小栗忠順はいつ再評価されたのか——大正十一年の胸像、昭和七年の碑、百年かけた名誉回復

小栗忠順の名誉回復は、明治政府の手でおこなわれたものではありません。追贈の記録は確認できず、彼を偉人と呼び直したのは、横須賀の造船所で働く職工たちと、権田の村人たちでした。処刑から半世紀近くたった大正のはじめに胸像を建てようという声が上がり、昭和のはじめに罪なくして斬らると刻んだ碑が立ち、戦争で溶かされた像が戦後に建て直されます。この記事では、誰がいつ、どのように小栗を評価し直してきたのかを、年を追って整理します。よく語られる東郷平八郎の言葉についても、裏が取れる部分と取れない部分を分けて書きます。

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斬られたあと、その名は長く語れませんでした

慶応四年閏四月六日、小栗は取り調べもないまま水沼の河原で斬られました。四十二歳です。首は館林へ送られ、村人が密かに取り返して権田へ持ち帰りましたが、このお首級迎えの話が公の場で語られるようになるのは昭和三十年代に入ってからでした。逆賊とされた人物にまつわる行いを口にできない空気が、それほど長く続いたということになります。経緯は小栗忠順はなぜ斬られたのかに詳しく書きました。

新政府が正式に名誉を回復した形跡も見あたりません。位階を追贈された記録は確認できず、贈位がなされていないこと自体が、のちに地元の顕彰運動の論点になり続けました。残された家族を支えたのも国ではなく、三野村利左衛門と大隈重信の妻・綾子という私的な縁でした。その事情は小栗忠順の遺児はどう生きたかにまとめてあります。

大正四年、横須賀の職工たちが声を上げました

流れが変わったのは、大正四年に横須賀海軍工廠で開かれた創立五十年の記念祝典でした。東善寺の説明によりますと、この席でヴェルニーと小栗の功績、そして小栗が官軍に斬られた経緯が広く知られるようになり、工廠で働く職工たちの間から胸像を建てようという声が上がります。募金は市内へ広がり、貞明皇后からの御下賜金も寄せられました。

顕彰を始めたのが政府でも学者でもなく、現場の職工だったという点は見落とせません。彼らにとって小栗は歴史上の人物ではなく、自分たちの職場を用意した人でした。横須賀製鉄所とはで見たとおり、ここは幕末に着工して明治以降も動き続けた工場です。働く場所が残っていたことが、評価を押し上げる力になりました。

大正十一年九月二十七日、胸像が除幕されました

胸像を手がけたのは彫刻家の朝倉文夫です。除幕式は大正十一年九月二十七日、海軍工廠を見下ろす諏訪公園でおこなわれました。この日付は横須賀製鉄所の鍬入れ式にちなんで選ばれたもので、像はヴェルニーのものと並べて据えられています。東善寺の説明では、式には小栗の孫にあたる又一と、フランス大使のポール・クローデルが参列したとされます。

処刑から五十四年、ようやく公の場に顔が戻りました。ただしこのときも、建てたのは国ではありません。金を出したのは職工と市民であり、皇室からの下賜金がそれを後押しした形です。像の来歴は【現地取材】小栗上野介をしのぶ四つの場所でも実物を見ながら確かめました。

昭和三年の本が、昭和七年の碑になりました

群馬の側で動いたのは、蜷川新という法学者でした。小栗の妻・道子の妹の子、つまり義理の甥にあたります。蜷川は昭和三年に『維新前後の政争と小栗上野の死』を日本書院から出し、続編も書いて、処刑の不当を世に訴えました。この本は群馬県立図書館が小栗関連資料として所蔵しています。

本に続いて、終焉の地に碑を建てる計画が起こります。東善寺の伝えによりますと、昭和四年に進んだ計画は、高崎警察署長から官軍が罪のない者を斬るはずがないという圧力を受けて一度頓挫しました。それでも村民が基金を出し合い、昭和七年に碑が立ちます。刻まれた文言は「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」で、撰文と揮毫は蜷川でした。高崎市はこの碑文をそのまま公式の文化財情報に載せています。

像は戦争で溶かされ、昭和二十七年に建て直されました

せっかく建った胸像は、昭和十七年に横須賀海軍工廠の手で撤去され、金属として供出されました。鉄が足りず、寺の鐘も家庭の鍋も集められた時期です。横須賀市は代わりに、型を取ったセメントの像を据えました。顕彰の像が、顕彰した当の工廠によって持ち去られたことになります。

戦後、あらためて銅像が作られます。内藤春治の手になる新しい像が、昭和二十七年九月二十七日に臨海公園で除幕されました。小栗の死から八十四年目です。役目を終えたセメント像は倉渕村へ贈られ、東善寺の墓前に置かれて今日に至ります。つまり権田で墓前に立つ胸像は、朝倉文夫の原作そのものではなく、供出と再建の歴史をくぐり抜けた代役なのです。

東郷平八郎の言葉は、どこまで確かめられるのか

顕彰の場でくり返し引かれるのが、東郷平八郎が、日本海海戦に勝てたのは小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげだと語ったという話です。明治四十五年の夏、小栗の遺族を招いた席での言葉だとされます。ただし、この言葉を記した同時代の日記や書簡、新聞記事を確認することはできませんでした。近年の記事が出典として挙げるのは村上泰賢編著『小栗さま 小栗上野介』という令和四年刊行の顕彰系の本で、一次史料ではありません。招かれたのが誰だったかについても説が分かれます。言葉そのものは、伝承として扱うのが妥当だと考えます。

いっぽうで、物証がないわけではありません。東郷が「仁義禮智信 爲小栗又一君」と書いた書が現存し、平成九年に曾孫の小栗忠人氏から東善寺へ寄進されて本堂に掲げられています。小栗家の人物名を宛名に書いた書が残っているという事実は、東郷と小栗家のあいだに何らかの接触があったことを示す、かなり強い手がかりです。言葉の中身は確かめられませんが、関係があったことまでは言えます。出典が確認できていないという但し書きを外さずに紹介するのが、この逸話の正しい扱い方です。

文化財の指定と、いまも続く顕彰

公の評価として形になったのは戦後です。昭和二十八年八月二十五日に東善寺の墓が群馬県指定史跡となり、昭和五十七年四月一日には終焉の地が高崎市指定史跡になりました。横須賀では、旧横須賀製鉄所に据えられたオランダ製のスチームハンマーが平成十年六月三十日に国の重要文化財に指定され、いまは市が所有してヴェルニー記念館で公開されています。横須賀市自然・人文博物館の常設展示でも、小栗とヴェルニーの胸像が展示室の入口に置かれています。

顕彰は現在進行形です。小栗上野介顕彰会が機関誌『たつなみ』を出し続け、平成二十四年には群馬県立図書館が関連資料の展示を組みました。令和元年にはマイケル・ワートの研究書『明治維新の敗者たち——小栗上野介をめぐる記憶と歴史』が翻訳され、この顕彰が地方の草の根から始まって全国的な歴史像を動かした過程が論じられています。横須賀では毎年ヴェルニー・小栗祭が開かれ、令和八年九月にはヴェルニー公園をヴェルニー・小栗公園へ改める条例改正が市議会に諮られたと報じられました。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』は、百年以上かけて積み上がってきたこの流れの上に置かれています。人物そのものについては小栗忠順(小栗上野介)とは何をした人物かをご覧ください。

参考にした資料

  • 高崎市『高崎市文化財情報 小栗上野介忠順終焉の地』
  • 高崎市『高崎市文化財情報 小栗上野介忠順の墓』
  • 群馬県立図書館『関連資料リスト 小栗上野介忠順——開国・近代化の先覚者』
  • 文化庁『文化遺産オンライン スチームハンマー』
  • 横須賀市自然・人文博物館『常設展示案内 人文館二階』
  • 東善寺『小栗上野介の寺 東善寺公式サイト』
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