この記事で紹介する安積艮斎は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
安積艮斎は、江戸時代後期の儒学者です。陸奥の郡山の神社の家に生まれ、十七歳で江戸へ出て学問を修め、神田駿河台で私塾「見山楼」を開きました。その塾は、旗本・小栗家の屋敷の中にありました。屋敷の子として育った小栗忠順は、ここで艮斎に学んでいます。艮斎の門下からは、のちに幕臣・志士・実業家として名を残す人が数多く出ました。晩年には幕府の昌平坂学問所の教授となり、ペリーが持ってきたアメリカの国書の翻訳にも関わっています。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、中村雅俊さんが演じます。
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安積艮斎とはどんな人か
- 生まれ:寛政三年(1791年)、陸奥国郡山(いまの福島県郡山市)の安積国造神社の宮司・安藤親重の三男
- 江戸へ:十七歳で故郷を出て江戸へ。佐藤一斎、林述斎に学ぶ
- 見山楼:文化十一年(1814年)、神田駿河台の小栗家の屋敷内に私塾を開く
- 門人:小栗忠順、栗本鋤雲、岩崎弥太郎、清河八郎など。塾生は二千人を超えたと言われる
- 昌平坂学問所:嘉永三年(1850年)、数え六十歳で幕府の学問所の教授に
- 最期:万延元年十一月(1861年1月)、江戸で死去。数え七十一歳。墓は東京都葛飾区の妙源寺
神社の三男、十七歳で江戸へ
艮斎は、郡山の安積国造神社の宮司の家に生まれました。十六歳で村の名主の家に婿入りしますが、うまくいかず、翌年、ほとんど身一つで江戸へ出てしまいます。
江戸では、のちに幕府の学問所の儒官となる佐藤一斎に入門し、さらに大学頭の林述斎にも学びました。佐藤一斎は美濃岩村藩の出身、林述斎は岩村藩主の家の生まれです。艮斎の学問は、岩村藩につながる二人の大学者のもとで育ったことになります。佐藤一斎については岩村城の藩主邸跡の現地取材でも触れています。
小栗家の屋敷の中の塾「見山楼」
文化十一年(1814年)、二十四歳の艮斎は神田駿河台に私塾を開きます。これが見山楼です。塾が置かれたのは、旗本・小栗家の屋敷の一角でした。小栗家が屋敷の一部を貸していたのです。
十三年後の文政十年(1827年)、その屋敷で小栗家の跡取り、剛太郎(のちの忠順)が生まれます。父の小栗忠高は、息子を幼いころから艮斎のもとで学ばせました。忠順にとって艮斎は、家の中にいる先生だったわけです。
見山楼にはほかにも多くの若者が集まりました。のちに幕府の外国奉行となる栗本鋤雲、三菱を興す岩崎弥太郎、浪士組を率いる清河八郎らが、艮斎の教えを受けたとされます。小栗家の隣の屋敷に住んでいた旗本の滝川具挙も、見山楼で小栗と机を並べた一人でした。小栗が若いころに出会った友人たちの多くは、この塾でつながっていたことになります。
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朱子学者なのに、外国を見ていた
艮斎は朱子学を中心とする儒学者ですが、外国のことにも強い関心を持っていました。アヘン戦争(1840〜42年)で清がイギリスに敗れると、西洋の国々の歴史や地理を調べ、海の守りの大切さを説いています。大河の発表でも、艮斎は「ペリー来航の五年前に列強の危険を説いた」と紹介されています。
西洋の学問を毛嫌いした鳥居耀蔵とは、同じ林述斎に学びながら、まったく違う道を歩んだことになります。外国を知ろうとする姿勢は、教え子の小栗にも受け継がれたのかもしれません。
昌平坂学問所の教授、ペリーの国書
艮斎は天保十四年(1843年)に二本松藩の儒者に取り立てられ、嘉永三年(1850年)、数え六十歳で幕府の昌平坂学問所の教授となりました。町の私塾の先生が、幕府の学問の中心に迎えられたのです。昌平坂学問所については昌平坂学問所の現地取材をご覧ください。
嘉永六年(1853年)にペリーが来ると、艮斎はアメリカ大統領の国書の翻訳(漢文から和文への読み下し)や、ロシアへの返書の作成に関わりました。教え子の小栗が、七年後にアメリカへ渡るとは、このとき思ってもみなかったでしょう。
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晩年と、教え子たち
艮斎は万延元年十一月(1861年1月)に亡くなりました。数え七十一歳。小栗が遣米使節としてアメリカから帰国した年の暮れです。墓は葛飾区の妙源寺にあります。
艮斎に学んだ人々は、幕府の側にも、幕府を倒す側にもいました。小栗のように最後まで幕府を支えた人、栗本鋤雲のように幕府の外交を担った人、岩崎弥太郎のように新しい時代の商売を切り開いた人。一つの私塾から、これほど違う道が分かれていったのも、幕末という時代ならではです。
大河『逆賊の幕臣』の安積艮斎
演じるのは中村雅俊さんです。小栗忠高(北村有起哉さん)、くに(鈴木京香さん)、みち(上白石萌音さん)、井伊直弼(岡部たかしさん)らとともに、第三弾の「小栗家と、その周辺」として発表されました。若き日の小栗と、塾で学ぶ仲間たちの場面は、物語の始まりを彩ることになりそうです。
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参考資料:Wikipedia日本語版「安積艮斎」「見山楼」、郡山市の公開資料、NHKの番組発表ほか。年齢は数え年です。

