2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
横須賀に造船所を建てたのは小栗忠順だ、とよく言われます。ただし設計図を引き、機械を選び、日本人に技術を教えたのはフランス人でした。フランソワ・レオンス・ヴェルニー。来日したとき二十七歳です。四十年後にフランスの田舎で死ぬまで、この人が日本にいたのは十一年ほどでした。その十一年に何を残したのかを、確かめられる範囲でたどります。小栗との友情については、正直に書きます。
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アルデシュの製紙屋の子が、海軍の技師になるまで
ヴェルニーが生まれたのは千八百三十七年、フランス南部アルデシュ県のオーブナという町です。生まれた日は資料によって十二月二日とも十二月十一日ともされ、定まっていません。父のマテュー・アメデは製紙工場を営んでいました。兄弟姉妹は七人、その長男ではありません。
オーブナの学校からリヨンのリセへ進み、千八百五十六年に理工科学校、いわゆるエコール・ポリテクニークに入ります。卒業後はブレストの海軍造船工学校で学びました。ブレストはフランス海軍の工廠がある町です。のちに横須賀市がブレスト市と姉妹都市を結ぶのは、ヴェルニーがここで学び、働いたからでした。
千八百六十年にブレストの工廠で蒸気機関や羅針儀を扱い、翌年には上海へ送られます。中国政府向けの砲艦四隻の建造を監督するためでした。寧波では造船所とドックの建設にも携わっています。日本に来る前に、彼はすでに東アジアで造船所を一つ立ち上げていたことになります。
寧波から横浜へ。二十七歳でした
千八百六十四年の暮れ、フランス海軍のジョレス提督から横浜へ行かないかと持ちかけられます。年が明けた千八百六十五年の一月下旬、ヴェルニーは日本の土を踏みました。二十七歳です。
幕府の側では、勘定奉行の小栗忠順と目付の栗本鋤雲が造船所の建設を進めていました。フランス公使のロッシュがこの二人を通じて幕府に接触し、上海にいたヴェルニーを招いたというのが、国立国会図書館の説明です。栗本鋤雲は小栗の竹馬の友で、仲介役を務めました。栗本については栗本鋤雲とはにまとめてあります。
建設地に横須賀が選ばれた理由は、フランスのツーロン軍港に地形が似ていたからだとされています。なお「ヴェルニー本人が横須賀を見てツーロンに似ていると気に入った」という話も見かけますが、彼自身がそう言ったことを示す史料は確認できませんでした。
契約は四年、二百四十万ドル。担保は生糸でした
千八百六十五年の二月、老中からロッシュへ契約の詳細が示されます。期間は四年、費用は二百四十万ドル、年に六十万ドルずつという約束でした。担保に充てられたのは輸出用の生糸です。国の予算から出すのではなく、売れる産品を抵当に入れて造船所を建てたわけで、このあたりは勘定奉行らしいやり方でした。
ヴェルニーはいったんフランスへ戻り、機械を買い付け、技術者を集めます。ブレストとトゥーロンの工廠から職工を募りました。幕府も柴田剛中を団長とする使節をフランスへ送っています。慶応元年五月に出航し、七月にマルセイユへ上陸した一行は、その翌日にヴェルニーと会いました。
そして慶応元年十一月十五日、鍬入れ式がおこなわれます。幕末から明治初年にかけて、延べ百三十人ほどのフランス人が技師や職工、医師や教師として横須賀へ渡ってきました。造船所そのものについては横須賀製鉄所とはをご覧ください。
持ち込んだのは、機械だけではありませんでした
ヴェルニーが日本に置いていったもののうち、いちばん長く効いたのは工場の作法かもしれません。横須賀市が挙げているものを並べてみます。
設計はメートル法でおこない、日本人がそれを尺貫法に直して施工しました。製綱所の屋根の上に時計台を据え、就業は朝六時半から夕方五時半、十五分遅刻すれば欠勤の扱いとしました。給料は日払いではなく月給にし、西洋式の曜日を入れて日曜を休みにしています。日本人が時計で働きはじめた現場の一つが、ここでした。
建物には木骨れんが造とトラス工法を使いました。フランス海軍の軍医サヴァチェを常駐させ、けが人と病人を診させています。綱渡りや丸太登りをやる運動会を開いて、フランス人と日本人を混ぜて遊ばせもしました。
学校をつくることが、契約に書いてありました
ヴェルニーが幕府に出した原案には、こういう一節があります。日本政府は、いずれ日本人がフランス人に代わって造船の仕事に当たれるよう、造船所のなかに学校を興して技師を養成すべきである。
この学校が黌舎です。設立の年は資料によって慶応三年とも明治三年とも書かれていて、一致していません。フランス語で造船学と機械学を教え、はじめはフランス語と算術と図学だけでしたが、明治九年には幾何学、微分積分、製図、造船、蒸気機械、砲術など十七科目、履修は三年に広がりました。
入学は十三歳から二十歳まで、のちに十五歳からに改められます。衣食住と教材費は官が出しました。首長はヴェルニー自身が務めています。自分が学んだエコール・ポリテクニークを参考にしたと伝わります。卒業生はおよそ百人。学位を得た者として辰巳一、桜井省三、黒川勇熊、山口辰弥の名が残っています。黌舎は明治二十一年に閉じられ、海軍造船工学校に引き継がれました。
雇われた外国人が去ったあと自国の人間だけで回せるように、最初から学校を組み込んでおく。契約書にそう書いた技師は、そう多くありません。
▶ 「小栗忠順の仕事—横須賀・フランス・商社」の記事
日本で最初の洋式灯台と、いまも流れている水道
造船所の外にも仕事は広がりました。
観音埼灯台は明治元年十一月一日に起工し、明治二年一月一日に初めて灯りをともしました。日本で最初の洋式灯台です。ヴェルニーがフロラン兄弟とともに設計し、建てました。十一月一日が灯台記念日になっているのは、この起工日にちなんだものです。続いて品川沖、野島埼、城ヶ島にも灯台が建ちました。
水も引きました。明治九年、造船所のために走水に水源地を築きます。いまでも横須賀市内で唯一の水源地として一日千立方メートルを送り出しており、関東大震災のときにも枯れませんでした。地元では「ヴェルニーの水」と呼ばれています。百五十年前に外国人技師が引いた水を、いまも市民が飲んでいることになります。
小栗との関係は、どこまで確かめられるのか
ここは正直に書きます。
確かめられるのは、小栗忠順が造船所の建設を立案し、机上の計画で終わらせずに踏み切った最大の功労者であること。ロッシュが小栗と栗本を通じて幕府と話をつけ、慶応元年に約定が交わされたこと。この二人の尽力で造船所が完成したと横須賀市が評価していること。ここまでです。
二人の個人的な友情や信頼を示す具体的な逸話は、横須賀市にも、国立国会図書館にも、国立公文書館にも、学術論文にも見あたりませんでした。よく引かれる「土蔵付売据家」という言葉も、幕府が倒れても造船所という財産は残るという小栗の言い分であって、ヴェルニーとのやり取りではありません。しかもこれ自体、栗本鋤雲の回想として伝わるもので、原典の書名と頁までは確かめられていません。
そして、慶応四年閏四月六日に小栗が斬られたことを、ヴェルニーがどう受け止めたのか。これを記した記録は、今回調べたかぎりまったく見つかりませんでした。造船所を一緒に立ち上げた相手が取り調べもなく斬首されたとき、横須賀にいたこの技師が何を思ったのかは、わかりません。小栗の最期については小栗忠順はなぜ斬られたのかに書きました。
幕府が倒れても、仕事は続きました
慶応四年に幕府が倒れ、造船所は明治政府が引き継ぎます。雇い主が代わっても、ヴェルニーは首長の席に残りました。
明治四年、第一号ドックが完成します。日本でいちばん古い石造の乾ドックで、慶応年間に着工してこの年に竣工しました。驚くべきことに、このドックはいまも現役です。米海軍横須賀基地のなかで使われ続けています。同じ年に造船所は「横須賀造船所」と名を改め、十一月には明治天皇が行幸しました。明治七年には第三号ドック、明治八年には軍艦の清輝が進水しています。
新政府とどういう条件で契約を結び直したのかは、公的な資料では確かめられませんでした。ただ少なくとも明治八年か九年までは横須賀にいたことになります。
明治九年ごろ、日本を去りました
ヴェルニーが日本を離れたのは明治九年、千八百七十六年ごろです。契約が切れたのか、政府の方針が変わったのか、その事情を記した公的な資料は見つけられませんでした。フランス人の雇いが去ったあと、黌舎の授業は日本語に切り替わります。日本人だけで回す段階に入った、ということでもあります。
私生活のことも少し。千八百六十七年の八月、上海でマリー・ブルニエ・ド・モンモランと結婚しました。子どもは五人で、そのうち三人は日本で生まれています。副首長を務めたティボディエの妻ナタリーはマリーの姉妹にあたり、二人はのちに義兄弟になりました。
炭鉱の所長として二十年、故郷で死にました
帰国した翌年の千八百七十七年一月、ロワール県のロシュ・ラ・モリエール・エ・フィルミニ炭鉱の所長に就きます。この職を千八百九十五年まで、十八年あまり務めました。サン・テティエンヌの商業会議所にも名を連ねています。
千八百八十八年、故郷オーブナのポン・ドーブナに家を買い、千八百九十五年に炭鉱の職を退いて隠退しました。地元の教会の建設を支えたとも伝わります。そして千九百八年五月二日、ポン・ドーブナで亡くなりました。七十歳です。
墓はオーブナの共同墓地にあります。入口を入ってすぐ右手、ローマ十字の標がついた墓碑で、刻まれた字はいまではほとんど読めなくなっていると、現地を訪ねた研究者が記しています。日本に造船所と灯台と水道を残した人の墓が、南仏の小さな町でそうなっていることになります。
なお日本から旭日章を受けたという記述がフランス側の資料にありますが、国立公文書館が挙げる明治九年の外国人受章者にヴェルニーの名はなく、日本側では裏が取れていません。寧波での功績によるレジオンドヌール勲章は受けています。
いま横須賀に残っているもの
横須賀駅を出てすぐのところに、ヴェルニー公園があります。もとは臨海公園という名前で、昭和二十一年に開かれました。平成十三年度末の再整備でいまの名に改まっています。フランス式の庭園で、百三十種千三百株ほどのバラが植わり、対岸には旧製鉄所の跡地が見えます。園内にはヴェルニーと小栗の胸像が並んでいます。
この公園は、名前が変わります。横須賀市は「ヴェルニー・小栗公園」への改称を進めており、令和八年十一月十四日のヴェルニー・小栗祭の式典にあわせて施行される予定です。翌年の大河ドラマを見据えた動きでもあります。
公園の隣にはヴェルニー記念館があります。ここに置かれているのが、旧横須賀製鉄所で使われたスチームハンマー二基です。三トンの門型と半トンの片持型で、平成十年六月三十日に国の重要文化財となりました。国内に現存する最古のスチームハンマーです。ただし製造国については、文化庁がオランダ製とするのに対し、横須賀市はイギリスで作られてオランダを経由したとしており、記述が分かれています。
毎年十一月にはヴェルニー・小栗祭が開かれ、フランス大使と姉妹都市ブレスト市の代表が参列します。ブレストとの姉妹都市提携は昭和四十五年十一月二十六日。ヴェルニーが学び、働いた町です。令和七年の式典は製鉄所の着工から百六十年の節目にあたり、日仏の関係者三百人ほどが集まりました。現地の様子は【現地取材】小栗上野介ゆかりの地で歩いています。
小栗を語るとき、ヴェルニーは脇に置かれがちです。けれども石のドックはいまも船を入れ、走水の水はいまも流れ、灯台記念日はこの人が起工した灯台の日付のままです。そのことのほうが、友情の逸話よりも確かだと思います。
参考にした資料
- 横須賀市『横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)』『日仏交流』『ヴェルニー公園』『ヴェルニー記念館』『ヴェルニー・小栗祭』『姉妹都市ブレスト市』
- 横須賀市上下水道局『走水水源地』
- 横須賀市自然・人文博物館『横須賀製鉄所とヴェルニー』『サムライたちのフランス出張』『特別展示 すべては製鉄所から始まった』
- 国立国会図書館『近代日本とフランス 大規模官営工場の建設』
- 国立公文書館アジア歴史資料センター『黌舎』、国立公文書館『初の外国人授章者』
- 海上保安庁『日仏姉妹灯台の誕生』『灯台記念日』
- 文化庁『文化遺産オンライン スチームハンマー(旧横須賀製鉄所設置)』
- 宮永孝『ヴェルニーと横須賀造船所』(法政大学)
- 高崎市『小栗上野介忠順終焉の地』
見学の案内はヴェルニー公園で無料で入れる二つの施設にまとめました。
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