幕末の新選組、隊士名簿はなぜ食い違うのか——『英名録』と、記録に残らなかった人たち

幕末の新選組に、隊士は何人いたのか。この問いに一つの答えを返すことはできません。資料によって、二十四名とも、百五十名とも、二百三十名とも、延べ五百名以上とも書かれています。どれかが間違っているわけではなく、数えている対象が違うのです。

当サイトでは新選組の隊士を一人一ページで扱っていますが、そのうち何人かは、名前と役職しか分かりません。本文が百字に満たないページもあります。この記事では、なぜそうなるのかを書きます。

目次

数字が一致しない

まず、よく見かける数字を並べてみます。

人数 何を数えたものか
24名 発足時
約250名 文久三年二月、江戸で集まった浪士
150名 慶応元年六月ごろの『英名録』記載数
約200〜230名 最大時の同時在籍者
500名以上 一時的にでも在籍した延べ人数

ここで注目したいのは最後の二行です。同時に在籍したのは最大でも二百三十名なのに、延べでは五百名を超えます。つまり半数以上が短期間で去った計算になります。脱走、切腹、粛清、戦死——理由はさまざまですが、短く在籍して消えた人は、名簿に一行を残すだけです。

『英名録』は、一時点の名簿ではありません

新選組の隊士名簿として最も知られているのが、京都の霊山歴史館が所蔵する『英名録』です。慶応元年六月ごろ、隊士の島田魁が作成したもので、百五十名の名前と出身地が記されています。

ところがこの名簿には、後から手が加えられています。芹沢鴨一派など、新選組内で粛清された者たちの名が加筆されているのです。さらに一部の名前には円い印が付いていて、それは新選組から離脱して御陵衛士(高台寺党)となった伊東甲子太郎の一派を示すものでした。

つまり『英名録』は、ある日の在籍者を書き並べた名簿ではありません。作られたあとに加筆と印が重ねられた、層のある史料です。ここを踏まえずに他の名簿と突き合わせると、数が合わなくなります。

組織表は、作り替えられていました

新選組は隊士の募集を繰り返しています。元治元年十月、慶応元年——そのたびに人数が変わり、霊山歴史館の説明によれば「隊士数が変動するたびに組織表を作り替えました」。

ここに問題があります。作り替えられた前の版は、残らないのです。短期間だけ在籍した隊士は、次の組織表が作られた時点で消えます。慶応元年九月、江戸で五十名を募集したあとに土方歳三が実施した編成替えについては、さらに深刻です。原本が失われ、小島鹿之助が『異聞録』に筆写したものだけが現存していると整理されています。

名前そのものが、当てになりません

これが厄介な問題です。隊士は偽名や変名を使いました。監察方だった山崎烝について、「隊士の中の間者を詮索するために偽名を使うことは少なくなかった」と記されています。探る側が名を変えたのはもちろん、探られる側にも本名を伏せる理由がありました。

その結果どうなるか。同じ人物が別の名前で記録され、別人として二重に数えられます。

実際にぶつかった表記の揺れ

当サイトで隊士ページを整備していて、実際に食い違いに出会ったものを挙げます。

  • 阿比留/阿比類/阿比原——同じ隊士が三通りに書かれます
  • 伊藤/伊東——伊東甲子太郎の「東」を「藤」と書く資料があります
  • 新井/荒井
  • 破魔/破摩——当サイトでも、記事タイトルと本文で字が食い違っていました
  • 今井祐次郎/今井裕次郎——「祐」と「裕」
  • 稲吉/稲芳——さらに「稲芳竜馬と稲芳雄三郎は同一人物ではないか」という説もあります

どれが正しいのかを決められる一次史料が、多くの場合ありません。当サイトでは、複数の表記が確認できる場合はその旨を書くようにしています。

証言は、六十年後のものです

新選組について詳しく語った隊士の一人に、池田七三郎がいます。慶応三年、土方歳三による江戸での最後の隊士募集に応じて入隊した人物です。その池田が作家・子母澤寛の取材を受けたのは昭和四年のことでした。入隊から六十年以上が経っています。

貴重な証言であることは間違いありませんが、記憶違いや忘却がないとは言えません。新選組は有名な割に同時代の資料が少なく、生き残った隊士の後年の回想に頼る部分が大きい——これが実情です。

役職は、何をする仕事だったのか

名前しか分からない隊士でも、役職は記録されていることがあります。その役職がどういう仕事だったかを見ておきます。

諸士調役兼監察

表記が一定せず、「諸士取調役兼監察」「諸士調役兼観察」とも書かれます。仕事は二つあり、隊士の問題行動を監視することと、隊の内外の情報を収集することを兼ねていました。山崎烝の例では、長州藩士や尊攘過激派の探索、隊内に潜り込んだ間者の詮索、そして近藤勇や会津藩への状況報告——この三つを担っています。

文久三年九月の設置時は三名、慶応元年三月には八名になったとされます。就任者として名が挙がるのは、山崎烝、島田魁、尾形俊太郎、吉村貫一郎です。

ここで一つ、示唆的な指摘があります。「監察方という仕事柄、史料として残されているものは少ないだろう」——記録を残さないことが、この役職の仕事の一部だったという見方です。

局長附

史料上の呼称は「局長付見習」です。前述の池田七三郎が入隊時にこの役に就いており、その実態は近藤勇の小姓でした。護衛でも伝令でもなく、局長の身辺に仕える役です。「見習」が付くとおり、新人や下位の隊士が就きました。一番組から十番組という番組編成には属さず、局長の直属になります。

勘定方

隊の金庫番で、副長の管轄下に置かれました。初期は芹沢鴨派の平間重助が、文久三年九月以降は河合耆三郎が務めています。

その河合は慶応二年、隊費の不足をめぐって切腹させられました。原因については諸説あり、近藤勇の浪費に苦言を呈したために粛清されたという見方もあります。切腹を免れようと親元へ金策の使いを出した、という記述も残っています。墓は壬生寺にあります。

平隊士

役職のない一般の隊士です。命令系統は局長→副長→副長助勤(組長)→伍長→平隊士という順でした。元治元年十一月の池田屋事件のあとに小隊制が導入されて八組編成となり、慶応元年三月には十組体制に。各組頭の下に伍長が二名置かれ、このときの平隊士は約百名とされます。

それでも、ページを残しています

名前と役職しか分からない隊士のページを、当サイトでは削除していません。その人が確かに新選組にいた、という事実だけは残っているからです。

当サイトが隊士を一人ずつ立てているのは、新選組の全隊士を収録した書籍を基礎資料にしているためです。そこに名前が載っている以上、その人は確かに隊にいました。ただし書籍にも名前と役職しか記載がない隊士が相当数あり、それが本文の薄いページとして残っています。

後世に名を残した隊士は、全体のごく一部です。延べ五百名以上が出入りしたうち、生涯をたどれるのは数十人にすぎません。残りの人たちも同じ屯所で寝起きし、同じ隊規に縛られ、そして記録の外へ消えていきました。

分からないことは、分からないと書きます。それも一つの記録だと考えています。

あわせて読みたい

主な参考資料

  • 霊山歴史館「新選組隊士名簿 英名録」ほか同館の展示解説
  • 日野市立新選組のふるさと歴史館
  • 国立公文書館「新選組隊長近藤勇以下三十名御手当之儀書上」(江戸城多聞櫓文書)
  • 新選組の全隊士を網羅した名鑑・隊士録の類(当サイトの隊士ページはこれを基礎資料としています)
  • 相川司『新選組隊士録』(新紀元社)
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