幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る
桂早之助(かつら はやのすけ)は、京都見廻組の隊士で、近江屋事件で坂本龍馬を斬った一人とされる人です。小太刀の名手として知られ、京都の霊山歴史館には「坂本龍馬を斬った刀」として、桂が使ったと伝わる脇差が残っています。
事件のわずか50日ほど後、桂は鳥羽伏見の戦いで戦死しました。本人は何も語り残していません。身分、幕末の歩み、取り立ての経緯、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。確かな肖像は伝わっていません。
桂早之助とは—先に答え
| 身分 | 京都所司代の組同心の家に生まれる |
|---|---|
| 生没 | 天保12年(1841年)〜慶応4年(1868年)1月4日。享年28 |
| 名前 | 諱は利義 |
| 幕末に何をした | 西岡是心流の小太刀の名手。上覧試合で講武所の剣客を破る。慶応3年に京都見廻組に移り肝煎に |
| 取り立ての経緯 | 所司代の同心→京都文武場の剣術世話心得→見廻組の肝煎(小隊長) |
| 事件 | 近江屋事件(慶応3年11月15日)で龍馬らを斬った一人とされる |
| 最期 | 鳥羽伏見の戦いで、下鳥羽で撃たれて戦死 |
| 墓所 | 大阪・心眼寺に葬られたとされる |
京都所司代の同心の家に生まれる
桂早之助は天保12年(1841年)、京都所司代の組同心の家に生まれました。同心は所司代のもとで働く下級の役人です。17歳で西岡是心流を修め、とくに小太刀(短めの刀)の名手として知られるようになりました。家族のことはほとんど伝わっていません。
幕末に何をしたのか—上覧試合から見廻組へ
将軍の前で講武所の剣客を破る
京都文武場で剣術世話心得(助教授)を務めていた桂は、元治元年(1864年)、将軍・徳川家茂の前で行われた上覧試合に、京都所司代の代表として出場しました。江戸の講武所から来た剣客たちを次々に破り、白銀5枚を賜ったといいます。
京都見廻組の肝煎に
慶応3年(1867年)2月、一橋慶喜(将軍徳川慶喜)の軍制改革で、所司代の同心から京都見廻組に移り、7月には肝煎(小隊長)になりました。与頭は佐々木只三郎です。
取り立てられた経緯—剣一本で
下級役人の同心の家に生まれた桂を引き上げたのは、小太刀の腕でした。上覧試合で講武所の剣客を破ったことで名が知られ、慶喜の軍制改革の流れに乗って、旗本・御家人の部隊である見廻組に移り、小隊長にまで進みます。
逸話
十津川郷士を名乗って
事件の夜、刺客たちは十津川郷士を名乗って近江屋に入ったとされ、その役を桂が担ったとする読み物もあります。
祝いの席の酒
ふだんは酒を飲まない桂が、事件のあとの祝いの席では酔うほど飲んだという話も伝わります。ただし、いずれも後の時代に書かれた読み物の話で、確かめることはできません。
関わった事件—近江屋事件(慶応3年11月15日)
龍馬と中岡慎太郎が近江屋の2階で斬られた事件について、明治3年に今井信郎は「佐々木只三郎の指図で7人が向かい、佐々木・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂早之助の4人が斬り込んだ」と供述しました。昭和13年の『佐々木只三郎伝』にも、実行者の一人として桂の名があります。桂が最初に部屋に入り、小太刀で龍馬の額を斬ったとする話もありますが、本人の証言ではありません。
一方、同じ見廻組の渡辺篤が晩年に残した話では、2階に上がったのは佐々木・渡辺篤・世良敏郎らで、桂の役割ははっきりしません。新選組説や薩摩藩黒幕説もあり、桂が実行者だというのは「とされる」段階の話です(坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか)。
最期—下鳥羽で戦死

慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いが始まると、桂は見廻組の一員として戦い、翌4日、下鳥羽で左の太ももを撃たれて戦死しました。28歳でした(鳥羽伏見の戦いと新選組)。仲間が遺体を戸板に乗せて大坂まで運び、同じく戦死した渡辺吉太郎とともに心眼寺に葬ったと伝わります。近江屋事件の実行者とされる4人のうち、佐々木・渡辺吉太郎・桂の3人が、この戦いで命を落としました。
桂早之助ゆかりの地
霊山歴史館(京都市東山区)
京都市東山区清閑寺霊山町1。「桂早之助 坂本龍馬を斬った刀」として、刃の長さ42.1センチの脇差を収蔵しています。銘は「越後守包貞」とありますが偽の銘で、刃には多くの刃こぼれがあり、館はこれを事件のときの傷と説明しています。展示の状況や開館時間は館で確かめてください。
心眼寺(大阪市天王寺区)
大阪市天王寺区餌差町。真田丸の跡と伝わる寺で、桂が葬られたとされます。墓が今も残っているかは確認できていません。
近江屋跡(京都市中京区)
事件の現場です(【現地取材】坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難の地)。
下鳥羽(京都市伏見区)
桂が戦死した鳥羽伏見の戦いの戦場です。
なお、京都国立博物館が所蔵するのは龍馬自身の刀「吉行」で、桂の刀ではありません。
幕末・明治の暗殺事件を読む
- 桜田門外の変(1860)—大老・井伊直弼
- 坂下門外の変(1862)—老中・安藤信正
- 吉田東洋暗殺(1862)—土佐藩の参政
- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 目明し文吉の殺害(1862)—三条河原
- 清河八郎暗殺(1863)—麻布一ノ橋
- 姉小路公知暗殺・朔平門外の変(1863)
- 芹沢鴨暗殺(1863)—壬生・八木邸
- 平岡円四郎暗殺(1864)—一橋慶喜の側近
- 佐久間象山暗殺(1864)—三条木屋町
- 原市之進暗殺(1867)—将軍慶喜の側近
- 赤松小三郎暗殺(1867)—東洞院通
- 坂本龍馬暗殺・近江屋事件(1867)
- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
- 横井小楠暗殺(1869)—寺町丸太町
- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
- 大久保利通暗殺・紀尾井坂の変(1878)
- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
▶ 暗殺した側の人物をもっと読む
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参考資料
- Wikipedia「桂早之助」
- 霊山歴史館「桂早之助 坂本龍馬を斬った刀」
- Wikipedia「近江屋事件」
- 京都市「京都の博物館」霊山歴史館
- 文化庁「龍馬関係資料」

