小栗上野介忠順を捕らえよという達は、新政府から直接ではなく、上州の三つの藩に下りました。高崎藩、安中藩、吉井藩です。
そして記録をたどると、この三藩は小栗を斬らずに済ませたかったことが見えてきます。
四月二十二日、三藩主に宛てた達
高崎市立中央図書館『市史のひろば』第七号が、慶応四年四月二十二日の達を引いています。宛先は板倉主計頭(安中藩主の板倉勝殷)、吉井鉄丸(吉井藩主)、右京亮(高崎藩主の松平輝聲)の三人です。
東山道総督府から、小栗上野介の追捕について達があった、という書き出しです。理由は「自宅に砲台を据え城郭を構え、前将軍徳川慶喜が恭順しているのに反して不埒」というもの。捕らえよ、という達でした。斬れとは書いてありません。
なぜ三藩だったのか
権田村は上州、いまの高崎市倉渕です。隣接するこの三藩に兵を出させるのが早かったのでしょう。三藩はいずれも、このころ新政府に恭順していました。
安中藩は板倉家二万石の譜代です。慶応四年三月に藩主の板倉勝殷が老臣を上洛させて恭順の姿勢を示し、四月十九日には新政府軍に弾薬を献上しています。小栗追捕の達が来たのは、その三日後です。
吉井藩も同じころ動いていました。群馬県立文書館が所蔵する橳島堅次家の文書に、慶応四年三月の「東山道総督府東征ニ付勤向調」という記録があり、信州岩村田の官軍のもとへ吉井藩が人を出していたことが分かります。
譜代の小藩が、徳川の世が終わると見て新政府側に回る。そのうえで最初に命じられた仕事が、同じ徳川の旗本を捕らえることでした。
出兵し、検分し、そして赦免を願った
三藩は四月二十九日に出兵し、閏四月一日に権田村で小栗と談判します。このとき小栗は、持っていた砲を自ら引き渡しました。それを見て三藩は兵を引いています。
東善寺の小栗上野介顕彰会の記述によりますと、三藩は実地の検分の結果として反意も戦備もないと判断し、小栗の赦免を願い出たとされます。ところが軍監が激怒し、小栗がどのように謝罪し恭順しても許さない、斬らなければ三藩も同罪だと迫った、と伝えられています。
この記述は一次史料の名が示されていないため、そのまま確定とはできません。ただ、小栗が砲を渡して三藩が兵を引いた、という事実関係は『市史のひろば』の記述とも合います。いったん収まった話が、閏四月四日に軍監が来てから動いたという順番は変わりません。
斬ったのは、藩兵ではなかった
ここが見落とされがちなところです。達を受けて兵を出したのは三藩ですが、斬首に踏み切ったのは原保太郎と豊永貫一郎という総督府の軍監でした。三藩は追捕の実務を担っただけで、処刑を決めた層ではありません。
そのうえで、首は館林へ送られ、総督の岩倉具定が首実検をしています。追捕を命じたのは総督府、兵を出したのは三藩、斬ると決めたのは軍監、受け取ったのは総督。どの層にも「斬れ」と書いた紙は残っていません。
地元の藩が、地元の旗本を捕らえた
高崎・安中・吉井は、いずれも上州の小藩です。小栗の知行地である権田村は、その目と鼻の先にありました。藩の兵からすれば、同じ国の、顔の見える相手を捕らえに行ったことになります。
だから赦免を願ったのかもしれません。そして一年後、権田村の村役人が館林の寺から首を掘り出したとき、取り調べにあたった館林藩士が始末書を書き換えて村人を不問にしました。上州の側には、最後まで小栗を罪人として扱いきれない空気があったように見えます。
参考資料
高崎市立中央図書館『市史のひろば』第七号(令和八年三月)、群馬県立文書館の橳島堅次家文書の目録、東善寺(小栗上野介顕彰会)の記述によります。三藩が赦免を願い出たこと、軍監が「斬らねば三藩も同罪」と迫ったことについては、東善寺の記述に一次史料の名が示されていないため、伝えられる話として書いています。安中藩の恭順と弾薬献上の日付についても、公的資料での確認までは至っていません。

