矢田堀景蔵とは何をした人物か—榎本武揚を育て、艦隊を引き渡す側に立った幕府海軍の最後の総裁

朝靄の河口に停泊する軍艦と、岸壁から艦隊を見る男の後ろ姿(イメージイラスト)

矢田堀景蔵は、幕府海軍の最後の総裁です。勝海舟と同じ年に長崎海軍伝習所へ入り、築地の軍艦操練所で榎本武揚や赤松則良を育て、幕府が倒れたときに艦隊を新政府へ引き渡す側に立ちました。名前はほとんど知られていません。この記事も、分からないことのほうが多い記事になります。

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★先に書いておきます—この人は記録が乏しい

矢田堀景蔵(鴻)の肖像写真
矢田堀景蔵(鴻)(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

調べてみて驚いたのですが、矢田堀景蔵について、公的機関がまとめた記述がほとんど見つかりません。

  • 国立公文書館アジア歴史資料センターの人物データベースに項目がありません
  • 沼津市明治史料館が出している沼津兵学校関係の記事一覧にも、名前が出てきません

以下に書くことの多くは、百科事典と、笹川平和財団の海洋政策研究所が出している会報の記事が根拠です。公的機関で裏が取れたものではない、という前提で読んでください。幕府海軍の総裁をつとめた人が、この扱いです。

昌平黌を出て、二十五歳で学頭になりました

文政十二年、1829年の生まれとされます。江戸の幕臣の家に生まれました。

出自からしてはっきりしません。日本大百科全書は「関東代官荒井清兵衛の弟」とし、日本人名大辞典は「荒井顕道の弟」としています。通称と名で同じ人を指している可能性が高いのですが、それを明言した資料は見つけられませんでした。海洋政策研究所の記事はそもそも荒井姓に触れず、「下級幕臣の三男」と書いています。

はっきりしているのは学才です。幕府の学問所である昌平黌を優秀な成績で出て、二十五歳で甲府の徽典館の学頭として赴任しています。はじめの名は敏、通称が景蔵。維新のあとに鴻(こう)と改めました。

安政二年、長崎へ

安政二年、長崎海軍伝習所の伝習生となります。勝麟太郎、のちの勝海舟らとともに、オランダ人から学びました。

海洋政策研究所の記事は、矢田堀が学生長にあたる「生徒監」として赴任し、勝も同じ生徒監だったとしています。このとき矢田堀の従者のひとりが、七歳年下の榎本武揚でした。

ただしこの「生徒監」という役職名も、勝と同役だったという話も、公的機関では確かめられませんでした。辞典は「長崎海軍伝習生となり」としか書いていません。

伝習は第二次アヘン戦争の影響で一年半足らずで切り上げられ、矢田堀らは江戸へ呼び戻されます。

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築地の軍艦操練所で、人を育てました

江戸に戻った伝習生たちは、築地に軍艦操練所を開きます。日本人が日本人に教える学校です。

矢田堀はここで教授方頭取をつとめ、榎本武揚、赤松則良、荒井郁之助といった、のちの日本の海軍と技術を背負う人たちを育てました。複数の辞典がそろってこの点を書いています。

ここでひとつ注意が要ります。外務省が万延元年の遣米使節の乗組員名簿について書いた解説には、「当時、軍艦操練所教授方頭取であった勝の名前がみられる」とあります。つまり同じころ勝も教授方頭取でした。役職は複数いたか、時期が違ったかのどちらかです。「矢田堀は勝より上だった」と書くのは早すぎます。

どの船に乗ったのかが、分かりません

海軍の教官であり、のちに海軍総裁になった人です。当然どこかの艦で働いていたはずなのですが、観光丸にも咸臨丸にも朝陽丸にも、矢田堀が乗っていたことを示す記述を、公的機関でも辞典でも見つけられませんでした。

把握していた「軍艦頭取」「軍艦奉行並」という役職名も、今回の調査では裏が取れていません。

海洋政策研究所の記事は、観光丸で岩瀬忠震の下田行きやハリスの江戸入りを送迎したと書いていますが、これも他では確かめられませんでした。

慶応四年、海軍総裁

旧幕府海軍の旗艦・開陽丸
旧幕府海軍の旗艦・開陽丸(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

慶応四年、幕府が倒れるその年に、矢田堀は幕府海軍総裁になります。数えで四十歳。同じとき、勝海舟が陸軍総裁でした。

矢田堀に課された仕事は、艦隊を新政府へ引き渡すことでした。徳川家が恭順すると決めた以上、海軍の長はその手続きをする人になります。

対して海軍副総裁の榎本武揚は徹底抗戦を主張し、二人は激しく論争したといわれます。そして—矢田堀が新政府との交渉のために上陸している隙に、榎本は艦隊を率いて脱走しました。長崎で自分の従者だった男が、艦隊ごと去っていったわけです。

この経緯も海洋政策研究所の記事が根拠で、公的機関では確かめられていません。ただ、榎本の脱走が矢田堀の不在中に起きたという構図は、この人の立場をよく表しています。抗戦しなかったのではなく、引き渡す役を引き受けていた。

静岡で学校を開きました

維新後は徳川家とともに静岡へ移り、沼津兵学校の幹部として、また静岡学問所の充実に力を尽くしました。旧幕府海軍の人材を教授に迎え、自分は事務方に回ったといわれます。両校とも廃藩置県で数年のうちに役割を終えました。

その後は海軍省、工部省に出仕しています。勝や榎本のようには立ち回れず、海軍とも教育とも関係のない部署を転々としたと、海洋政策研究所の記事は書いています。

明治二十年十一月十七日に死去。五十九歳でした。

訪ねられる場所は、見つけられませんでした

墓所も顕彰碑も記念施設も、公的機関の資料では確かめられませんでした。正直にそう書いておきます。

ゆかりの地として訪ねられるのは、沼津兵学校の跡に建つ城岡神社(沼津市)と、沼津市明治史料館くらいです。どちらも矢田堀個人の碑ではありません。

幕府海軍の最後の総裁に、訪ねる墓がない。この記事を書いていて、いちばん引っかかったのはそこでした。

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 海洋政策研究所『オーシャンニューズレター』第百九十号「知られざる幕府海軍総裁・矢田堀景蔵」
  • 日本大百科全書、デジタル版日本人名大辞典(矢田堀鴻)
  • 外務省「万延元年遣米使節」資料解説(軍艦操練所教授方頭取について)
  • 沼津市(城岡神社)、沼津市明治史料館

この記事は、公的機関の裏が取れた部分と取れなかった部分を分けて書きました。新しい資料が出てきたら書き直します。

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