慶応2年(1866)6月、幕府は諸藩の兵を集め、長州藩をふたたび攻めました。攻め口は周防大島・芸州(安芸との境)・石州(石見との境)・小倉(関門海峡の向こう)の4つ。長州藩は四方の国境から同時に攻め込まれたことになります。ところが、兵の数でははるかに劣る長州藩が、どの攻め口でも幕府軍を押し返し、将軍・徳川家茂の死をきっかけに戦いは打ち切られました。幕府が一つの藩に敗れた、この戦いを「四境戦争」と呼びます。
この記事では、四境戦争(第二次長州征伐)を、なぜ起きたのか、4つの口でそれぞれ何が起きたのか、そしてこの敗北が幕府に何をもたらしたのかの順に、進軍図とあわせて解説します。
四境戦争とは?ひとことで言うと
慶応2年6月から8月にかけて、幕府が諸藩を率いて長州藩を攻めた戦いです。幕府側では「第二次長州征伐(長州再征)」、長州側では国の4つの境で戦ったことから「四境戦争」と呼ばれます。最新式の銃をそろえ、身分を問わない諸隊で戦った長州藩が、大島口・芸州口・石州口・小倉口のすべてで幕府軍を退けました。幕府は将軍の死を理由に兵を引き、一つの藩に勝てなかった幕府の権威は大きく揺らぎました。
| 期間 | 慶応2年6月7日〜8月(1866年7月18日〜9月)。小倉口は翌年1月の講和まで続く |
|---|---|
| 場所 | 周防大島(山口県周防大島町)、小瀬川周辺(山口県岩国市・広島県大竹市)、石見の益田・浜田(島根県)、豊前の小倉(福岡県北九州市) |
| 幕府側 | 幕府歩兵・幕府艦隊と、紀州・彦根・高田・浜田・福山・松山・小倉・熊本などの諸藩。小倉口の総指揮は老中・小笠原長行 |
| 長州側 | 長州藩の正規兵と奇兵隊などの諸隊。支藩の岩国・清末・長府の兵。石州口は大村益次郎、小倉口・大島口では高杉晋作が指揮をとった |
| 結果 | 長州藩が4つの口すべてで勝利。7月20日に将軍・家茂が大坂城で亡くなり、幕府は休戦。浜田城と小倉城は自ら火を放って落ちた |
なぜ幕府はふたたび長州を攻めたのか
禁門の変と第一次長州征伐
元治元年(1864)7月、長州藩は京都に兵を送り、御所の近くで会津・薩摩の兵と戦って敗れました(禁門の変)。御所に向けて発砲したことで、長州藩は「朝敵」とされます。幕府は諸藩の兵を集めて長州を攻めることにしました。これが第一次長州征伐です。
このとき長州藩は、同じ年の8月に英・仏・米・蘭の4か国艦隊に下関の砲台を占領されたばかりでした(下関戦争)。藩内では幕府に従って家を守ろうとする「俗論派」が力を握り、禁門の変を指揮した3人の家老に腹を切らせて、幕府に謝罪します。こうして第一次長州征伐は、戦わずに終わりました。
高杉晋作の挙兵と、長州藩の方針転換
これに納得しなかったのが高杉晋作です。元治元年12月、高杉はわずか80人ほどで下関の功山寺に兵を挙げました。やがて奇兵隊などの諸隊がこれに続き、翌年はじめの戦いで俗論派の藩兵を破ります。藩の実権は、高杉ら「正義派」の手に戻りました。
長州藩は表向きは幕府に従う姿勢を見せながら、裏では「武備恭順」、つまり戦う準備を進めます。慶応2年1月には坂本龍馬の仲立ちで薩摩藩と手を結び(薩長同盟)、薩摩藩の名義を借りてイギリス商人から最新式のミニエー銃や蒸気船を買い入れました。龍馬がかかわった乙丑丸(ユニオン号)も、こうして長州に渡った船です。
幕府、長州再征を決める
長州藩の動きを知った幕府は、藩主父子の隠居と10万石の削減を命じましたが、長州藩は応じません。慶応元年5月、将軍・徳川家茂は自ら江戸を発って大坂城に入り、ふたたび長州を攻める準備を始めました。けれども、戦いの理由に納得しない藩も多く、薩摩藩は出兵を断り、隣の広島藩も兵を出しませんでした。
幕府軍と長州軍をくらべる
| 幕府軍 | 長州軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 動員したのは10万をこえるとも言われる(諸説あり)。実際に戦った兵は口ごとに数千 | 藩兵と諸隊をあわせて数千(4,000前後とされる)。4つの口に分けて守った |
| 武器 | 幕府歩兵は洋式だが、彦根・高田などの諸藩は火縄銃や甲冑の旧式の装備が多かった | ミニエー銃など最新の洋式銃をそろえ、散兵戦術で戦った |
| 海軍 | 富士山丸など大型の蒸気軍艦をそろえた幕府艦隊 | 丙寅丸・乙丑丸など、小さな蒸気船が数隻 |
| 指揮 | 総督は紀州藩主・徳川茂承。小倉口は老中・小笠原長行。諸藩の足並みはそろわなかった | 石州口は大村益次郎、大島口・小倉口は高杉晋作。藩をあげて一つにまとまっていた |
| 士気 | なぜ長州を討つのかに納得しない藩が多く、戦う気持ちは弱かった | 負ければ藩が滅びるという危機感で、身分をこえて結束していた |
4つの口の戦い

大島口:高杉晋作の夜襲で島を取り戻す
戦いの口火は、瀬戸内海に浮かぶ周防大島で切られました。6月7日、幕府艦隊が大島の上関を砲撃し、8日には伊予松山藩の兵が、11日には幕府歩兵が久賀などに上陸して、島を占領します。長州藩は大島をほとんど守っていなかったため、島の人々は大きな被害を受けました。
ここで動いたのが、海軍総督に任じられたばかりの高杉晋作です。6月12日の夜から13日の未明にかけて、高杉は小さな蒸気船・丙寅丸1隻に乗りこみ、久賀の沖に停泊する幕府の旭日丸・八雲丸などのあいだへ突っこんで砲撃を浴びせました。夜の闇にまぎれた不意打ちに、幕府艦隊は混乱します。その後、第二奇兵隊などが島に上陸し、6月17日には大島を取り戻しました。

丙寅丸は、この年の5月に高杉が長崎でイギリス商人グラバーから買った船です。藩の許しを得ないままの独断の買い物でしたが、この1隻が大島口と小倉口で長州海軍の先頭に立つことになりました。夜襲の戦果については評価が分かれるものの、大きな艦隊に小さな船1隻で挑んだこの作戦は、長州の兵の士気を大いに高めました。
芸州口:小瀬川で旧式の大軍を破る
安芸(広島藩)との境を流れる小瀬川では、6月14日から戦いが始まりました。幕府側の先鋒は、彦根藩と高田藩。どちらも名門の藩でしたが、兵の多くは甲冑に火縄銃という旧式の装備でした。川を渡ろうとした両藩の兵は、物陰から洋式銃で撃ちかけてくる長州の兵にさんざんに打ち破られ、敗走します。長州側では、支藩の岩国藩の兵もこの口を守りました。

けれども、その後に出てきた幕府の洋式歩兵と紀州藩の兵は手強く、大野・宮内のあたりで戦いは一進一退となりました。芸州口は、4つの口のなかでただ一つ、勝負がはっきりつかないまま休戦を迎えています。広島藩は戦いに加わらず、むしろ両者の和平を幕府に訴えていました(広島藩)。
石州口:大村益次郎、浜田城を落とす
石見(島根県)との境から攻め込む石州口では、長州藩はあえて自分から打って出ました。指揮をとったのは、医者から兵学者になった大村益次郎です。長州軍はまず、隣の津和野藩の領地を通らせてもらいました。津和野藩は中立をとり、長州軍の通過を認めます。

6月17日、長州軍は益田で浜田藩・福山藩の兵を破りました。大村は、敵の正面に兵をぶつけるのではなく、横や後ろにまわりこんで退路をおびやかし、相手が自分から崩れるように兵を動かしました。7月には大麻山や周布で紀州藩などの兵も破り、浜田城へ迫ります。
浜田藩主の松平武聰は、将軍・慶喜の実の弟にあたる人です。7月18日、浜田藩は城に自ら火を放ち、松江へ逃れました。浜田藩はのちに美作で鶴田藩として家を残すことになります(浜田藩)。

城を失った浜田藩の領地は、そのまま長州藩の兵に占領されました。ただし長州藩の領地に正式に組み込まれたわけではなく、長州藩が預かって治める形です。明治2年(1869)に新政府へ返され、のちに浜田県となりました。
小倉口:海峡を渡って攻め、最も苦戦する
関門海峡をはさんだ小倉口では、幕府側の総指揮を老中の小笠原長行がとり、九州の諸藩が集まっていました。長州軍は守るだけでなく、ここでも海を渡って攻め込みます。6月17日、高杉晋作の指揮で軍艦が対岸の田野浦を砲撃し、奇兵隊などが上陸しました。この海戦には、坂本龍馬も乙丑丸に乗って加わっています。7月2日〜3日には大里にも上陸しました。
けれども小倉口は、4つの口のなかでいちばんの苦戦となります。7月27日の赤坂・鳥越の戦いでは、熊本藩の兵が強く、長州軍は多くの死傷者を出して押し返されました。ところが、その熊本藩も小笠原の指揮に不満を持ち、やがて兵を引き上げてしまいます。
そこへ届いたのが、7月20日に将軍・家茂が大坂城で亡くなったという知らせでした。小笠原長行はひそかに船で小倉を離れ、残る諸藩も次々に引き揚げます。取り残された小倉藩は、8月1日に小倉城に自ら火を放ち、南の香春へ退きました。小倉藩はその後も家老の島村志津摩らが戦いを続け、長州藩と講和したのは翌慶応3年1月のことです。

講和の条件として、小倉藩は城のあった企救郡を長州藩に預けることになりました。こちらも長州藩の領地になったのではなく、明治2年に新政府へ返されています。小倉藩は香春、のちに豊津へ藩庁を移し、小倉に戻ることはありませんでした。
戦いの流れ(慶応2年)
| 月日 | 出来事 |
|---|---|
| 6月7日 | 幕府艦隊が周防大島の上関を砲撃。戦いが始まる |
| 6月8日〜11日 | 松山藩兵と幕府歩兵が大島に上陸し、島を占領 |
| 6月12日夜 | 高杉晋作の丙寅丸が幕府艦隊を夜襲 |
| 6月14日 | 芸州口・小瀬川で彦根藩・高田藩が敗走 |
| 6月17日 | 大島を奪回。石州口では益田で勝利。小倉口では田野浦に上陸 |
| 7月18日 | 浜田藩が浜田城に火を放って退く |
| 7月20日 | 将軍・徳川家茂が大坂城で死去 |
| 7月27日 | 小倉口・赤坂・鳥越の戦い。熊本藩の前に長州軍が苦戦 |
| 8月1日 | 小倉藩が小倉城に火を放って退く |
| 8月下旬 | 家茂の死が公表され、休戦の勅命が出る |
| 9月2日 | 宮島で勝海舟と長州藩の広沢真臣・井上馨が休戦を話し合う |
| 慶応3年1月 | 小倉藩と長州藩が講和 |
戦いのあと ― 幕府の権威が崩れる
一つの藩に勝てなかった幕府
幕府は将軍の死を理由に兵を引きましたが、実際には長州藩一つに負けたのです。260年あまり続いた幕府が、諸藩を率いて攻めても一つの藩を屈服させられない。このことは日本中に知れ渡り、幕府の権威は大きく落ちました。戦いのために米の値段が上がり、各地では「世直し」を求める一揆や打ちこわしが相次いでいます。
慶喜の改革と、倒幕への道
家茂のあとを継いだ徳川慶喜は、この敗北を受けてフランスの力を借り、幕府の軍隊を洋式に作りかえる改革を急ぎました。けれども同じ年の12月には、幕府を支えてきた孝明天皇も亡くなります。薩摩と長州は倒幕へ向けて手を結び、翌慶応3年10月には大政奉還、そして慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いへと時代は進んでいきました。
高杉晋作と大村益次郎のその後
四境戦争で活躍した高杉晋作は、戦いのさなかから結核に苦しみ、慶応3年4月、大政奉還を見ることなく29歳で亡くなりました。大村益次郎は戊辰戦争で新政府軍の作戦を指揮し、日本の近代陸軍の基礎をつくりましたが、明治2年(1869)、京都で襲われ、その傷がもとで亡くなっています(大村益次郎暗殺)。
この戦いが示したもの
四境戦争は、数ではなく、装備と戦い方、そして戦う理由を持った側が勝つことを示した戦いでした。幕府側は大軍を集めたものの、旧式の装備のまま、なぜ戦うのかに納得しない藩の寄せ集めでした。長州藩は最新の銃と、身分を問わない諸隊、大村益次郎の合理的な用兵、そして藩をあげた危機感で一つにまとまっていました。
この戦いを境に、幕府が武力で諸藩を従わせる時代は終わります。2年後の戊辰戦争で新政府軍が見せた洋式の戦い方は、この四境戦争ですでに形になっていたのです。
現地を歩く ― 岩国城と錦帯橋
芸州口の舞台となった小瀬川は、いまの山口県岩国市と広島県大竹市の境を流れています。岩国の城下には錦帯橋がかかり、山の上には岩国城の天守が復元されています。岩国藩を治めた吉川家は、関ヶ原以来、長州藩の東の守りを担ってきた家でした。くわしくは【現地取材】岩国城と錦帯橋を歩くで紹介しています。

筆者の感想
小倉口・芸州口・石州口・大島口と4方向から囲まれた長州藩は、よく戦う意思を固めましたね。もちろん高杉晋作が率いる正義派が俗論派を破ったことから、このような流れになったのでしょうけど、それにしてもすごい!あとは用兵の天才・大村益次郎の存在も大きかったのかもですね。そして最新の武器を手に入れて連戦連勝。小倉口は赤坂の戦いなどでだいぶ苦戦したようですが。。
わたしがいちばん好きなシーンは、軍艦1隻で幕府艦隊に深夜の突撃奇襲をかけた高杉の作戦ですね。これは本当にすごいとしか言いようがありません。歴史が変わった1つは桜田門外の変、もう1つはこの戦いだと思います。
そして高杉は、この戦いのあとまもなく亡くなります。本当に天は、必要なときに人材を送り込み、役割を終えたら天へ連れていってしまうのだなーと思いましたよ。大村も明治維新後に暗殺されていますからね。。
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参考資料
- 野口武彦『長州戦争 ― 幕府瓦解への岐路』(中公新書)
- 『山口県史』通史編 近世
文・写真:佐藤秀信
※進軍図はイラストです




