新潟の戦いとは?新政府軍が海から上陸し、同盟軍の命綱・新潟港を奪った戊辰戦争の一戦を図解でわかりやすく—色部長門の最期まで

信濃川を小舟で渡って新潟の町へ攻めこむ新政府軍のイメージイラスト

慶応4年(1868)7月25日の朝。越後の太夫浜(いまの新潟市北区)の沖に、新政府軍の軍艦と汽船があらわれ、およそ1,200人の兵が浜に上がりました。4日後の7月29日、新政府軍は信濃川を渡って新潟の町に攻めこみ、奥羽越列藩同盟の軍を率いていた米沢藩の色部長門は、町を逃れる途中の関屋で撃たれて亡くなります。これが「新潟の戦い」です。

同じ日に長岡城も落ち、越後の同盟軍は総崩れになりました。この記事では、新政府軍がなぜ海から新潟を攻めたのか、どの藩がどれだけの兵で戦い、新潟を失ったことが戊辰戦争にどう響いたのかを、進軍図とイラストで解説します。

目次

新潟の戦いとは?ひとことで言うと

長岡で行き詰まった新政府軍が、海から同盟軍の後ろに回りこんで上陸し、同盟軍の武器の補給口だった新潟港を奪った戦いです。上陸地の新発田藩が同盟を離れて新政府についたことも、勝敗を大きく左右しました。

日時 慶応4年7月25日(上陸)〜7月29日(新潟町の陥落)。1868年9月11日〜15日
場所 越後国の太夫浜・松ヶ崎・沼垂・新潟町・関屋(現在の新潟市北区・東区・中央区)
新政府軍 薩摩藩の黒田清隆、長州藩の山田顕義が率いる上陸部隊。薩摩・長州・芸州・高鍋・岩国・福知山・明石の兵と徴兵の隊
同盟軍 米沢藩の色部長門を総督とする米沢・会津・仙台などの兵
兵力(おおよそ) 新政府軍の上陸部隊 約1,000〜1,200人(軍艦2隻・汽船4隻) 対 新潟の米沢藩兵 約200人と会津・仙台の兵
結果 新政府軍の勝利。新潟港を失った同盟軍は越後から引き上げ、色部長門は関屋で戦死した

なぜ新潟で戦いが起きたのか

同盟軍の命綱・新潟港

新潟は幕府の直轄地で、日米修好通商条約で開かれることになっていた港の一つです。戊辰戦争のさなか、奥羽越列藩同盟はこの港を押さえ、米沢藩や会津藩の兵が町を守っていました。同盟軍の武器や弾薬は、この新潟港から入ってきました。プロイセン出身の商人・スネル兄弟は、新潟で同盟の諸藩に武器を売っています。

新潟を押さえれば、海から入る武器の流れを断てるうえ、庄内への道と、阿賀野川をさかのぼって会津へ向かう道もふさげます。新政府軍にとって、新潟は越後でいちばん取りたい場所でした。

長岡で行き詰まった新政府軍

そのころ越後の中央では、長岡藩の河井継之助が新政府軍と激しく戦っていました(長岡戦争とは)。正面から押しても長岡を抜けない新政府軍は、海から同盟軍の後ろへ回りこむことを考えます。すでに寺泊の沖で同盟側の船を沈め、越後の海は新政府軍のものになっていました(寺泊沖海戦とは)。

上陸地は新発田藩の領地

上陸地に選ばれたのは、新潟の北東、新発田藩の領地にある太夫浜です。新発田藩(溝口家10万石)は、はじめ新政府寄りでしたが、まわりの同盟諸藩に迫られて同盟に加わっていました。しかし戦いぶりは消極的で、家老の溝口半兵衛がひそかに新政府軍と通じ、同盟軍のいない太夫浜・松ヶ崎への上陸を手引きしたといわれます。

新発田城の三階櫓と石垣、堀
新発田藩溝口家の居城・新発田城。屋根の上に3匹のシャチをのせた三階櫓(平成16年に復元)。新政府軍が上陸した7月25日、この城は戦うことなく新政府方につきました

両軍の顔ぶれと兵力

新政府軍(上陸部隊)

部隊 大名家・石高 兵
指揮 総指揮・黒田清隆(薩摩藩)、参謀・山田顕義(長州藩)・本田親雄(薩摩藩)、軍監・岩村高俊(土佐藩)
薩摩藩 島津家 77万石 3隊と半砲隊
長州藩 毛利家 36万9千石 3隊と1小隊、砲分隊
芸州藩 浅野家 42万6千石 230人
明石藩 松平家 8万石 150人
高鍋藩 秋月家 2万7千石 90人。色部長門を撃ったのは高鍋藩の兵と伝わる
福知山藩 朽木家 3万2千石 50人
岩国藩 吉川家(長州藩の支藩) 1小隊
徴兵 ― 2隊、185人

船は、軍艦の「丁卯」(長州藩)と「摂津」、兵を運ぶ汽船の「千別丸」「大鵬丸」、物資を運ぶ汽船2隻の計6隻でした。上陸のための小舟が足りないため、佐渡の小木港で漁船をたくさん集め、汽船で引いていきました。

同盟軍(新潟の守り)

藩 大名家・石高 この戦いでの動き
米沢藩 上杉家
14万7千石
家老の色部長門(久長)が越後の総督として新潟を守った。ほかの藩が兵を引いたあと、残ったのは約200人
会津藩 松平家
23万石
新潟に兵を置いて町を守った
仙台藩 伊達家
62万石
新潟に兵を置いて町を守った

兵力と条件を比べる

新政府軍 同盟軍
兵力 約1,000〜1,200人。上陸後は新発田藩兵約200人も加わる 米沢藩兵約200人と、会津・仙台の兵
海 軍艦2隻を持ち、越後の海を押さえていた 船の守りはなく、海からの上陸を防げなかった
地元の藩 新発田藩が寝返り、道案内をした 新発田藩に裏切られ、背後に敵を抱えた
ねらい 新潟港を奪い、同盟軍の補給を断つ 町を守りつつ、市街戦はなるべく避けたい

戦いの流れ

新潟の戦いの進軍図
新潟の戦いの進軍図。7月25日に太夫浜へ上陸した新政府軍は沼垂を取り、29日に信濃川を渡って新潟町を落とした。色部長門は関屋で倒れた(イメージ)

7月25日:太夫浜に上陸

上陸部隊は7月23日に佐渡の小木港を出ましたが、風雨でいったん引き返し、24日の夜半に出直します。25日の早朝に太夫浜の沖に着くと、朝7時から二度に分けて浜に上がりました。浜には同盟軍の兵はおらず、上陸に抵抗はありませんでした。

この日のうちに新発田藩は新政府軍につくことを決め、新発田城は戦うことなく開かれました。28日には隣の三日市藩も新政府に従い、その兵は新発田藩の兵に加わります。上陸部隊は松ヶ崎を取り、さらに南へ進みました。

7月26日〜28日:沼垂を取り、信濃川の線へ

阿賀野川の向こうの本所に米沢藩兵30人ほどがいるとわかると、上陸部隊は二手に分かれました。一隊は本所へ、もう一隊は海老ヶ瀬を回って沼垂へ向かいます。本所へ向かった隊は同盟軍に押し返されましたが、両隊は寺山で一つになり、信濃川の手前の沼垂を取りました。新発田藩も約200人を出して、沼垂の攻めに加わっています。

知らせを受けた色部長門は、上杉謙信のころから米沢上杉家にゆかりの深い新潟は、米沢の兵で守らねばならないと考えていました。一方で、町の中での戦いはなるべく避けたいとも考えていたといいます。

7月29日:信濃川を渡って新潟町へ

信濃川を小舟で渡って新潟の町へ攻めこむ新政府軍
7月29日の早朝、小舟で信濃川を渡って新潟の町へ攻めこむ新政府軍。町の一部から火の手が上がる(イメージ)

29日の早朝、新政府軍は信濃川を渡り、三方から新潟の町に攻めこみました。同盟軍を追い立てるため、古町には火が放たれます。午前10時ごろまでに、新政府軍は町の中心を押さえました。

色部長門、関屋に倒れる

色部長門は港の守りの兵を引かせ、わずかな兵とともに西の関屋の方へ逃れようとしました。追ってくる新政府軍との戦いで、しんがりの佐藤忠次郎・桐生源蔵らが討ち死にします。関屋の村まで来たところで、後ろから撃ちかけられた色部は撃ち返し、刀を抜いて斬りこみましたが、胸を撃たれて倒れました。高鍋藩の兵の弾だったと伝わります。

家来たちは色部を運び出そうとしましたが、色部は、首を敵に取らせるなと言ってそれを止めました。御用人の浦戸儀左衛門が色部の首を落とし、五十嵐源次郎が道ばたの梨の木の下に埋めたといいます。浦戸もその場で討たれました。色部長門、44歳でした。

戦いのあと

同じ日に長岡城も落ちる

7月29日には、河井継之助が奪い返したばかりの長岡城も、ふたたび新政府軍に落とされました。新潟と長岡を同じ日に失った同盟軍は、もう越後にとどまれません。長岡藩兵は八十里越を越えて会津へ、米沢藩兵は米沢へ、庄内藩兵は北の庄内へと、それぞれ引き上げていきました。

会津への道が開く

越後を押さえた新政府軍は、新発田から会津街道を東へ進み、8月には国境の赤谷で会津軍とぶつかります(赤谷・津川の戦いとは)。総督を失った米沢藩は、自分の国境にも新政府軍が迫るなか、9月4日に新政府に降伏しました。

この戦いが示したもの(筆者の感想)

新潟の戦いは、兵の数そのものよりも、「海」と「裏切り」で決まった戦いでした。新政府軍は船で同盟軍の後ろに回りこみ、新発田藩がその上陸を手引きしました。同盟軍には海を守る力がなく、地元の藩に背を向けられると、新潟の小さな守備隊ではどうにもなりませんでした。

そして新潟を失ったことは、越後の一つの港を失ったという以上の意味を持ちました。武器と弾薬の入り口を断たれた同盟は、このあと長く戦い続けることができなくなります。長岡で河井継之助がどれほど奮戦しても、その後ろの港を取られては持ちこたえられなかったのです。

色部長門は、上杉謙信ゆかりの新潟を米沢の兵で守ろうとし、しかも町を戦火に巻きこむことを避けようとしました。いまも新潟の人々が関屋に碑を建て、色部をしのび続けているのは、その思いが伝わっているからでしょう。

現地を歩く ― 新潟の戦いの史跡

  • 色部長門君追念碑(新潟市中央区関屋、戊辰公園):色部長門が倒れた場所に、昭和7年(1932)に地元の人々が建てた碑。碑文は徳富蘇峰です
  • 関屋金鉢山(新潟市中央区関屋):7月29日に信濃川を渡った新政府軍が陣を置いた丘。いまは公園になっています
  • 念仏寺(新潟市中央区関屋):この戦いで亡くなった米沢藩士4人の墓があります
  • 新潟縣護國神社 戊辰の役殉難者墓苑(新潟市中央区西船見町):新政府軍と同盟軍の両方の戦死者がまつられています
  • 新潟大神宮の殉節之碑(新潟市中央区):越後に住んだ旧会津藩士たちが、明治23年(1890)に会津藩の戦死者を弔って建てた碑
  • 新発田城(新発田市大手町):新発田藩溝口家の居城。表門と旧二の丸隅櫓は江戸時代の建物が残り、三階櫓と辰巳櫓は平成16年(2004)に復元されました。新政府軍の上陸を手引きした藩の城です(新発田藩)
  • 太夫浜の上陸地点(新潟市北区太夫浜):新政府軍が上陸した浜

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 新潟市歴史博物館みなとぴあ(7月29日の新潟町攻撃についての発信)
  • 米沢日報「戊辰戦争で戦死、新潟で米沢藩総督色部長門の碑前祭」
  • ブログ「新潟県北部の史跡めぐり」(太夫浜上陸地点)、「戊辰の役の功労者 米沢藩士 色部長門久長」、「新潟の戊辰戦争の史跡を巡る」
  • Wikipedia「北越戦争」

文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

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