赤城山に徳川の御用金が埋まっているという噂は、幕末に生まれたものではありません。はっきりした形をとって世に出るのは、小栗忠順が権田村で斬られてから十八年もあとの、明治十九年のことでした。それから百四十年、一つの家が三代にわたって山を掘り、本が何冊も書かれ、テレビが大がかりな発掘を全国に流しました。それでも金は出ていません。この記事は、埋蔵金があるかないかを決めるための記事ではありません。噂がいつ、どこから生まれ、どういう経路で小栗の埋蔵金と呼ばれるようになったのかを、たどれるところまでたどってみます。
噂が形になったのは、明治十九年でした
赤城山の発掘に生涯を賭けた一族として知られるのが、水野家です。一族の側の説明によりますと、初代の水野智義が私財を投じて赤城山麓の土地を買い占め、発掘に取りかかったのが明治十九年でした。きっかけは、義父にあたる中島蔵人が死の間際に打ち明けた秘密だったとされます。中島は小栗忠順の部下であり、埋蔵の事実を智義に託した、という筋書きになっています。
ただし、この出発点そのものが水野家側の伝えにもとづいています。中島蔵人という人物が小栗の配下にいたことを示す幕府の記録も、智義が誰からどのような文書を受け取ったのかを示す同時代の史料も、公的機関が公開している資料の中には見あたりません。噂の第一歩に、すでに確かめようのない伝聞が置かれています。
三代が掘り、家康像と銅板の地図が語られました
同じ伝えによりますと、智義は明治二十三年に黄金の徳川家康像を掘り当て、のちに寺の縁の下から銅板の地図を見つけたとされます。智義は大正十五年に七十八歳で亡くなり、二代目の義治が昭和七年に直径二十メートルほどの石灰の亀を掘り出したと伝えられますが、埋蔵の場所を突き止めるには至りませんでした。三代目の智之が跡を継ぎ、昭和五十七年に『実録赤城山埋蔵金四百万両の謎』を、平成六年に『赤城黄金追跡』を世に出しています。
よく引かれる四百万両という数字も、幕府の勘定方の帳簿から出てきたものではなく、こうした発掘する側の著作を通じて広まったものです。家康像も銅板の地図も、博物館や自治体が収蔵品として公開した形跡がなく、第三者が実物を検分した記録を確認することができませんでした。
小栗の名と結びついたのは、活字の中でした
高崎市立中央図書館が国立国会図書館のレファレンス協同データベースに寄せた回答をたどりますと、赤城山の埋蔵金を扱った刊行物の流れが見えてきます。昭和二十五年の本多夏彦『北群馬』にはじまり、昭和四十二年には剣持汎輝『徳川幕府赤城山埋宝隠書の発見と解明』が出ています。埋蔵を記したという隠書が論じられるのも、この頃からです。
そして小栗の名を表題に掲げた本が続きます。生駒忠一郎『徳川幕府の埋蔵金——小栗上野介忠順の生涯』や、木屋隆安『幕臣小栗上野介 埋蔵金ゆえに罪なくして斬らる』は、いずれも群馬県立図書館が小栗関連資料として並べているものです。つまり小栗が隠したという形は、幕末や明治の史料からではなく、戦後の読み物の中で固まっていった可能性が高いと言えます。
平成二年、テレビが二年半掘りました
噂を全国のものにしたのは、やはりテレビでした。平成二年六月から、糸井重里を中心とする発掘班が赤城山麓で大規模な掘削に挑み、その様子が二年半にわたって放送されます。記録は『あるとしか言えない——赤城山徳川埋蔵金・発掘と激闘の記録』として集英社から平成五年に刊行され、国立国会図書館にも所蔵されています。その後も、年末年始の特別番組などでたびたび掘削が試みられました。
いずれも金塊は出ていません。三代目の水野智之は、発掘の成否にかかわらず自分の代で発掘をやめ、資料は子孫に伝えないと表明したと、先の図書館の回答は記しています。百年以上続いた一族の探索は、そうして区切りを迎えました。
根拠とされるものは、史料として成り立つのか
伝説の支えとされるのは、隠し文書と、小栗が勘定奉行だったという経歴の二つです。しかし隠し文書は、所在と来歴を第三者が確かめられる形で公開されていません。文書というものは、誰がいつどこで書き、どの家や役所に伝わり、いま誰が持っているのかという線がつながって初めて史料になります。その線が切れているものを根拠にすることはできません。
経歴のほうも、よく考えると噂を支えません。小栗が金を動かせる立場にいたのは確かですが、同じ時期の幕府は三井から三年で二百六十六万両にのぼる御用金を取り立て、しかも慶応三年には残額を免除しています。隠せるほどの金が手元にあったのなら、豪商に頭を下げて借りる必要はなかったはずです。小栗忠順(小栗上野介)とは何をした人物かを見ても、彼が扱ったのは貯め込む金ではなく、造船所や商社に投じる金でした。
処刑の罪状に、埋蔵金は書かれていません
埋蔵金を守るために斬られた、という語り口もよく見かけます。けれども、東山道総督府が小栗にかけた嫌疑の文面は「砲台を築き不容易企有之」というもので、金の話は出てきません。捕らえられたのは慶応四年閏四月五日、斬られたのは翌六日で、取り調べらしい取り調べもありませんでした。高崎市は終焉の地を市指定史跡とし、碑文の「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」を公式に紹介しています。経緯は小栗忠順はなぜ斬られたのかにまとめました。
菩提寺である東善寺は、公式サイトで埋蔵金がらみの電話を一切断ると掲げています。地元の小栗上野介顕彰会の機関誌『たつなみ』第二十六号には、小板橋良平の「誤伝、赤城の小栗埋蔵金」という一文が載りました。顕彰する側が、みずから誤伝と呼んでいるわけです。前橋市の指定文化財の一覧にも、埋蔵金に関わるものは一件もありません。
伝説は、それ自体が歴史の一部です
ここまで見てきたとおり、実在を裏づける史料は確認できません。とはいえ、出てこないことが絶対にないことの証明になるわけでもありません。言えるのは、根拠として示されてきたものが史料の条件を満たしていない、ということだけです。断定も否定もせずに置いておくのが、いまのところ一番正直な扱いだと考えています。
むしろ面白いのは、なぜこの人に金の話がまとわりついたのか、という点です。横須賀に造船所を建て、海軍の土台を残しながら、取り調べもなく斬られた人物です。その落差を埋める物語として、地下に眠る莫大な金という絵が求められたのかもしれません。横須賀製鉄所とはで見たとおり、彼が本当に遺したものは地中ではなく、海辺に据えられた機械のほうでした。【現地取材】東善寺と小栗上野介の墓で歩いた権田の谷にも、宝探しの気配はまったくありませんでした。
参考にした資料
- 国立国会図書館『レファレンス協同データベース 群馬県における埋蔵金発掘について書かれている資料はあるか』
- 群馬県立図書館『関連資料リスト 小栗上野介忠順——開国・近代化の先覚者』
- 高崎市『高崎市文化財情報 小栗上野介忠順終焉の地』
- 高崎市『高崎市文化財情報 小栗上野介忠順の墓』
- 前橋市『市指定文化財一覧・県指定文化財一覧』
- 東善寺『小栗上野介の寺 東善寺公式サイト』
