嫡男「松平容大」は家名存続が許され、陸奥国斗南(現在の青森県むつ市)に斗南藩を立藩しました。また、藩士の数名はカリフォルニアに移民しました。一方、廃藩置県を前に会津藩の旧領は明治政府民政局による直轄地とされ、若松城下に明治政府民政局が設置されました。

明治四年(1871年)の廃藩置県で会津地方は若松県となったものの、明治九年(1876年)には福島県と磐前県が合併し、若松県も福島県に併呑されました。

会津藩の成り立ち ― 将軍の弟が入った国

会津は、戦国以来ころころと主が替わる土地でした。蒲生氏郷、上杉景勝、ふたたび蒲生、そして加藤嘉明。落ち着いたのは寛永二十年(1643)、保科正之が二十三万石で入ってからです。

この保科正之という人が、会津藩のすべてを決めました。

正之は二代将軍徳川秀忠の四男で、三代将軍家光の異母弟にあたります。ただし庶子として信濃高遠の保科家に預けられて育ち、兄である家光にその存在を知られたのは成人してからでした。高遠三万石から出羽山形二十万石、そして会津二十三万石。家光は生涯この弟を頼り、臨終の際には四代将軍家綱の後見を託しています。

正之は幕政でも大きな足跡を残しました。殉死の禁止、末期養子の禁の緩和、明暦の大火のあとの江戸復興、そして玉川上水の開削。領内では年貢を軽くし、飢饉に備えて米を蓄える社倉を設け、日本で最も早い時期の高齢者扶助の制度をつくっています。

★家訓十五箇条 ― 会津の運命を決めた一行

その正之が、子孫のために遺した家訓十五箇条。その第一条が、二百年後に会津藩を滅ぼすことになります。

大君の義、一心大切に忠勤を存すべし。列国の例を以て自ら処すべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。

—将軍家に一心に忠勤せよ。他の藩と同じように振る舞ってはなりません。もし二心を抱く者があれば、それはもはや我が子孫ではないから、家臣たちは従うな。

会津松平家は将軍家の分家です。他の大名とは立場が違います。だから「時流を見て寝返る」という選択肢が、はじめから禁じられていました。

幕末、彦根の井伊家は徳川を見限って官軍になりました。吉田藩も横須賀藩も、恭順して家を残しています。会津だけがそれをしなかったのは、藩論の問題ではなく、家訓の問題でした。

藩校日新館と「什の掟」

享和3年(1803年)、五代藩主・松平容頌の時代に藩校日新館の新しい校舎が完成します(「日新館」の名は寛政11年=1799年に付けられました)。水練場や天文台まで備えた、当時の日本でも屈指の規模の学校でした。

入学前の六歳から九歳の子どもたちは、町ごとの「什(じゅう)」に組み込まれ、年長者から什の掟を叩き込まれます。嘘を言うな、弱い者をいじめるな、卑怯な振る舞いをするな—そして最後が、あの一行です。

ならぬことはならぬものです

理屈ではありません。ならぬものはならぬ。—家訓十五箇条の第一条と、この一行は、明らかに同じ思想でできています。会津は、そういう教育を二百年続けた藩でした。

松平容保と、京都守護職

幕末の藩主松平容保は、美濃高須藩主・松平義建の六男として生まれ、会津松平家に養子に入りました。いわゆる高須四兄弟の一人です。

兄弟 継いだ家 幕末の立場
徳川慶勝 尾張藩 新政府側。東海道の諸藩を恭順させた
一橋茂栄 一橋家 慶喜の後始末に奔走
松平容保 会津藩 京都守護職。最後まで戦い、朝敵とされた
松平定敬 桑名藩 京都所司代。兄と行動を共にし蝦夷へ

同じ父から生まれた四人が、幕末に真っ二つに割れました。兄が官軍として東海道を進み、弟たちが朝敵として北へ落ちていきます。これほど残酷な兄弟はそう多くありません。

容保が京都守護職に任じられたのは文久二年閏八月のことでした。当時の京都は天誅と称する暗殺が横行し、誰も引き受けたがらない役職です。会津の家臣たちは猛反対しました。藩が滅ぶ、と誰もが分かっていたのです。

それでも容保は受けました。理由として伝わるのが、政事総裁職・松平春嶽が持ち出したあの家訓十五箇条だったといいます。

—「会津は将軍家に一心に忠勤せよ、と定めた家ではありませんか」。そう言われて、容保は断れませんでした。

こうして会津藩士千名が上洛します。配下に置かれたのが、壬生の八木邸に屯していた浪士組—のちの新選組でした。池田屋も八月十八日の政変も禁門の変も、会津藩が京都の治安の当事者だったからこそ起きています。

孝明天皇の宸翰

その働きに、孝明天皇は容保に宸翰(しんかん=天皇直筆の手紙)と御製を下賜しました。公武合体を望んだ孝明天皇にとって、容保は最も信頼できる武家だったのです。

容保はこれを竹筒に収めて、生涯肌身離さず持っていたと伝えられます。—朝敵とされたあとも、です。

天皇その人からは信頼され、その天皇の名で朝敵とされます。孝明天皇が慶応二年に急逝したあと、会津の立場は一気に崩れました。容保が竹筒を手放さなかった意味は、そこにあります。

そして斗南へ

降伏後、旧領は没収され、容保は鳥取藩預かりの身となります。

明治二年、嫡男松平容大に家名存続が許され、陸奥国斗南(現在の青森県むつ市周辺)に斗南藩が立てられました。表高は三万石。しかし実際の収穫は七千石程度だったといわれます。

会津から移り住んだ旧藩士とその家族は、北の痩せた土地で飢えました。犬を食べたという記録すら残っています。—戦に負けたあとの数年のほうが、戦そのものより多くの命を奪ったという声もあるほどです。一部の藩士はカリフォルニアへ渡りました。

容保自身は明治十三年、日光東照宮の宮司となります。徳川家康を祀る社の守り役です。—弟の松平定敬もまた、のちに同じ日光東照宮の宮司をつとめました。

徳川に殉じて家を失った兄弟が、最後は徳川の墓守になりました。

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40万両の借財と、田中玄宰の改革

23万石の会津藩も、台所は早くから苦しくなっていました。日本大百科全書によれば、元禄期から財政が悪化し、宝暦期(1751〜1764年)には借財が約40万両にふくらんでいます。立て直しに乗り出したのが、5代藩主・松平容頌のもとで家老をつとめた田中玄宰です。天明7年(1787年)に始まった改革では、荒れた農村の立て直しと耕し手のいない土地の割り当てを進め、漆器や酒造りなどの産業を奨励しました。漆と蝋は保科正之の時代から藩の専売品で、会津蝋は藩の名産として知られます。改革は軍制と教育にも及び、藩校日新館の創設とあわせて、領内に15の郷校が置かれました。

北の海と江戸の海を守った藩

会津藩の兵が最初に遠くへ出たのは、京都ではなく北の海でした。ロシア船による蝦夷地襲撃を受けて、幕府は文化4年(1807年)に会津藩へ出兵を命じます。翌文化5年(1808年)、会津藩は約1,600人を松前・宗谷・利尻島・樺太へ送りました。奥羽の諸藩から出た約3,000人のうち、半分以上を会津藩だけで受け持った計算です(福島県)。文化7年(1810年)には江戸湾の守りのため三浦半島の観音崎に台場を築き、安政6年(1859年)には蝦夷地の一部を領地として預かり、万延元年(1860年)には仙台・庄内・秋田の各藩とともに樺太の警備も命じられています。京都守護職を引き受ける前から、会津は幕府の「守り」を担い続けた藩でした。

年齢で分けた4つの隊

鳥羽・伏見で敗れたあとの慶応4年(1868年)3月、会津藩は軍制を洋式に改め、藩士を年齢別に編成し直しました。18〜35歳が朱雀隊、36〜49歳が青龍隊、50歳以上が玄武隊、そして16、17歳が白虎隊です(白虎隊を15〜17歳とする辞典もあります)。白虎隊はさらに身分ごとに士中・寄合・足軽に分かれ、人数は300余名とも343名ともいわれます。慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされるもの「1万石あたり235人」を23万石にあてはめると、動員の目安は約5,410人になります。ただしこの規定は案にとどまり、実際には発布されなかったとする説もあります。

母成峠から開城までの1か月

8月21日、新政府軍は母成峠を破り、23日の朝には40キロ余りを一気に進んで若松城下に入りました。この日、戸ノ口原から退いた白虎隊士中二番隊の少年たちが飯盛山で自刃し、家老・西郷頼母の屋敷では母や妻子ら一族21人が命を絶っています。城には兵だけでなく多くの家族が逃げ込み、籠城はおよそ1か月続きました。9月22日に降伏したあと、城の内外で見つかった567体の遺体は、会津藩士4人の指揮で市内64か所に埋葬され、翌年2月に阿弥陀寺へ改葬されたことが、2016年に見つかった史料『戦死屍取仕末金銭入用帳』の写しからわかっています。新政府軍が埋葬を禁じ、遺体が半年間野ざらしにされたという話が長く語られてきましたが、この史料はそれとは異なる経過を伝えています。戦争の責任は、家老の萱野長修(権兵衛)が一身に負って切腹しました。奥羽諸藩がなぜ会津とともに戦ったのかは、奥羽越列藩同盟の結成と落日で、母成峠に至る旧幕府軍の動きは会津の新選組—宇都宮・白河口・母成峠・如来堂でたどれます。会津の手前で起きた二本松落城については二本松藩のページをご覧ください。

最後の藩主と、松平家のその後

あまり知られていませんが、会津戦争のとき、会津藩主は形のうえでは容保ではありませんでした。容保は慶応4年2月4日、大坂から江戸へ退いた責任をとって隠居し、家督を養子の喜徳(一橋慶喜の弟)に譲っています。降伏後、容保は江戸へ護送されて鳥取藩池田家に永預けとなり、明治2年(1869年)12月には和歌山へ預け替えられました。赦されたのは明治5年(1872年)のことです。明治26年(1893年)12月5日、東京・小石川の自邸で亡くなりました。墓は会津若松市の院内御廟(会津藩主松平家墓所)にあります。家は実子の容大が継ぎ、斗南藩の知藩事を経て、明治17年(1884年)に子爵となりました。

鶴ヶ城のいま

籠城戦で砲弾を浴びた天守は、明治7年(1874年)に解体されました。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定され、昭和40年(1965年)に鉄筋コンクリート造で天守の外観が再建されています。平成2年(1990年)には茶室「麟閣」が本丸の元の場所に戻り、平成13年(2001年)には干飯櫓と南走長屋が木造で復元されました。平成23年(2011年)3月には屋根瓦が幕末当時と同じ赤瓦に葺き替えられ、いまの天守は籠城戦のころの姿に近づいています。

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場所・アクセス・地図

〒965-0873 福島県会津若松市追手町1-1

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