『逆賊の幕臣』の意味とは—逆賊・朝敵・賊軍の違い。小栗忠順はなぜ「逆賊」とされ、どう名誉を回復したのか

鳥羽伏見の戦場に掲げられた錦の御旗(イメージ)

この記事は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

「幕末のもしも」について
史実をふまえたうえで、「もしあのとき別の道を選んでいたら」を管理人なりに考えるシリーズです。前半は史料にもとづく史実、後半の「もしも」の部分は管理人の考え(推測)です。
鳥羽伏見の戦場に掲げられた錦の御旗(イメージ)
鳥羽伏見の戦場にひるがえる錦の御旗(イメージ)。この旗の向こう側に立った者は「賊」とされた

2027年の大河ドラマのタイトルは『逆賊の幕臣』(ぎゃくぞくのばくしん)。主人公の小栗忠順を「逆賊」と呼ぶ、思いきった題名です。

では、「逆賊」とはどういう意味で、小栗はなぜそう呼ばれたのでしょうか。よく似た「朝敵」「賊軍」との違い、小栗がその汚名を着せられたいきさつ、そして名誉が回復されるまでを、順にたどります。

目次

「逆賊の幕臣」とは?—先に答え

「逆賊」とは、主君や国家、とくに天皇・朝廷にそむいた者をいう言葉です。戊辰戦争では、新政府が天皇の名のもとに戦ったため、旧幕府側の人々は「朝敵」「賊軍」とされました。

小栗忠順は新政府軍と戦ってもいないのに、「朝廷に逆らう企てをした」として、取り調べもないまま斬られました。『逆賊の幕臣』は、「逆賊の汚名を着せられた幕府の家臣」という意味であり、本当に逆賊だったのか、という問いかけでもあります。

小栗の名誉は、明治の終わりから大正・昭和にかけて少しずつ回復し、今では「日本の近代化の父」の一人として評価されています。

「逆賊」「朝敵」「賊軍」の違い

言葉意味幕末での使われ方
逆賊(ぎゃくぞく)主君や国にそむく悪人。反逆者新政府に逆らったとされた人をののしる言葉
朝敵(ちょうてき)朝廷(天皇)の敵鳥羽伏見のあと、徳川慶喜や会津藩・桑名藩などが朝敵とされた
賊軍(ぞくぐん)朝廷に逆らう軍。「官軍」の反対旧幕府軍、奥羽越列藩同盟、箱館の榎本軍など
官軍(かんぐん)朝廷の軍錦の御旗を掲げた新政府軍

「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということわざのとおり、どちらが「官」でどちらが「賊」かは、戦いの結果と、天皇をどちらが抱えているかで決まりました。

旧幕府はなぜ「賊」になったのか—錦の御旗

慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いの2日目、新政府軍に「錦の御旗」が掲げられました。天皇の軍であることを示す旗です。これで、旗に向かって撃つ旧幕府軍は「朝敵」となりました。

朝廷を尊ぶ水戸学のもとで育った将軍・徳川慶喜は、朝敵とされることを何より恐れ、大坂城から江戸へ帰って恭順します。旧幕府方の多くの藩も、この旗を見て新政府側に移っていきました。

鳥羽伏見の戦いを描いた1868年の錦絵
鳥羽伏見の戦いを描いた錦絵(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

▶ 鳥羽伏見の戦いとは/徳川慶喜とは何をした人物か

小栗忠順はなぜ「逆賊」とされたのか

小栗は、鳥羽伏見のあと江戸城で徹底抗戦を説き、慶喜に罷免されました。その後は領地の上野国権田村(今の群馬県高崎市倉渕町)に移り、静かに暮らすつもりでした。

ところが、新政府の東山道軍は、小栗が村で大砲や小銃を備え、新政府に逆らう企てをしていると疑います。慶応4年閏4月6日、小栗は捕らえられ、取り調べらしい取り調べもないまま、烏川の水沼河原で斬首されました。数えで42歳でした。

小栗は新政府軍と一度も戦っていません。罪状も示されませんでした。それでも、明治の世では長く「逆賊」として扱われることになります。

小栗広場の記念石(烏川水沼河原の石)
横須賀の小栗広場に置かれた記念石。小栗が斬られた烏川・水沼河原の石が運ばれた(撮影:幕末歴史ガイド)

▶ 小栗上野介はなぜ殺されたのか/小栗上野介は権田村に砲台や陣屋を築いていたのか/小栗上野介の処刑は誰が決めたのか

「逆賊」の家族はどうなったのか

小栗の妻・道子は身重の体で、家臣や村人に守られて会津へ逃れ、そこで娘の国子を産みました。小栗家は逆賊の家として、明治の世を肩身狭く生きることになります。

▶ 小栗忠順の妻はどう会津へ落ちのびたのか/小栗忠順の子孫はいるのか

名誉回復—「逆賊」から「近代化の父」へ

時期できごと
明治22年(1889年)大日本帝国憲法の発布にあわせた大赦で、戊辰戦争や西南戦争で「賊」とされた人々の罪が許される。西郷隆盛も名誉を回復
明治の終わり日露戦争の勝利をきっかけに、横須賀の造船所を造った小栗の功績が見直される。東郷平八郎が遺族に礼を述べたと伝わる
大正11年(1922年)横須賀に小栗の胸像が建てられる
昭和7年(1932年)群馬県倉渕村(現・高崎市)に、小栗の無実を記した碑が建てられる
現在横須賀では毎年、ヴェルニーと小栗をたたえる式典が開かれている

年代の細かいところや碑の文面は、小栗忠順はいつ再評価されたのかで詳しく紹介しています。

小栗上野介忠順の胸像(ヴェルニー公園)
横須賀・ヴェルニー公園の小栗の胸像(撮影:幕末歴史ガイド)
東善寺の墓地に並ぶ小栗家ゆかりの墓碑
東善寺にある小栗の墓(撮影:幕末歴史ガイド)

なぜ今、『逆賊の幕臣』なのか

歴史は勝った側から書かれます。明治政府の側から見れば、幕府の家臣は「古い時代の人」であり、逆らった者は「賊」でした。けれども、明治の近代化の土台—造船所、近代的な軍隊、株式会社の考え方—の多くは、小栗のような幕臣たちが先に始めていたものです。

「逆賊」と呼ばれた人が、じつは誰よりも日本の将来を考えていたのではないか。タイトルの『逆賊の幕臣』には、そんな逆説が込められているように思えます。

▶ 小栗忠順は何をした人?功績10個の早見表/小栗上野介の名言

よくある質問

『逆賊の幕臣』の読み方は?

「ぎゃくぞくのばくしん」です。

小栗忠順は本当に逆賊だったのですか?

新政府軍と戦った事実はなく、罪状も示されないまま斬られています。現在では、無実の罪で殺されたという見方が一般的です。

「朝敵」と「逆賊」は同じですか?

重なる部分は大きいですが、「朝敵」は朝廷の敵という立場を、「逆賊」はそむいた悪人というののしりの意味合いを強く持つ言葉です。

参考資料

  • 高崎市・横須賀市の資料ほか(詳しくは各記事の参考資料を参照)
  • 写真:当サイト撮影、Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

小栗忠順のゆかりの地をめぐる

小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。

倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。

泊まりがけで回るなら、宿は高崎駅の周辺か、倉渕から車で40〜50分ほどの伊香保温泉が便利です。横須賀は横須賀中央駅のまわりに宿が集まっています。空き室はじゃらんnet(高崎駅周辺・伊香保温泉・横須賀中央)で探せます(PR)。

小栗忠順をもっと知る本

記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。

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2027年NHK大河ドラマ

『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集

放送日・キャスト28人と相関・あらすじ・見どころから、主人公・小栗忠順の生涯とゆかりの地の現地写真まで、1ページで徹底解説しています。

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