横須賀の三笠公園に、コンクリートに固定されて戦艦三笠が据えられています。艦首を皇居の方角に向けて、動かない船として。
三笠は明治の船です。日露戦争の旗艦ですから、幕末の記事には一見関係がない。それでも私がこの艦を幕末歴史ガイドで書きたいと思ったのは、艦橋に立っていた東郷平八郎という人が、四十年前には幕末の海で同じ日本人と撃ち合っていた少年だったからです。
三笠は、開陽丸や春日丸の、まっすぐな延長線上にあります。都内から日帰りで、おじさん友達三人組と横須賀をまわった日の記録です。

まず、この船の履歴書から
三笠はイギリスのヴィッカース社バロー造船所で建造されました。明治三十二年一月に起工、明治三十三年十一月に進水、明治三十五年三月一日に竣工。排水量およそ一万五千トン、全長約一二二メートル、三〇センチ砲四門と一五センチ砲十四門、速力十八ノット。当時の日本にとっては最新鋭の一等戦艦です。
明治三十七年二月に始まった日露戦争で、連合艦隊の旗艦をつとめます。同年八月十日の黄海海戦では二十数発の被弾を受け、艦上で百十三名の死傷者を出しました。翌明治三十八年五月二十七日から二十八日の日本海海戦では、連合艦隊司令長官・東郷平八郎が座乗してバルチック艦隊を迎え撃っています。
その後の道のりも波乱でした。大正十二年のワシントン軍縮条約で廃艦が決まって除籍。大正十四年に横須賀での保存が閣議決定され、大正十五年に記念艦としての保存式。ところが敗戦後は荒廃し、備品の盗難も相次ぎます。
復元を後押ししたのは、意外にも元敵国でした。アメリカ海軍のニミッツ元帥が自著の印税の一部を寄付し、米海軍も支援に加わって、昭和三十四年に工事が始まります。復元記念式が行われたのは昭和三十六年五月二十七日——日本海海戦の記念日でした。
東郷平八郎は、幕末の海戦を戦った少年だった


ここからが、幕末歴史ガイドとして書きたい本題です。
東郷平八郎は弘化四年十二月二十二日、薩摩国鹿児島の生まれ。父は薩摩藩士の東郷実友で、十四歳で元服して平八郎実良と名乗りました。
初陣は文久三年の薩英戦争です。イギリス艦隊の砲撃を、鹿児島の側から受けた。のちにそのイギリスへ官費留学することになるのですから、人生というのはわからないものです。
そして戊辰戦争。東郷は薩摩藩の軍艦春日丸に乗り組み、新潟から箱館まで転戦しました。参加した戦いを並べると、それだけで幕末の海戦史になります。
慶応四年一月四日 ― 日本史上初の、蒸気軍艦どうしの海戦
鳥羽・伏見の直後、慶応四年一月四日。兵庫沖を出港した薩摩の艦隊を、旧幕府海軍の開陽丸が発見し、停船命令を出します。開陽丸を率いていたのは軍艦頭・榎本武揚。
開陽丸は春日丸と翔凰丸を追撃し、計二十五発を撃ち込みました。対する春日丸も十八発を撃ち返しています。決定的な損害は双方に出ず、薩摩艦は逃走。運送船の翔凰丸は機関故障で自焼しました。
これが阿波沖海戦——日本史上はじめて、蒸気機関を備えた近代軍艦どうしが撃ち合った戦いです。戦術的には旧幕府側の勝ちでしたが、結果として近畿の制海権は新政府側に移りました。
そしてこのとき春日丸の甲板にいた二十歳の若者が、東郷平八郎です。
宮古湾、そして箱館へ
東郷はさらに宮古湾海戦にも加わっています。旧幕府軍が回天丸で新政府軍の甲鉄艦(東艦)に斬り込み、これを奪おうとした、あの無謀で鮮烈な作戦の、迎え撃つ側です。そして箱館戦争まで。
整理すると、こうなります。三笠の艦橋に立って日本海海戦を指揮した男は、その三十七年前、木と鉄の入りまじった軍艦の甲板で、同じ日本人と撃ち合っていた。
幕末の日本海軍が持っていた艦は、買ってきた中古か、必死で造らせた小艦でした。それが四十年で、イギリスに発注した一等戦艦を自分たちで動かし、当時の列強の艦隊を破るところまで行く。速すぎる、と思います。三笠を「明治の船」として切り離してしまうと、この落差が見えなくなる。
甲板を歩く


艦内に上がると、まず木甲板の感触に驚きます。板の目地がくっきり残っていて、鉄の軍艦なのに足の裏は木です。
そして通風筒の多さ。石炭を焚いて走る船ですから、機関室に風を送り込まなければならない。この筒の一本一本が、缶室で汗を流していた人間の存在を語っています。幕末の蒸気軍艦も同じでした。開陽丸も春日丸も、誰かが釜の前で石炭をくべ続けなければ一歩も動かない船です。


艦橋に上がって艦首を見下ろすと、意外なほど視界が低い。近代的な戦艦のイメージからすると、司令塔はずいぶん海に近いところにあります。
手前に真鍮の伝声管が突き出していて、これで機関室や砲塔に声を通したのだと思うと、指揮というものが今よりずっと生身の作業だったことがわかります。おじさん三人で「昔の船は狭いなあ」などと言いながら歩いていたのですが、この狭さこそが幕末から続く海軍の実物なのだと、あとから思いました。
そして、いまの横須賀


三笠公園を出て港のほうへ歩くと、現役の護衛艦が停まっています。灰色の船体が、湾の向こうに何隻も並んでいる。
横須賀という町の連続性は、ここにあります。ペリーが浦賀沖に現れたことをきっかけに、幕府が小栗忠順のもとで横須賀製鉄所(のちの造船所)を起こした。フランス人技師ヴェルニーを招いて、日本で最初の本格的な近代造船施設をここに造った。その施設が明治海軍に引き継がれ、三笠がここに据えられ、いまも艦が並んでいる。
この造船所を作らせたのが、幕府の勘定奉行だった小栗忠順です。慶応四年に取り調べもないまま斬られましたが、東郷はのちに遺族を自邸へ招き、日本海海戦の勝利は横須賀のおかげだと語ったと伝えられます。
その造船所そのものについては、横須賀製鉄所とはにまとめました。
——幕末に始まった一本の線が、まだ切れていない町なのです。
歩いてみて
正直に書くと、三笠へ行く前の私は、この艦をどこか「日露戦争の展示物」だと思っていました。幕末とは別の棚に置かれたもの、という感覚です。
それが変わったのは、東郷平八郎の履歴を最初から追ったときでした。薩英戦争で十五歳。阿波沖で二十歳。宮古湾で二十一歳。そして日本海海戦で五十七歳。ひとりの人間の一生のなかに、幕末の海戦と近代の艦隊決戦が両方入っている。
幕末という時代は、教科書の上ではきれいに終わります。けれどそこを生きた人間は、終わったあとも四十年、五十年と生き続けた。この艦は、そのことを教えてくれる場所でした。
心残りがひとつあります。東郷神社(渋谷)にはまだ行けていません。訪ねたら、この記事に書き足すつもりです。
アクセスと地図
記念艦三笠/神奈川県横須賀市稲岡町(三笠公園内)。京急の横須賀中央駅から徒歩十五分ほど、JR横須賀駅からはバスが便利です。艦内の見学は有料(開館時間・料金は季節で変わるので事前確認を)。甲板・艦橋・艦内展示まで一通り見て一時間から一時間半。
公園は無料で、艦の外観と東郷平八郎の銅像だけなら見学料なしで見られます。ただ、この記事で書いた木甲板と伝声管は艦内に入らないと触れません。せっかく行くなら上がることをおすすめします。
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