【幕末のもしも】慶喜が大坂城から逃げ帰らなかったら—海を押さえ、四方から京都を囲む

夜明けの大坂城から、軍艦の並ぶ大坂湾と整列する歩兵隊を見渡す若い将軍のイラスト

この記事は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

「幕末のもしも」について
史実をふまえたうえで、「もしあのとき別の道を選んでいたら」を管理人なりに考えるシリーズです。前半は史料にもとづく史実、後半の「もしも」の部分は管理人の考え(推測)です。

「幕末のもしも」の二本目は、徳川慶喜が大坂城から逃げ帰らなかったら、です。

慶応四年(1868年)一月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は押し返されました。それでも、大坂城にはまだ兵も武器も残っていました。ところが慶喜は、六日の夜にひそかに城を抜け出し、軍艦で江戸へ帰ってしまいます。大将が戦場を離れた時点で、この戦いは終わりました。わたしは、あそこで踏みとどまっていれば、まだ十分に戦えたと考えています。

一本目の【幕末のもしも】小栗忠順の作戦が採用されていたらは、慶喜が江戸に戻ったあとの話でした。今回はその少し前、大坂での分かれ道です。

目次

史実:鳥羽・伏見から大坂城脱出まで

慶応四年一月三日、大坂から京都へ向かった旧幕府軍と、それを止めようとする薩摩・長州の軍が、京都の南の鳥羽と伏見でぶつかりました。旧幕府軍は幕府の歩兵に会津・桑名の兵などを加えて約一万五千、新政府軍は約四千五百といわれ、数では旧幕府軍が三倍以上でした。

鳥羽街道では、大目付の滝川具挙が「通せ」「通さぬ」と押し問答をしている最中に、薩摩の砲撃が始まります。伏見でも、奉行所に陣取った新選組や会津兵が、高台の御香宮から撃ちおろされました(鳥羽伏見の戦いと新選組)。

四日から五日にかけて、新政府軍には「錦の御旗」が掲げられ、旧幕府軍は「朝敵」の立場に立たされます。五日には淀藩が旧幕府軍の城への入城を拒み(淀城)、六日には淀川の対岸の山崎を守っていた津藩が寝返って、旧幕府軍を砲撃しました(津藩)。旧幕府軍は大坂へ退きます。

その六日の夜、慶喜は大坂城で「たとえ千騎が一騎になっても退くな」と兵を励ましたといわれます。ところがその直後、会津藩主の松平容保、桑名藩主の松平定敬、老中の板倉勝静らだけを連れて城を抜け出し、天保山沖に停めてあった開陽丸に乗りこみました。艦長の榎本武揚はそのとき上陸していて、置き去りにされています。城に残された兵たちは、大将がいなくなったことを知って散り散りになりました。

大坂城にはまだ戦う力があった

大坂城は、豊臣秀吉が築き、徳川が建て直した天下の堅城です。鳥羽・伏見で敗れたとはいえ、旧幕府軍の兵はまだ大坂に多く残っていました。

そして大坂湾の海は、幕府海軍が押さえていました。一月四日には阿波沖で、幕府の開陽丸が薩摩の軍艦と砲火を交えています。海の上で幕府艦隊と張り合える力は、新政府側にはほとんどありませんでした。

もしも①:海を押さえていれば負けない

ここからは、わたしの考えです。

まず、大坂湾は幕府海軍が押さえていました。ということは、補給の道は幕府側にあったのです。食料も弾薬も海から運びこめます。さらに軍艦が何隻もあるので、江戸から追加の兵を船で運ぶこともできました。城にこもって負ける条件は、ほとんどありません。

では勝てたかどうか。わたしは、だれを指揮官にするかで決まったと思います。洋式の用兵術を知っている者を指名すれば勝てたでしょう。逆に、あいかわらず家柄や位を重んじて、能力のない人を指揮官にすえれば、また負けたかもしれません。

実際、鳥羽・伏見で旧幕府軍の総督をつとめたのは、老中格の大河内正質(上総大多喜藩主)でした。身分は高くても、洋式の戦いを指揮した経験はありません。狭い街道を行列のように進み、待ちかまえていた敵の銃砲の前に次々と倒れていきました。数で三倍も上回りながら勝てなかったのは、兵器より、指揮の問題が大きかったといわれます。

もしも②:四方から京都を囲む

わたしなら、そもそも一か所から攻めません。

史実の旧幕府軍は、鳥羽街道と伏見街道の二本の道から、まっすぐ京都をめざしました。そうではなく、

  • 丹波方面(西の山陰道、亀山から)
  • 近江方面(東の大津から)
  • 大坂からの街道(南の京街道・西国街道)
  • 北国街道(北陸から)

この四方面から京都を包囲すれば、もともと数で勝っているのですから、なおさら勝てたのではないでしょうか。京都は盆地で、外へ出る道はかぎられています。道をすべて押さえてしまえば、中の軍は動けません。丹波には譜代の亀山藩(丹波亀山藩)もありました。

部隊の並べ方も変えます。前線には伝習隊などの洋式の部隊を置きます。伝習隊は、小栗忠順が中心になって招いたフランスの軍事顧問団に鍛えられた、幕府でいちばんの精鋭でした。一方で、新選組や見廻組のような斬り込み隊は後方に控えさせ、銃撃戦のあと敵に近づいての接近戦になったときに投入するのです。鳥羽・伏見では、刀や槍で突撃した隊が銃砲の前に大きな犠牲を出しました。役割を分ければ、それぞれの強みが生きたはずです。

もしも③:錦の御旗は気にしなくていい

慶喜が戦いをやめたいちばんの理由は、錦の御旗が出て「朝敵」になったことだといわれます。

けれども、わたしに言わせれば、旗が出ても、勝てば官軍です。何も動じることはないのです。錦の御旗も、もとはといえば、薩長の側があらかじめ用意していたものでした。戦いに勝って京都を押さえ、朝廷を手もとに置いてしまえば、旗はこちらの側に立ちます。前回の記事でも書いたように、家康や信長の時代には、朝廷は力で押さえるものでした。

もしも④:押し返したとしても、時代の流れは変わらない

では、ここで押し返せたとして、その先はどうなったでしょうか。

わたしは、それでも時代の流れには逆らえなかったと思います。幕府が昔のように日本を治め続けることはなかったでしょう。ただ、薩長も武力で幕府を倒すことはできなくなります。

そうなれば、残る道は話し合いです。薩長と平和的に手を結び、各藩から能力のある者を代表に出して、上院と下院をつくる。そこから、民主国家が生まれたかもしれません。

実はこの考えは、まったくの空想ではありません。慶喜は鳥羽・伏見の前年、慶応三年十月に、すでに政権を朝廷に返す大政奉還をしていました。そのころ慶喜のもとでは、西周が、大名が集まる上院と藩士が集まる下院をもつ議会の案(議題草案)をまとめています。坂本龍馬の「船中八策」にも、上下の議政局を置く考えが書かれていたと伝えられます。武力で決着をつけずにすんでいれば、こうした案が形になった日本もありえたのです。

まとめ

  • 慶喜が逃げた時点で、大坂城にはまだ兵が残り、大坂湾は幕府海軍が押さえていた。
  • わたしは、補給の道は幕府側にあり、江戸から兵を船で増やすこともできたと考える。勝てるかどうかは、用兵術を知る者を指揮官にするか、家柄で選ぶかで決まった。
  • 一か所からではなく、丹波・近江・大坂からの街道・北国街道の四方面から京都を包囲する。前線には伝習隊、新選組や見廻組は後方に置いて接近戦で投入する。
  • 錦の御旗が出ても、勝てば官軍。動じることはなかった。
  • 押し返しても時代の流れには逆らえない。薩長と平和的に手を結び、各藩の代表で上院・下院をつくる民主国家が生まれたかもしれない。

大坂城を抜け出す慶喜の姿は、大河ドラマ『逆賊の幕臣』でも描かれるはずです。そのとき江戸で待っていたのが、徹底抗戦を説く小栗忠順でした。

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参考資料:コトバンク「鳥羽伏見の戦い」(兵力・総司令)、Wikipedia日本語版「徳川慶喜」「伝習隊」「江戸開城」、Japaaan「鳥羽・伏見の戦いで圧倒的戦力の旧幕府軍が敗北した理由」ほか。「もしも」の部分は管理人の考えです。

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