小栗上野介忠順が斬られたあと、その首はどこへ行ったのか。答えは館林です。館林市の説明をたどると、首が運ばれ、見られ、埋められ、掘り出されるまでの一連が分かります。
そして、この経過は「現地の軍監が勝手に斬って終わった話ではない」ことを示しています。
総督府の本営は館林にあった
館林市の説明によりますと、斬首された忠順父子の首級は、当時総督府の本営が置かれていた館林に送られました。館林城にいたのは東山道鎮撫総督の岩倉具定です。岩倉具視の次男で、このときまだ二十代に入ったばかりの若者でした。
権田村から館林までは、上州を東へ横切る道のりです。斬った軍監が、首をそこまで運ばせた。つまり処刑の報告は総督のもとへ上がっていたことになります。
岩倉具定による首実検
館林城で岩倉具定による首実検が行われました。首実検は、討ち取った相手が本人かどうかを確かめる手続きです。総督がこれを行ったということは、総督府がこの処刑を自分たちの戦果として受け取ったということです。
ここが大事なところです。残っている文書は「捕らえよ」という追捕令だけで、「斬れ」と命じた書面は見つかっていません。斬る判断は現地で下されました。それでも首実検があったということは、総督府はあとからこれを追認したわけです。現地の暴走で片づけられる話ではありません。
いっぽうで、京都の新政府が斬れと指示した文書は、いまのところ出てきていません。黒幕を名指しできる史料はないのです。言えるのは、総督府が追認した、というところまでです。
泰安寺に預けられ、法輪寺に埋められた
首実検が済むと、首級は秋元家の位牌寺である泰安寺に預けられました。秋元家は館林の藩主を務めた家です。そして泰安寺が埋葬を依頼し、首級は法輪寺の墓所に埋められました。
斬った側の土地の寺に預けられ、そのまま館林に残るはずでした。
一周忌の夜、村の者が掘り出した
ところが、ここから話が変わります。権田村の村役人中島三左衛門が、忠順の旧知行所の名主・人見惣兵衛、新当郷村の渡辺忠七と組みました。そして一周忌にあたる四月六日の夜、法輪寺に忍び込み、忠順父子の首級を掘り出すことに成功したと館林市は記しています。
知行地の百姓が、総督府のお膝元の寺から、斬られた旗本の首を取り返したわけです。東善寺に小栗の墓があるのは、この夜があったからです。
取り調べた藩士が、始末書を書き換えた
当然、掘り出しは露見します。取り調べにあたったのは館林藩士の塩谷良翰でした。
ところが塩谷は、渡辺忠七が提出した始末書の表現を修正させています。館林市はこれを「盗掘に同情し、始末書をこのように書き改めさせた塩谷の取り計らいであった」と説明しています。
首実検をした総督府の足元で、取り調べにあたった藩士が、村人を罪に落とさないよう文書を直した。斬った側のなかにも、こういう人がいたことになります。
首の行き先が、この事件の形を教えてくれる
追捕令はあるのに判決文はない。斬る判断は現地で下されたのに、首実検は総督が行った。そして総督府の足元で、村人が首を掘り出し、取り調べる側がそれを見逃した。
命令系統は三層ではっきりしているのに、どこにも「斬れ」という一行がない。原保太郎のような二十代の軍監が現地で決め、総督府が受け取り、村人が首を持ち去り、藩士が目をつぶる。小栗の最期は、そういう輪郭をしています。
参考資料
館林市の公開資料「小栗上野介忠順と館林」によります。なお同資料は忠順父子の斬首を閏四月六日としていますが、高崎市立中央図書館『市史のひろば』第七号は、忠順と従者三人が六日、子息の又一と従者四人が七日としています。日付については資料によって差があります。岩倉具定の年齢は生年からの換算で、資料に記載があるものではありません。

