三野村利左衛門とは何をした人物か——小栗忠順に恩を返し、三井を救った大番頭

横須賀の岸壁に並ぶ護衛艦を対岸から

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の主人公・小栗忠順の周辺人物です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

三野村利左衛門(みのむら・りざえもん)は、幕末から明治にかけて三井を支えた大番頭です。傾きかけた三井を立て直し、日本で最初の私立銀行である三井銀行を作った人物として知られています。ただ、この記事で書きたいのはそこではありません。三野村は、斬られた小栗忠順の遺族を引き取り、自分が死ぬまで面倒を見続けた人でもあります。幕末の商人がなぜ、罪人として処刑された旗本の家族を抱え込んだのか。そこを追ってみたいと思います。

目次

出自が分からない人物

三野村について調べはじめて、まず驚いたのはこの人の生い立ちがはっきりしないということでした。三井グループの公式サイトが、自ら「三野村の出自は正確な史料としては残ってはない」と書いています。今日伝わっている話は、すべて本人が晩年に語ったものが元になっています。生まれた年だけは文政四年十一月十日(1821年12月4日)で各資料が一致しています。幼名は利八。問題はそこから先です。

よく言われるのは、出羽庄内藩士の子という説です。父が浪人して諸国を流浪し、幼い利八も各地を転々としたとされます。地元の荘内日報は、鶴岡の百間堀端が出生地だと伝えています。ところが同じ三井の公式サイトの別のページには、「信濃生まれ」と書かれています。父の名も「関口彦右衛門為芳」「関口松三郎」と資料によって割れており、祖父の名として「関口正右エ門」を挙げるものもあります。

ひとつ指摘しておくと、三井の公式サイトは庄内藩を「水野家」としていますが、庄内藩(鶴岡藩)の藩主は酒井家です。水野家は出羽山形藩でした。公式サイトの記述であっても、そのまま引き写すのは危ないということです。

比較的多くの資料が一致するのは、天保十年(1839年)、十九歳で江戸へ出たということ。最初の奉公先は深川の干鰯問屋「丸屋」だったとされます。その後、弘化二年(1845年)に紀ノ国屋・美野川利八の婿養子となり、利八の名を継ぎました。菜種油や砂糖を扱う店だったといいます。両替商を始めた年は、嘉永五年説、安政二年説などがあって定まりません。

小栗家の中間だった、という話

三野村と小栗を結ぶ最も有名な話が、若いころ小栗家の中間(ちゅうげん)だったというものです。中間は武家に仕える奉公人で、武士ではありません。主要な人名辞典も三井の公式サイトも、そろってこの話を載せています。

ただ、これを同時代の文書で確認したという記述は、どの資料にも見当たりませんでした。三井家の文書にも小栗家の文書にも、裏づけとなるものが示されていないのです。おそらくは、子孫がまとめた『三野村利左衛門伝』に載る本人の口述が、そのまま広まったものと思われます。

さらにややこしいことに、仕えた相手が誰なのかも資料によって違います。小栗忠順本人だとするものと、その父の小栗忠高だとするものがあります。三野村は文政四年の生まれで、小栗忠順より六歳年上です。三野村が江戸に出てきた天保十年、忠順はまだ十二歳でした。そう考えると、仕えた相手は父の忠高だったとするほうが時系列としては素直です。ただしこれは私の推測であって、史料が裏づけているわけではありません。とはいえ、後年の御用金交渉で三野村が小栗との個人的なつながりを使ったこと自体は、三井側も認めているところです。若いころから何らかの縁があったこと自体を疑う材料も、また見当たりません。

万延の改鋳で財を成す

三野村の名を高めたのが、万延の改鋳にまつわる話です。安政六年の開港で、日本と海外の金銀の交換比率の差から小判が大量に国外へ流出していました。幕府はこれを止めるため、万延元年四月九日(1860年5月29日)から万延小判の鋳造を始めます。品位は据え置いたまま、量目を天保小判の三割以下にまで落とすという思い切った改鋳でした。

当然、それまでの天保小判の値打ちは跳ね上がります。品位の高い天保小判一両が、万延小判の三両一分二朱に換算されることになりました。三野村はこの布令が出ることを事前に知り、天保小判を買い集めて巨利を得た、というのが有名な逸話です。しかも情報を得た場所は小栗邸だった、とされています。

改鋳が行われたこと、旧小判が大幅な割り増しで引き換えられたこと、両替商がその窓口として利益を得たことは、制度の事実として確認できます。ですが「三野村個人が小栗邸で事前に情報を得た」という部分は、三井の公式サイトと辞典類が記すだけで、根拠となる史料は示されていません。これも本人の口述に遡る話と見るべきでしょう。ただ、その相場観が本物だったことは確かです。この機敏さが三井の主席番頭の目に留まり、三野村は「紀ノ利」と呼ばれて重宝されるようになりました。

百五十万両を十八万両にした男

慶応二年(1866年)、四十五歳の三野村は三井家に招かれます。しかも「通勤支配格」という、いまでいえば取締役待遇での入店でした。三井の歴史のなかでも異例の抜擢です。名を三野村利左衛門と改めたのはこのときで、三井の「三」と美野川の「野」を取ったといわれます。なぜ三井が破格の条件で迎え入れたのか。理由ははっきりしています。幕府から次々に課される御用金を、なんとかしてほしかったからです。

当時の三井に課された御用金は、記録に残るだけでも凄まじい額でした。

元治元年十月 百万両(のち取りやめ)
慶応元年五月 一万両
慶応二年二月 百五十万両
慶応二年四月 十五万両

三年で合わせて二百六十六万両。とくに慶応二年二月の百五十万両は、長州征討の軍資金という名目でした。当時の三井は越後屋本店の業績不振に加え、両替店の不良貸金がふくらみ、開港後に開いた横浜店では大きな欠損を出しています。この額を素直に納めれば、三井は潰れていたはずです。

そこで三井は、小栗と親交のある美野川利八を交渉役に立てました。結果、百五十万両は五十万両に減り、さらに十八万両の三年分納にまで圧縮されます。そして慶応三年(1867年)三月には、残額の納付免除まで申し渡されました。この交渉が、三野村を三井の中枢に押し上げたのです。三井が「幕府への御用金を減らすために小栗とのパイプを使った」ことは、三井グループ自身が公式に書いています。単なる俗説ではありません。

千両箱を持って権田村へ

慶応四年正月、小栗は罷免され、上野国権田村へ引き上げることになります。このとき三野村が小栗のもとを訪ね、千両箱を差し出してアメリカへの亡命を勧めたという話が伝わっています。小栗はそれを丁重に断り、こう言い残したとされます。

しばらく上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む

劇的な場面です。ただし、この千両箱の話は三井の公式サイトには載っていません。筋立てが整いすぎているところもあり、史料的な裏づけは確認できませんでした。逸話として受け取っておくのが正しいと思います。そして慶応四年閏四月六日、小栗は取り調べもないまま烏川の水沼河原で斬られました。四十二歳でした。翌日には養子の又一も斬られています。

遺族を、死ぬまで守った

小栗の妻・道子は身重のまま、母のくに子、養女の鉞子とともに会津へ逃れていました。会津藩の野戦病院で女児を産み、国子と名づけます。生まれたのは明治元年六月十日のことでした。

江戸に戻った遺族を引き取ったのが、三野村です。自邸の敷地内に新たに家を構えて彼女たちを匿い、明治十年に自分が亡くなるまで、面倒を見続けました。場所については深川とする資料と日本橋浜町とする資料があり、どちらか確定できません。時期によって移ったのかもしれません。道子が亡くなったあと、娘の国子を引き取ったのは大隈重信・綾子夫妻でした。綾子は小栗の従姉妹で、幼いころ小栗家で育った人です。小栗の血筋は、幕府の外にいた人たちの手で守られたことになります。

三野村が小栗に恩義を感じていたことは、この行動そのものが証明しています。かつての主家の遺族を、賊軍の家族として世間が遠ざけるなかで引き受け、十年近く支え続けたのですから。

三井を新政府につないだ

幕末の三井は、幕府に御用金を納めながら、同時に薩摩藩の御用達でもありました。三井文庫は「幕府との密接な関係を維持しつつも、薩摩藩とも接触していた」と率直に記しています。鳥羽伏見の開戦前夜にあたる慶応三年十二月晦日、三井は薩摩軍に千両を献金しました。京都中の両替屋から現金をかき集めて用立てたといいます。さらに慶応四年正月十九日には、小野組・島田組と連名で一万両を新政府に献納しました。この受取証は現存しています。

「幕府の命運を察して新政府への資金援助を三井に働きかけたのは三野村だ」という説明をよく見かけます。ただ、三井文庫や三井広報委員会の該当ページには、新政府への献金に関して三野村の名前が出てきません。この筋書きを三野村個人の功績として書くのは、慎重であるべきだと思います。

日本最初の私立銀行へ

維新後の三野村の働きは目覚ましいものでした。明治元年二月に会計事務局為換方を拝命し、新政府が発行する太政官札の事務を担当します。明治四年には新旧貨幣の交換にともなう地金銀回収の実務を単独で請け負い、「大蔵省御用新貨幣鋳造取扱所」の看板を掲げて為換座三井組が交換業務を始めました。

明治六年(1873年)には第一国立銀行が発足します。資本金二百五十万円のうち、三井組と小野組が百万円ずつを出しました。三野村はこれを三井の銀行にしようと画策しましたが、三井文庫が「その画策は失敗に終わった」と書いているとおり、思惑どおりにはいきませんでした。総監役には渋沢栄一が入っています。

明治七年、政府の抵当増額令によって小野組が破綻します。第一国立銀行は経営危機に陥り、渋沢が単独頭取となる体制へ移りました。翌明治八年、三井自身も大幅な債務超過に陥りますが、三野村は大蔵卿の大隈重信と交渉を重ね、政府の保護を取り付けています。

そして明治九年(1876年)、三井銀行が開業しました。日本で最初の私立銀行です。三野村の肩書は総長代理副長。同じ年に旧三井物産会社も発足しています。その翌年、明治十年二月二十一日、三野村は胃癌で亡くなりました。享年五十七。小栗の遺族を最後まで守ったまま、五十七年の生涯を閉じたことになります。墓所は杉並区の真盛寺です。

史料の乏しい人物を、どう書くか

この記事を書きながら、私はずっと落ち着かない気持ちでいました。三野村ほど有名な人物なのに、確実な史料がこれほど少ないのかと驚いたからです。出自は分からない。小栗家の中間だったという話も裏づけがない。小判の買い占めも本人の口述以上のものがない。それでも、御用金の減額交渉の金額は複数の資料で一致しますし、遺族を保護した事実は三井も認めています。確かめられることと、伝えられているだけのことを分けて読むことが、この人物については特に大切だと思います。

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で小栗忠順が主人公になれば、三野村もきっと登場するはずです。そのとき描かれる場面のいくつかは、おそらく史料の裏づけのない逸話でしょう。それはそれとして楽しみつつ、確かなことは何かを知っておくのも面白いのではないでしょうか。

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この記事の情報源

三井広報委員会 公式サイト(人物ページ「三野村利左衛門」、コラム「小栗上野介と三野村利左衛門」ほか)、公益財団法人 三井文庫 公式サイト(「新政府への加担」「バンク・オブ・ジャパン構想」ほか)、荘内日報社「郷土の先人・先覚」、国立国会図書館「近代日本人の肖像」、三野村清一郎『三野村利左衛門伝』(三野村合名会社)、村上泰賢編『小栗忠順のすべて』(新人物往来社)。
出自や小栗家との関係など、史料で確認できない点はその旨を本文に明記しました。誤りにお気づきの際はご指摘いただけますと幸いです。

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