2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
幕末の万延元年(一八六〇年)、幕府は七十七人の使節をアメリカへ送りました。日米修好通商条約の批准書を交換するためです。目付として加わっていたのが小栗忠順。この旅で小栗は、フィラデルフィアの造幣局に日本の小判を持ち込み、丸ごと溶かして分析させています。そしてもう一つ、ネジを持ち帰りました。それが日本最初の近代造船所につながっていきます。
七十七人が乗り込みました
| 区分 | 人数 |
|---|---|
| 正使・副使・目付 | 3 |
| 役人 | 17 |
| 従者 | 51 |
| 賄方 | 6 |
| 合計 | 77 |
このうち十四名は諸藩からの参加でした。乗ったのはアメリカ海軍の外輪蒸気フリゲートポーハタン号です。三人の使節はこう並びます。
- 新見正興(正使・二千石)——外国奉行。条約批准の名目上の全権
- 村垣範正(副使)——外国奉行、前の箱館奉行
- 小栗忠順(目付=監察)——序列は三番目
小栗が目付に就いたのは安政六年九月十二日。その翌日に渡米を命じられています。アメリカ側からは「目付とは何か、スパイではないか」と疑われ、小栗は「目付とはケンソル(censor)である」と説明して切り抜けたと伝えられます。
咸臨丸は、護衛ではありませんでした
ここは誤解の多いところです。咸臨丸は「ポーハタン号の護衛」として知られますが、実際には幕府側から別船を出したいという求めがあって決まったものでした。事故に備えた護衛というのは名目です。
乗員は九十六名。木村喜毅が総責任者で、勝海舟は「軍艦操練教授方頭取出役」——対外的には艦長と説明されました。中浜万次郎(ジョン万次郎)が通訳を務め、福澤諭吉は木村の従者として乗っています。正規の使節団員ではありません。ブルック大尉らアメリカ人十一名も浦賀から乗り込みました。
サンフランシスコで、引き返しています
そして肝心なのがここです。咸臨丸はサンフランシスコまでで、修理を終えるとそのまま帰国しました。パナマにもワシントンにもニューヨークにも行っていません。浦賀に帰り着いたのは万延元年五月五日。使節団の本隊は、そのときまだニューヨークにいました。
なお往路については「日本人は役に立たなくなり、艦は実質的にアメリカ人によって運用された」と記録されています。復路は日本人が主体でした。往復八十三日、一万七百七十五海里の航海です。
地球を回って帰ってきました
- 安政七年一月十八日(一八六〇年二月九日)——品川沖を出帆
- 二月十三日——ホノルル着。四日後にハワイ国王カメハメハ四世に謁見
- 三月八日——サンフランシスコ着
- 閏三月四日——パナマ着。パナマ地峡鉄道でおよそ三時間かけて横断し、大西洋側のアスピンウォールへ
- 閏三月二十四日——ワシントン海軍工廠に上陸
- 閏三月二十七日——ブキャナン大統領に謁見、国書を奉呈
- 四月二日(三日とも)——国務省でカス国務長官と批准書を交換
- 四月二十四日〜二十五日——フィラデルフィア造幣局
- 四月二十七日——ニューヨーク着。ブロードウェイでパレード
- 五月十二日——ナイアガラ号でニューヨーク出帆。カーボベルデ、アンゴラのロアンダ、喜望峰、バタビア(現ジャカルタ)、香港を経て
- 九月二十七日(一八六〇年十一月九日)——品川沖着。総行程二七六日
日本人として初、ではありません
この航海を「日本人初の世界一周」と紹介する記述をよく見かけます。ですがそうではありません。その五十六年前——一八〇四年、若宮丸の漂流民である津太夫ら四名が、ロシア船ナジェージダ号で世界を一周し、長崎に帰り着いています。クルーゼンシュテルンが指揮し、レザノフが乗っていた船でした。正確には「幕府の使節として初の世界一周」となります。

小栗上野介忠順の胸像。解説板には生没年と、渡米して造船所を建てたことが記されています。

イメージ(イラスト)|天秤の一方に小判、もう一方に金貨。小栗が求めたのは、この比べ方でした。
小判が、国外へ流れ出していました
使節団には、批准書の交換のほかに任務がありました。そのうち小栗が担ったのが貨幣の交換比率をめぐる交渉です。なぜそれが必要だったのか。日米修好通商条約の第五条に、こうあります。
外國の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を以て通用すへし(金は金銀は銀と量目を以て比較するを云)
金は金と、銀は銀と、重さで交換する。一見すると公平に見えます。ところがこれが、日本にとって致命的でした。
金と銀の比率が、世界と違っていました
当時の金銀の交換比率は、日本国内でおよそ一対五、国際相場でおよそ一対十五。日本の金は、世界の三分の一の値段で買えたことになります。さらに厄介なのが一分銀でした。額面では四枚で一両——小判一枚分ですが、銀の実際の含有量ははるかに少ない名目貨幣です。天保一分銀は一両あたり量目九・二匁しかなく、丁銀に換算した十五・六匁には遠く及びません。
それでも「同種同量」を銀の重さで機械的に当てはめると、こうなります。一ドル銀貨一枚(約二十六・七グラム)=一分銀三枚。
三倍になって帰ってきます
ここから何が起きたか。洋銀四枚を一分銀十二枚に替え、それで小判三枚を手に入れ、海外へ持ち出して地金として売れば洋銀十二枚になる。四枚が十二枚です。小判が流出しました。その総額については、十万両とも、八十万両とも、二千万両とも言われ、定説がありません。近年の研究では「流出規模はそれほど大きくなかった」とする見方も出ています。

イメージ(イラスト)|小判を溶かして分析させた場面。日本側が立ち会っています。
造幣局で、小判を丸ごと溶かさせました

使節団がフィラデルフィアの造幣局を訪ねたのは、万延元年四月二十四日(一八六〇年六月十三日)の午前九時過ぎ。翌二十五日の午前八時から、分析の実験に立ち会っています。立ち会ったのは日本側が三使と一行、アメリカ側は造幣局長のジェームズ・ロス・スノーデン、使節の接遇責任者だったデュポン大佐、そして海軍委員会のメンバーでした。
「削るのでは、足りません」
試金というのは普通、貨幣の一部を削り取って調べます。小栗はそれを拒みました。小判一枚とドル金貨一個を、丸ごと溶かして分析すべきだと主張したのです。アメリカ側は時間がかかると難色を示しました。すると小栗は「最後まで立ち会う」と言って押し切ります。結果として小判三枚と一ドル金貨一枚が、そのまま溶かされました。
小栗は象牙製の天秤を持参していました。フィラデルフィア・インクワイヤラー紙は「日本の天秤計りは象牙製で精密、十進法の計測システムを使用」と報じています。ニューヨーク・タイムズは「日本の硬貨分析への忍耐力に驚かされた。分析中、使節一行は昼食も現地で済ませた」と書きました。
数字が出ました
分析の結果はこうです。一分銀は三十五・六セント、一分金は八十九セント。同じ「一分」でありながら、価値は二倍半ちがうことが数字で示されました。小栗の主張は明快でした。洋銀と一分銀の交換はやめ、九十セント=一分として一分金と交換すべきだ——というものです。実測値の八十九セントを、端数を切り上げて提示したわけです。
(この二つの数字は『万延元年遣米使節史料集成』第一巻を出典とするものです。なお八十九セントという値は、安政の一分判金で計算したときに一致します。)
そして、通りませんでした
交換比率は変わりませんでした。
理由は単純です。使節に条約を改定する権限が与えられていませんでした。造幣局はあくまで分析をする機関であって、条約交渉の当事者ではありません。国務省へ覚書を出しましたが、そこでも決着しませんでした。小栗の最後の挨拶は「正しい貨幣交換システムが確立されることを確信する」という、希望を述べるにとどまるものでした。
金の流出は、別の方法で止まりました
使節がまだアメリカにいた万延元年四月十日、幕府は国内で万延小判を発行しています。これは天保小判の三分の一ほどしか金を含まない小判でした。量目〇・八八匁、金の品位五七二・五。こうして日本の金銀比価を国際水準に近づけ、流出を止めたのです。
代償はインフレでした。万延二分判では、一両あたりの金の含有量が慶長小判のおよそ十一分の一にまで落ちています。つまり——小栗の交渉は、制度を変えるという意味では失敗しました。金の流出は、交渉ではなく改鋳という国内の手段で止められたわけです。
それでも、この分析で得られた数字は残りました。百六十年前に、幕府の役人が相手国の造幣局で自国の貨幣を溶かさせ、数字を突きつけました。やっていることは、現代の通商交渉と変わりません。
ネジは、拾ったのではありません
使節団がワシントン海軍工廠を見学したのは万延元年四月四日(一八六〇年五月二十四日)。高炉をはじめとする施設の運用を視察するよう招かれています。そもそも上陸した場所も、この工廠でした。
小栗はここで鉄を切り、延ばし、曲げる作業を見ています。東善寺の住職は当時の造船所を「蒸気機関そのものや大砲、ライフル、帆、ロープ、鍋、釜、スプーンまで、何でも造る総合工場」と説明しています。
「武士はネジを拾わない」
このとき小栗が持ち帰ったネジについて、「工場の床に落ちていたのを拾った」「こっそり持ち帰った」と紹介されることがあります。
東善寺はこれをはっきり否定しています。
量産しているのを見て箱でもらい受け、土産として配ったもの——それが実際のところだ、と。武士は落ちているものを黙って持ち帰るような、みっともないことはしない。そう躾けられていた、というのが寺の説明です。
配られたうちの一本が、いまも東善寺に保管されています。すりわり付きの小ねじで、旋盤でねじを切ったものと見られます。門外不出とされ、ねじ業界の展覧会でもパネル展示にとどまったという記録があります。ほかに望遠鏡、手回しドリル、ピストルも持ち帰りました。ブキャナン大統領から贈られた記念メダルも残っています。
使節団が持ち帰ったもの
小栗個人の土産だけではありません。帰国後、幕府は外国局・講武所・軍艦操練所などへ、計百六十部二百十八冊の洋書を配布しています。蒸気機関の模型も総額六百二十九ドルで購入しました。福澤諭吉と中浜万次郎は、英和辞典を作るためにウェブスターの英中辞典を買っています。
ブロードウェイを、行進しました
万延元年四月二十七日(一八六〇年六月十六日)、ニューヨークのブロードウェイでパレードが行われました。沿道の群衆はおよそ五十万人と報じられています。(当時のニューヨーク市の人口が約八十一万人ですから、これは新聞による概算であって実測ではありません。)ニューヨーク・タイムズは「市の歴史で最も目新しく華々しいイヴェントの一つ」と評しました。
ワシントン到着時にも五千人が集まり、さらに二万人が木に登ったり窓から身を乗り出したりして見物したと伝えられます。議会は接待費として五万ドルを計上していました。
ホイットマンが詩に書いています
この行列を見た群衆のなかに、詩人のウォルト・ホイットマンがいました。彼はパレードの十一日後、ニューヨーク・タイムズに「The Errand-Bearers」という詩を発表します。のちに詩集『Drum-Taps』に収めるとき、「A Broadway Pageant」——ブロードウェイの華麗な行列と改題されました。
使節団はこう描かれています。開いた四輪馬車にもたれ、無帽で、動じない、二本差しの王侯たちと。
いちばん人気があったのは、十六歳の少年でした
ここは意外なところです。アメリカで最も有名になったのは、小栗でも新見でもありませんでした。通詞見習の立石斧次郎——当時十六歳。愛称を「トミー」といいます。イラスト付きで新聞に報じられ、女性たちからアイドルのような人気を集め、「トミーのポルカ」という曲まで作られました。
米議会図書館に残るステレオ写真にも「条約箱の後ろの日本人とトミー」という題のものがあります。
「小栗が代表と勘違いされた」という話について
よく紹介される逸話ですが、今回調べた範囲では裏付けが取れませんでした。当時のニューヨーク・ヘラルド紙は新見正興を「使節団の長」と正しく報じています。ほかのアメリカ側の資料も同様です。「米紙が小栗をタフ・ネゴシエイターと絶賛した」という話も、該当する記事を特定できませんでした。
日本の一般向けの本で繰り返されてきた説と考えるのが妥当です。
帰ったあと、それぞれの人生
三人の使節
- 小栗忠順——帰国の年に目付から外国奉行へ。功により二百石加増で二千七百石。以後は勘定奉行・軍艦奉行などを歴任し、慶応元年に横須賀製鉄所の建設を実現します。そして慶応四年閏四月六日、水沼河原で斬首されました
- 村垣範正——三百石加増。帰国してすぐプロイセンとの条約交渉を引き継ぎ、日本側全権として調印しています。その後は箱館港の砲台建設など。維新後は官職に就かず、明治十三年に東京で没しました
- 新見正興——三百石加増、外国奉行専任に。文久二年に側衆となり伊勢守。慶応二年に隠居し、明治二年に病没しました
随員のなかから
この使節団には、のちに名を残す人が何人も乗っていました。
- 玉虫左太夫(正使の従者・記録係)——航海記『航米日録』を残しました。仙台藩に戻ったのち奥羽越列藩同盟の成立に尽力し、軍務局副頭取に。仙台藩の降伏後に捕らえられ、慶応四年、獄中で切腹を命じられました。享年四十七
- 佐野鼎(加賀藩士)——アメリカで英語を身につけ、のちに共立学校——現在の開成中学校・高等学校を創立しました
- 立石斧次郎(通詞見習・十六歳)——帰国後に御雇通詞へ昇進。麻布で英語塾を開き、加賀藩の英語教師に。のちに岩倉使節団へ二等書記官として加わっています
- 益頭駿次郎——遣欧使節にも参加し、慶応元年から横須賀製鉄所の建設担当として現地に常駐しました
- 福澤諭吉(咸臨丸・木村喜毅の従者)——このとき買った辞書が、英和辞典を編む土台になりました
この旅が残したもの
批准書の交換という表向きの目的は果たしました。貨幣の交渉は失敗しました。ですが持ち帰ったものは残ります。二百十八冊の洋書、蒸気機関の模型、英語を身につけた若者たち。そして小栗が見たワシントン海軍工廠は、五年後に横須賀で形になりました。
幕府が倒れるのは、それから八年後のことです。
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主な参考資料
- 『万延元年遣米使節史料集成』(風間書房)/万延元年遣米使節子孫の会
- 東善寺(群馬県高崎市倉渕町)各解説ページ
- 国立国会図書館「日本法令索引〔明治前期編〕」「近代日本人の肖像」/外務省/財務省税関『横浜港150年の歴史』
- 日本銀行金融研究所 貨幣博物館 特別展「幕末ゴールドラッシュ」
- 髙橋秀悦「幕末・金貨流出の経済学」(東北学院大学)/國學院大學によるニューヨーク・ヘラルド紙の翻訳
- 米国議会図書館/ホワイトハウス歴史協会/ホイットマン・アーカイブ
- 笹川平和財団 海洋政策研究所「初めて世界一周した日本人——若宮丸漂流民」
現地取材
【現地取材】東善寺と小栗上野介の墓 ― 首を取り返した村、雨の権田を歩く
群馬県高崎市倉渕町権田。墓、裏山の本墓、横須賀から来た胸像、そしていま境内に建ちつつある記念館を訪ねました。

