徳川家慶とは何をした人物か—「そうせい様」と呼ばれた十二代、天保の改革と阿部正弘の抜擢、黒船十九日後の死

江戸城の大広間で老中たちの報告を聞く十二代将軍・徳川家慶のイラスト

この記事で紹介する徳川家慶は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

徳川家慶は、江戸幕府の十二代将軍です。五十年も将軍を務めた父・家斉のあと、天保八年(1837年)に数え四十五歳で将軍となりました。老中・水野忠邦に天保の改革を任せ、改革が行き詰まると、二十代の阿部正弘を老中に引き上げます。そして嘉永六年(1853年)、ペリーの黒船が来たわずか十九日後に亡くなりました。家臣の言うことに「そうせい」と答えるばかりだったことから「そうせい様」とも呼ばれた将軍です。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、宅麻伸さんが演じます。

主人公の小栗忠順が生まれ、学問と剣術を身につけ、幕府に仕えはじめたのは、この家慶の時代でした。物語の始まりの江戸城の主ということになります。

目次

徳川家慶とはどんな人か

  • 生まれ:寛政五年(1793年)、十一代将軍・徳川家斉の子として江戸城で生まれる
  • 将軍就任:天保八年(1837年)、数え四十五歳で十二代将軍に。ただし父の家斉が「大御所」として実権を握り続けた
  • 天保の改革:天保十二年(1841年)に家斉が亡くなると、老中首座の水野忠邦に改革を任せる
  • 人材:改革の失敗後、阿部正弘を老中に抜擢し、のちに老中首座とする
  • 子ども:男女あわせて二十七人を数えたが、ほとんどが幼くして亡くなる。成人した男子は四男の家定のみ
  • 最期:嘉永六年(1853年)六月二十二日、江戸城で死去。数え六十一歳。墓は芝の増上寺

長すぎた父の時代

父の家斉は、五十年にわたって将軍の座にあり、そのあとも「大御所」として政治を握りました。子どもは五十人を超え、大奥は華やかで、幕府の財政はゆるみきっていたと言われます。

家慶が将軍になった天保八年は、天保の大飢饉で全国が苦しみ、大坂では元幕府の役人・大塩平八郎が乱を起こした年でもありました。将軍になったとはいえ、大御所の父がいるかぎり、家慶が思うように政治を動かすことはできませんでした。

天保の改革—水野忠邦に任せる

天保十二年(1841年)に家斉が亡くなると、家慶は老中首座の水野忠邦に、幕府の立て直しを任せます。これが天保の改革です。ぜいたくを禁じ、物価を下げるために株仲間を解散させ、江戸に出てきた農民を村に帰らせる—といった厳しい政策が次々に出されました。

町の取り締まりで恐れられたのが、南町奉行の鳥居耀蔵です。芝居や錦絵、派手な着物などが取り締まられ、江戸の町人の暮らしは窮屈になっていきました。

天保十四年(1843年)、水野は江戸と大坂のまわりの土地を幕府の直轄地にしようとする「上知令」を出しますが、大名や旗本の激しい反対にあい、家慶もこれを取り下げさせます。水野は老中を退き、改革はわずか二年あまりで終わりました。

阿部正弘を引き上げる

水野のあとに家慶が頼りにしたのが、福山藩主の阿部正弘でした。家慶は天保十四年(1843年)、数え二十五歳の阿部を老中に取り立て、弘化二年(1845年)には老中首座とします。

「そうせい様」と呼ばれた家慶ですが、誰に任せるかを見る目はあったとも言われます。越前藩主の松平慶永(春嶽)は家慶を「凡庸」と評しましたが、人の起用とその時々の判断には見るべきものがあった、とする見方もあります。家慶が選んだ阿部は、やがて黒船という難局に立ち向かうことになりました。

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慶喜を気に入っていた将軍

家慶の子どもは二十七人を数えましたが、ほとんどが幼いうちに亡くなり、成人した男子は四男の家定だけでした。その家定も、体が弱く人前に出ることが苦手でした。

家慶が目をかけたのが、水戸藩主・徳川斉昭の七男、七郎麿(のちの慶喜)です。弘化四年(1847年)、家慶の意向で七郎麿は御三卿の一橋家の跡継ぎとなり、慶喜と名乗ります。家慶は慶喜を家定の跡継ぎに考えていたとも言われ、これがのちの将軍の跡継ぎ争いの火種の一つになりました。

黒船の十九日後に

嘉永六年(1853年)六月三日、ペリーの艦隊が浦賀に現れました。このとき家慶は、すでに体の具合を悪くしていました。暑さのなかで倒れ、六月二十二日に江戸城で亡くなります。数え六十一歳。黒船の来航から、わずか十九日後のことでした。暑気あたりから心臓が弱ったのではないかと言われています。

アメリカの国書への返事をどうするか、という大問題は、病弱な家定と、老中首座の阿部正弘に引き継がれました。家慶の墓は芝の増上寺にあります。

小栗忠順と家慶の時代

小栗忠順は文政十年(1827年)の生まれです。家慶が将軍になった年には数え十一歳、天保の改革のころは十代半ばでした。屋敷の中の塾で儒学者の安積艮斎に学び、剣術の稽古に励んでいたのが、ちょうどこの時代にあたります。旗本として初めて江戸城に上がったのも、家慶が将軍だったころでした。

家慶の時代は、幕府がまだ「昔ながらのやり方」で国を治められると考えていた最後の時代ともいえます。その時代の終わりにやってきた黒船が、小栗の生涯を大きく変えていくことになります。

大河『逆賊の幕臣』の徳川家慶

番組の発表では、家慶は「十二代将軍。『そうせい様』と呼ばれた温厚な将軍。天保の改革を実施」と紹介されています。宅麻伸さんは、子の家定(ふかわりょうさん)、孫の世代の家茂(神尾楓珠さん)、阿部正弘(岩田剛典さん)、鳥居耀蔵(北村一輝さん)らとともに「江戸城で出会う人々」として発表されました。

発表されたほかの登場人物は、大河ドラマ『逆賊の幕臣』特集にまとめています。

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参考資料:Wikipedia日本語版「徳川家慶」「天保の改革」、NHKの番組発表ほか。年齢は数え年です。

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