2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)
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雲ひとつない青天でした。烏川の流れる音が、驚くほど大きく聞こえます。この音だけは、きっとあの日と同じなのだろうと思いました。
群馬県高崎市倉渕町水沼。烏川沿いの水沼河原は、小栗上野介忠順が斬首された終焉の地です。この記事では、水沼河原の慰霊碑を訪ねて感じたこと、碑の位置への疑問、そして「なぜ小栗は斬られたのか」について、現地に立って考えたことを書きます。

小栗上野介の終焉の地はどこ?
小栗上野介が斬首された終焉の地は、群馬県高崎市倉渕町水沼の烏川の河原(水沼河原)です。現在は土手の下に大きな慰霊碑が建ち、「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と刻まれています。小栗の最期の場所、処刑された場所はどこかと探している人は、まずここを訪ねてください。
| 場所 | 群馬県高崎市倉渕町水沼、烏川の河原 |
|---|---|
| 目印 | 「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」の慰霊碑 |
| ともに斬られた人 | 家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎 |
| 行き方 | 東善寺から高崎方面へ。橋の途中から土手へ下りる細い道があり、近くに3〜4台ほど停められる場所がある |
| 関連する場所 | 東善寺(仮住まい・本墓)、観音山の屋敷跡、又一の墓(翌日に斬られた養子) |
水沼河原で何があったのか
小栗は罷免されたのち、家族や家臣とともに領地の権田村に移り、東善寺を仮の宿所として、裏山の観音山に屋敷を建てていました。ところが新政府軍は「屋敷に城郭を構え、砲台を築いた」と言いがかりをつけ、「小栗に反逆の志あり」として、高崎・安中・吉井の三藩に追討を命じます。(小栗上野介は権田村に砲台や陣屋を築いていたのか/小栗を斬らずに済ませたかった三藩)
捕らえられた小栗は、一切の取り調べもないまま、閏4月6日の朝、駕籠でこの河原へ運ばれました。東善寺に残るその駕籠は、俗に「捨て駕籠」と呼ばれています。小栗は家臣3名とともに、ここで斬首されました。42歳でした。
ともに斬られた家臣は、次の3人です(東善寺の案内板より)。
- 荒川(江幡)祐蔵:江戸からの家臣。上野介に従って渡米した。36歳(荒川祐蔵とは)
- 大井磯十郎:権田出身の小栗家歩兵
- 渡辺太三郎(源吉享):江戸からの家臣
翌日には、養子の又一も高崎で斬られています。慰霊碑には「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と刻まれています。
慰霊碑の前で|御一新とはいったい何だったのか
遠くからでもわかる、立派な慰霊碑
慰霊碑は、想像していたよりもずっと立派で大きなものでした。まわりもよく整備されていて、遠目に見ても、何か意味や意義のある石碑だとすぐにわかります。斬られた場所というと、ひっそりとした小さな碑を思い浮かべていたので、少し意外でした。
じつは私も、ナビに案内されてここへ来たわけではありません。本当は先に姉妹観音へ向かう予定で車を走らせていたのですが、道の途中で目に入ったこの碑がどうしても気になり、たまたま立ち寄ったのです。それほど、遠くからでも目を引く碑でした。(姉妹観音と不忘碑の現地取材記事)
碑のそばには、小栗家のものと思われる家紋の旗が掲げられていて、川風にゆらゆらと揺れていました。「罪なくして」と刻んだ碑を建て、旗を掲げ、今も手入れを続けている。地元の人たちが小栗をどう思ってきたのかが、この景色によく表れていると感じました。
妻は最初、何の石碑かわからなかったようで、私が土手を下りていくと車で待っていました。碑の前で一人、手を合わせ、黙とうしました。
複雑な気持ちでした。こんな無慈悲なことをして、御一新とはいったい何だったのだろう。彼らは自らを天朝の軍と称しました。しかし、取り調べもせずに斬首する軍が、本当に天皇の軍といえるのか。ろくに教育も受けていない下級の藩士が、どさくさに紛れて軍監になるから、こういうことが起きるのだ。心の中で、そう思っていました。
本来とても有能で、これからの日本に必要だったはずの人物を、なぜよく調べもせずに斬ってしまったのか。むなしい気持ちになりました。それでも「勝てば官軍」、これも歴史なのかと、自分に言い聞かせるしかありませんでした。
写真を3、4枚撮って、河原をあとにしました。高崎方面へ向かう帰り道、このあたりを観光している若者のグループを何組か見かけました。大河ドラマをきっかけに、この場所を訪ねる人が増えているのかもしれません。
碑の位置への疑問|本当にこの場所だったのか
実際に歩いてみて気づいたのは、慰霊碑が今の川の流れから少し離れた場所に建っていることです。土手の岸のすぐ下、横に碑があります。
本当にこの地点がピンポイントで処刑の場所だったのか。それとも、だいたいこのあたりということで碑を建てたのか。川の流れは長い年月で変わることもあるので、当時の河原がどこまで広がっていたのかはわかりません。ただ、川の音の大きさだけは、当時と変わらないのだろうと思いました。
疑問の答えは、東善寺の会報にあった
この疑問の答えは、東善寺でいただいた会報『小栗上野介情報』(第92号)に書かれていました。それによると、この碑はもともと河原に建てられていましたが、昭和のはじめの豪雨と水害で流されて一時行方不明になりました。数年後、復興工事の最中に河原から見つかり、安全のため新しくできた堤防の外、つまり今の場所に建て直されたのだそうです。
そして、実際に小栗が斬られた場所は、碑から約100メートル西、今の烏川の真ん中あたりだといいます。現地で「碑が川から離れている」と感じたのは、気のせいではなかったのです。碑は斬られた場所そのものではなく、それを見守るように少し離れて立っていることになります。
「罪なくして」の文字をめぐる一騒動
同じ会報には、この碑が建てられるまでのいきさつも書かれていました。昭和のはじめ、倉渕の有志がお金を出し合って、小栗主従が殺された水沼河原に碑を建てようとしました。ところが当時の決まりで高崎警察署に届け出ると、署長から「碑文に『罪なくして…斬らる』とあるが、小栗を斬ったのは官軍だ。官軍は天皇の軍隊だから、罪のない者を斬るはずがない。碑文が穏やかでない」と待ったがかかり、計画は止まってしまいます。
碑の文字を書いたのは、国際法学者の蜷川新でした。小栗の妻・道子の妹の子で、小栗にとっては義理の甥にあたります。当時は総理大臣・田中義一の国際法顧問を務めていました。困った建碑の代表者から相談を受けた蜷川が「田中に話をつけさせる」と答えると、やがて署長のクレームは消え、碑は署長も参列して無事に除幕されたそうです。
蜷川は「幕末の偉人 小栗上野終焉地」という別の文案も送っていましたが、村の人たちは「罪なくして斬らる、が本当だから」と、今の文を選んだといいます。もう一枚の書は、今も旧倉渕村長室(高崎市役所倉渕支所)に掲げられているそうです。
碑の前で私が感じた「天朝の軍とは何だったのか」という思いは、碑を建てた昭和の村の人たちも、まったく同じように抱いていたのです。大きく立派な碑に刻まれた「罪なくして」の五文字には、それを守り抜いた村人の勇気がこもっていました。







なぜ小栗は斬られたのか|現地で考えたこと
ここからは私の考えで、東善寺のご住職にもお話ししたことです。ご住職は「うん、そういう側面もあったかもしれない」とうなずいてくださいました。(東善寺の現地取材記事)
功を焦った東山道軍
江戸へ向かった新政府軍は三方面に分かれていました。東海道は西郷隆盛ら薩摩、北陸道は山県有朋ら長州、そして東山道は板垣退助ら土佐の勢力が主力を担っていました。
薩長に後れを取っていた東山道軍の若い軍監たちは、ここで手柄を立てなければ、ますます主導権を握られると焦ったのではないか。だから率先して無理をし、強引にでも名を残そうと気張りすぎたのではないかと思うのです。赤報隊の相楽総三を処断したのも、同じ東山道軍でした。そして、権田村に隠棲していた小栗にまで目を向けた。たいした脅威にもならなかったはずです。しかも小栗は求めに応じて武器を差し出し、まったく抵抗していませんでした。
なお、処刑を現場で指揮した軍監は、土佐出身の豊永貫一郎と丹波園部出身の原保太郎の二人です。原は当時22歳でした。誰が最終的に斬首を決めたのかを示す命令書は見つかっていません。(小栗上野介の処刑は誰が決めたのか/原保太郎とは)
江戸に残っていれば助かったのではないか
もう一つ考えたのは、小栗はむしろ江戸にとどまっていたほうが、身は安全だったのではないかということです。主君の徳川慶喜は恭順の姿勢を示していました。江戸城の明け渡しにあたって、幕臣の誰かが首謀者として斬首されたわけではありません。勝海舟と西郷隆盛の会談で示された条件にも慶喜を助けた者の処罰が含まれていましたが、交渉の末、命までは取らない寛大な処置に落ち着いています。(江戸城無血開城とは)
一方で会津戦争では、家老の萱野権兵衛が責任を負って切腹し、戦いの幕引きとされました。江戸でも、鳥羽・伏見の戦いの責任を誰かに負わせる形で、小栗か誰かが腹を切るよう求められた可能性は、ゼロではなかったかもしれません。それでも江戸城は戦わずに明け渡され、江戸で命を絶った幕臣といえば、開城の報を聞いて自害した川路聖謨くらいでしょう。江戸にいれば、小栗も生き延びられたのではないか。そう思わずにはいられません。
領地が会津や白河の方面にあったら
もし小栗の領地が上州の権田村ではなく、会津や白河の方面にあったとしたらどうだったでしょう。新政府軍の進路から外れていれば、あるいは奥羽の諸藩と合流していれば、結果はまた違ったものになっていたかもしれません。実際、小栗の妻・道子は家臣に守られて会津へ逃れ、護衛した権田村出身の若者二人は会津の地で戦死しています。(小栗忠順の妻・道子とは)
水沼河原への行き方と駐車場
車で訪ねる場合は、烏川にかかる水沼橋を渡る途中に、土手へ降りる狭い道があります。そこを降りた先が駐車場ですが、停められるのは3〜4台ほどです。河原沿いには「小栗公顕彰慰霊碑」への道標も立っています。
東善寺から高崎方面へ車で下っていくと、その途中に水沼の河原が現れます。道はほぼ烏川に沿って並走していました。小栗と家臣たちも、この川沿いの道を引き立てられていったのか。そう思うと、胸に迫るものがありました。
まとめ|晴れわたる空の下のむなしさ
雲ひとつない青天と、大きく響く川の音。のどかな山あいの風景と、ここで起きたことのあまりの落差に、むなしさが残りました。それでも、慰霊碑に刻まれた「罪なくして此所に斬らる」という言葉は、小栗の名誉を取り戻そうとしてきた人々の思いそのものだと感じます。
小栗上野介ゆかりの地全体の旅の記録は、小栗上野介ゆかりの地を歩く(現地取材まとめ)にまとめています。
水沼河原と小栗上野介の最期の関連記事
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- 小栗上野介の処刑は誰が決めたのか
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小栗忠順のゆかりの地をめぐる
小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。
- 【現地取材】小栗上野介ゆかりの地を1日でめぐる|築地・雑司ヶ谷・大宮・倉渕の回り方とモデルコース、ゆかりの地一覧(回る順番と移動時間、エリア別の一覧)
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小栗忠順をもっと知る本
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2027年NHK大河ドラマ
『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集
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この記事の情報源
東善寺に掲げられた案内板(高崎市教育委員会、群馬県)と遺品館の説明文、観音山小栗邸跡の案内板の記載をもとにまとめました。小栗の生涯については高崎市の広報資料(小栗上野介特集)を参照しました。「なぜ斬られたのか」の部分は、現地を歩いた筆者の考えです。
これから水沼河原を訪ねる方へ
碑への行き方、水沼橋から土手へ降りる狭い道、駐車場(2〜3台)、トイレの有無など、訪問の実用情報は姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」の【現地レポート】水沼河原・小栗上野介終焉の地|「罪なくして此所に斬らる」の碑への行き方と駐車場にまとめています。


