阿部正弘とは何をした人物か—二十七歳で老中首座、黒船に「みんなの意見」を聞いた宰相

黒船来航の年、江戸城で意見書を前に考え込む老中・阿部正弘のイラスト

この記事で紹介する阿部正弘は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

阿部正弘は、ペリーが来たときの老中首座です。数え二十五歳で老中になり、二十七歳で幕府のいちばん上の老中(首座)に就きました。黒船に驚いた幕府で、大名から町人まで国じゅうに意見を求め、身分の低い幕臣を次々に取り立て、海軍と洋学の学校をつくりました。そして三十九歳で急に亡くなります。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、岩田剛典さんが演じます。

主人公の小栗忠順が幕府の表舞台に立つのは、阿部が亡くなったあとです。ただ、小栗が活躍した舞台—海軍、洋式の軍隊、外国との交渉—の土台をつくったのは阿部でした。小栗の前の時代を知るために、阿部正弘がどんな人だったのかを見ていきます。

目次

阿部正弘とはどんな人か

  • 生まれ:文政二年(1819年)、江戸の福山藩邸で生まれる。父は備後福山藩主の阿部正精
  • 藩主:天保七年(1836年)、兄の跡を継いで福山藩十万石の藩主に
  • 出世:奏者番 → 寺社奉行 → 天保十四年(1843年)に数え二十五歳で老中 → 弘化二年(1845年)に二十七歳で老中首座
  • 主な仕事:ペリー来航への対応、日米和親条約、身分にとらわれない人材登用、講武所・長崎海軍伝習所・蕃書調所の設立(安政の改革)
  • 最期:安政四年(1857年)六月十七日、老中在職のまま数え三十九歳で死去

なぜ二十代で老中首座になれたのか

阿部が老中になった天保十四年は、水野忠邦の天保の改革が行き詰まり、水野が老中を退いた年です。厳しすぎる倹約令と取り締まりで、江戸の町にも大名にも不満がたまっていました。

そこで期待されたのが、寺社奉行として穏やかで公平なさばきを見せていた若い阿部でした。将軍・徳川家慶の信頼も厚く、水野がいったん老中に返り咲いたものの再び退けられると、阿部は弘化二年に老中首座となります。

首座になった阿部が最初に手をつけたのは、天保の改革の後始末です。改革の取り締まりで恐れられ、「妖怪」とまで呼ばれた町奉行の鳥居耀蔵は、改革のさなかの不正を問われて職を追われ、のちに長い幽閉の身となりました。大河で北村一輝さんが演じる鳥居と、岩田さんの阿部は、この場面でぶつかることになりそうです。

黒船来航—「みんなに聞く」という前代未聞の手

嘉永六年(1853年)六月、ペリーの艦隊が浦賀に現れ、開国を求めるアメリカ大統領の国書を差し出しました。しかも将軍の家慶は、その直後に亡くなります。跡を継いだ家定は病弱で、政治を担える状態ではありませんでした。

ここで阿部は、それまでの幕府ではありえなかったことをします。アメリカの国書を翻訳して諸大名に示し、どう対応すべきか意見を求めたのです。外様大名も、幕臣も、さらには町人の意見書まで受け付けました。集まった意見書は七百通あまりとされます。

外交は幕府が一手に決めるもの、というのが二百年以上続いた決まりでした。阿部はそれを自ら破り、国じゅうで考えようとしたわけです。評価は分かれます。挙国一致で難局に当たろうとした英断ともいえますが、幕府が自信を失ったことを天下に示し、のちに朝廷や雄藩が幕府の政治に口を出すきっかけをつくった、ともいわれます。

翌嘉永七年(1854年)三月、ふたたび来たペリーと日米和親条約が結ばれ、下田と箱館が開かれました。

身分にとらわれない人材登用

意見書の中から、阿部は人を見つけ出しました。いちばん有名なのが勝海舟です。四十一石の貧しい御家人の家に生まれ、無役のまま蘭学塾を開いていた勝の海防意見書が目に留まり、勝は幕府の役人に取り立てられます。大河で大沢たかおさんが演じる勝の出世は、ここから始まりました。

ほかにも、阿部の時代に重く用いられた人を並べると、そのまま幕末の幕府を支えた顔ぶれになります。

  • 川路聖謨:ロシアのプチャーチンとの交渉にあたり、日露和親条約を結ぶ
  • 江川英龍(太郎左衛門):品川台場の築造、韮山の反射炉
  • 岩瀬忠震・永井尚志:海防掛の目付として外交と海軍づくりを担う
  • 大久保忠寛(一翁):のちに勝とともに江戸無血開城に関わる
  • 高島秋帆:西洋砲術家。罪人として幽閉されていたのを許され、砲術の指導に戻る
  • 中浜万次郎(ジョン万次郎):アメリカ帰りの漁民。幕臣に取り立てられる

家柄ではなく能力で人を選ぶ。のちに小栗忠順が抜擢されていく幕府の空気は、この時代につくられたものです。

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安政の改革—海軍と洋学の学校

阿部は、意見を聞くだけでなく、仕組みもつくりました。

年 したこと
嘉永六年(1853年) 大きな船を造ってはならないという「大船建造の禁」を解く。諸藩が洋式の船を持てるようになる
安政二年(1855年) 長崎海軍伝習所を開く。オランダ人の教官から、勝海舟や榎本武揚らが航海術を学ぶ
安政二〜三年(1855〜56年) 洋学所(のちの蕃書調所)を設け、西洋の書物の翻訳と教育を始める
安政三年(1856年) 講武所を開き、幕臣に西洋砲術や剣術・槍術を学ばせる

長崎海軍伝習所で学んだ人たちは、のちに咸臨丸で太平洋を渡り、幕府海軍の中心になります。そして、その幕府海軍のための造船所—横須賀製鉄所—を建てたのが小栗忠順でした。阿部が種をまき、小栗が大きな器をつくった、という見方もできます。

徳川斉昭とのつきあい方

阿部が気を配ったのが、水戸藩の前藩主・徳川斉昭(大河では柄本明さん)です。斉昭は強硬な攘夷論者で、幕府の外交に厳しい目を向けていました。阿部は斉昭を幕府の海防の相談役に迎え、その意見を聞く形をとります。反対派を外に置いて騒がせるより、内に取り込んでしまうやり方でした。

あわせて、越前の松平慶永(春嶽)や薩摩の島津斉彬といった有力な大名とも手を結び、その意見も政治に生かしました。島津家の篤姫が将軍・家定の正室に迎えられる話にも、阿部は関わっています。

安政二年(1855年)、阿部は老中首座の座を佐倉藩主の堀田正睦に譲ります。外国との交渉の矢面に立つ役を、開国論者の堀田に任せたのです。阿部自身は老中にとどまり、裏から政治を支え続けました。

三十九歳の急死

しかし安政四年(1857年)六月十七日、阿部は老中のまま亡くなりました。数え三十九歳です。激務による過労とも、病気(肝臓の病とする説があります)ともいわれます。

阿部の死は、幕府の流れを大きく変えました。翌年、堀田は通商条約の勅許を得られずに京都から戻り、将軍の跡継ぎ問題も重なって、井伊直弼が大老に就きます。井伊は勅許を待たずに日米修好通商条約に調印し、反対する者を安政の大獄で処罰しました。

阿部が「みんなに聞いて」まとめようとした政治は、井伊の「上から決める」政治に変わります。その井伊に見いだされ、条約の批准のためにアメリカへ渡ることになるのが、小栗忠順でした。

福山藩主としての阿部正弘

阿部は幕府の仕事に追われ、福山にはほとんど帰れませんでした。それでも藩政には目を配り、藩校の弘道館を改めて誠之館とし、身分にかかわらず学べる学校にしています。いまの広島県立福山誠之館高校は、この誠之館の流れをくむ学校です。

福山藩のその後については、備後福山藩のページにまとめています。阿部家の福山藩は、阿部の死から十年あまりのち、長州軍に城下を囲まれることになります。

大河『逆賊の幕臣』の阿部正弘

番組の発表では、阿部正弘は「数え二十七歳で老中首座となった若き宰相」と紹介されています。演じる岩田剛典さんは、将軍の家慶・家定・家茂や、徳川斉昭、鳥居耀蔵と同じ「江戸城で出会う人々」の一人として発表されました。小栗はまだ若い旗本として、阿部の時代の江戸城を見上げることになるはずです。

発表されたほかの登場人物については、大河ドラマ『逆賊の幕臣』特集にまとめています。

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参考資料:Wikipedia日本語版「阿部正弘」「安政の改革」、福山市・広島県立歴史博物館の公開資料、NHKの番組発表ほか。年齢はすべて数え年です。

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