【現地取材】ヴェルニー公園の石碑と案内板を全文で読む|海軍の碑・長門・沖島の碑、子規の句碑、陸奥の主砲(横須賀)

戦艦「陸奥」の主砲と「鎮魂」の碑

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文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)

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ヴェルニー公園を歩くと、海沿いの細長い園内に、石碑や案内板がいくつも立っています。小栗上野介の胸像を見に来た人も、多くはその前を素通りしてしまうかもしれません。でも、一つずつ読んでいくと、幕府が横須賀に製鉄所を建てたところから、明治・大正・昭和の海軍、そして戦後までの横須賀の歩みが、順番に浮かび上がってきます。

この記事では、私がヴェルニー公園で撮った写真をもとに、碑文と案内板に書かれていることを一枚ずつ文字に起こして紹介します。公園全体の見どころや小栗の生誕地については小栗上野介の生まれた場所はどこ?生誕地・神田駿河台と横須賀のゆかりの地、記念館とティボディエ邸の館内はヴェルニー公園で無料で入れる二つの施設で紹介しています。

戦艦「陸奥」の主砲と「鎮魂」の碑
戦艦「陸奥」の主砲と「鎮魂」の碑

※碑文と案内板の文章は、現地で撮った写真から書き起こしました。改行は読みやすさに合わせて変えています。写真で読み取れなかった文字は「(不明)」としています。

目次

ヴェルニー公園の碑と案内板の一覧

碑・案内板場所内容
海軍の碑汐入側の碑の一角黒船と幕府の製鉄所建設から書き起こす、日本海軍の約80年の歴史
軍艦山城之碑汐入側の碑の一角戦艦山城の碑。錨と桜の紋章、山城のレリーフ
国威顕彰の碑汐入側の碑の一角艦橋をかたどったとされる古い碑。説明板はなし
軍艦長門碑汐入側の碑の一角連合艦隊旗艦・長門のレリーフと碑文
軍艦沖島の碑汐入側の碑の一角戦没した機雷敷設艦・沖島の乗員を悼む詩と漢詩
正岡子規の句碑汐入側の碑の一角「横須賀や只帆檣の冬木立」と横須賀市の説明板
ティボディエ邸の案内板汐入側の端製鉄所副首長の官舎と、小栗・ヴェルニーの名
横須賀製鉄所とドライドックの解説板海沿いの柵製鉄所の歴史と、対岸に見える3基の石造ドック
小栗上野介・ヴェルニーの説明板小栗広場二人の経歴とAR歴史マンガ
逸見波止場衛門の案内板駅側横須賀軍港の正門だった衛兵詰所
戦艦陸奥の主砲・主砲弾駅側の端陸奥の来歴、主砲の構造、里帰りのいきさつ
ヴェルニー記念館の案内板駅側の端記念館の目的と建物の由来
ヴェルニー公園の案内図。左下がJR横須賀駅、右側が汐入側
ヴェルニー公園の案内図。左下がJR横須賀駅、右側が汐入側

私は汐入側(コースカ ベイサイド ストアーズ側)から駅の方へ歩いたので、その順で紹介します。

海軍の碑—書き出しは「浦賀に黒船が現れ」

汐入側の入口近くに、碑がまとまって立っている一角があります。いちばん大きいのが「海軍の碑」です。旭日を刻んだ黒い碑の前に大きな錨が置かれ、花が供えられていました。

海軍の碑と錨
海軍の碑と錨

碑の右側の石板に「建立趣意」が刻まれています。全文は次のとおりです。

浦賀に黒船が現れ、鎖国の夢を破られた幕府は、ここ横須賀の地に製鉄所を建設し、近代海軍の創設を企画した。

その後、明治維新により明治政府が樹立され、政府は、西欧諸国に比し一世紀以上の遅れを取り戻すべく、我が国の近代化に着手した。特に海軍の整備が重要視され、日清及び日露両戦役を経て、わが国の海軍は次第に整備充実され、世界三大海軍国の一つとして、その地位を占めるに至った。

こうした近代海軍の創設及び成長という歴史の流れの中において、横須賀はその最枢要基地として、かつての一寒村からわが国屈指の軍港都市となり、発展を遂げることになった。

しかしながら、その海軍も昭和二十年の太平洋戦争終結と共に八十年に亘る歴史を閉じることになった。

海軍終息から五十年という節目に当たる本年、明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史、並びに太平洋戦争において亡くなられた多くの人々を偲びつつ、またわが国の永遠の平和を希求するため、この記念碑を建立する。

なお、本記念碑は全国の海軍関係者及び有志から寄せられた浄財によるものである。

平成七年十一月十七日 海軍の碑建立委員会

海軍の碑「建立趣意」(現地の写真から書き起こし)
海軍の碑の「建立趣意」
海軍の碑の「建立趣意」

日本の海軍の歴史をまとめた碑が、明治の海軍からではなく、幕府が横須賀に製鉄所を建てたところから書き起こされています。その製鉄所を進めたのが小栗上野介です。海軍の人たちにとっても、出発点はここだったのだと、碑の前で感じました。

軍艦山城之碑

海軍の碑の隣には、旧海軍の軍艦の名を刻んだ碑が並んでいます。「軍艦山城之碑」は、黒い石に艦名を刻み、その下に錨と桜の紋章、さらに山城の姿を描いた小さなレリーフがはめ込まれています。

軍艦山城之碑
軍艦山城之碑

山城は扶桑型の戦艦の2番艦で、横須賀海軍工廠で建造されました。昭和十九年(1944)、レイテ沖海戦のスリガオ海峡で沈んでいます。正面には艦名と紋章、レリーフのほかに文字は見当たりませんでした。

国威顕彰の碑—説明板のない古い碑

山城の碑の隣に、ひときわ古く、変わった形の碑があります。軍艦の艦橋のような形をした石の塊に、「國威顕彰」の四文字が縦に刻まれています。

「國威顕彰」の碑(右)と軍艦山城之碑(左)
「國威顕彰」の碑(右)と軍艦山城之碑(左)

手前の傾いた台石には、もとは銘板がはめ込まれていたような跡がありますが、いまは何も残っていません。周りに説明板もなく、いつ、誰が、何のために建てたのかは現地ではわかりませんでした。

調べてみると、昭和十二年(1937)の海軍記念日に除幕されたもので、もとは横須賀軍港の逸見門の内側にあった、という話が伝えられています。ただ、公的な資料では確かめられなかったので、ここでは「そう伝えられている」とだけ書いておきます。銘板が外されているのは、戦後に取り除かれたためかもしれません。

ほかの碑がみな戦後に建てられたものなのに対して、この碑だけは戦前の海軍の時代の空気をそのまま残しているように見えました。

軍艦長門碑—「ありし日の聯合艦隊旗艦長門の姿を」

次は「軍艦長門碑」です。花崗岩の上に、長門の姿を立体的に表したブロンズのレリーフが据えられています。

軍艦長門碑
軍艦長門碑

台座には、次のように刻まれています。

ありし日の

聯合艦隊旗艦長門の

姿を ここに留めて

昭和激動の時代を

偲ぶよすがとする

政一書

軍艦長門碑の碑文(現地の写真から書き起こし)

長門は大正九年(1920)に呉で完成した戦艦で、世界で初めて16インチ(41センチ)砲を積んだ戦艦として知られています。連合艦隊の旗艦を長くつとめ、太平洋戦争を生き延びた数少ない大型艦の一つでした。戦後はアメリカの原爆実験に使われ、ビキニ環礁に沈んでいます。

公園の反対側の端には、長門の姉妹艦・陸奥の主砲が置かれています。姉妹艦がこの公園の両端で向かい合っているのも、偶然とは思えない並び方です。

軍艦沖島の碑—「海は生命の故郷であった」

大きな自然石に黒い石板をはめ込んだ「軍艦沖島の碑」には、詩と漢詩が刻まれています。石板が鏡のように光るので、撮影すると私の姿まで映り込んでしまいました。

軍艦沖島の碑
軍艦沖島の碑

碑文の全文は次のとおりです。

軍艦沖島の碑

原始

海は生命の故郷であった

その海に果て

その海深く眠る

戦友たちの御魂やすかれと

いのちながらえしもの

あい集い

再び

いくさあらすなと

ねがうものなり

浮雲一片流北辰 何人不起望郷情

有時霊魂亦還家 夜半南星漂蒼海

軍艦沖島の碑の碑文(現地の写真から書き起こし)

左側の七言の漢詩は、北の空へ流れる一片の雲を見れば誰もが故郷を思う、霊魂もときには家へ帰るだろう、夜半に南の星が青い海に漂う、といった意味に読めます。

沖島は機雷を敷設するための軍艦で、昭和十七年(1942)、ソロモン方面でアメリカの潜水艦の魚雷を受けて沈みました。戦友の碑でありながら、最後が「再びいくさをするな」という願いで終わっていることが、心に残りました。

正岡子規の句碑—「横須賀や只帆檣の冬木立」

碑の一角の奥に、赤みがかった大きな自然石があります。正岡子規の句碑です。

正岡子規の句碑
正岡子規の句碑

横須賀や 只帆檣の 冬木立

子規

横に立つ横須賀市の説明板「正岡子規の文学碑」の全文です。

明治二十一年(一八八八)八月、正岡子規は夏期休暇を利用して、友人とともに汽船で浦賀に着き、横須賀・鎌倉に遊んだ。

碑の句は、横須賀港内に連なる帆檣(ほばしら)の印象を詠んだもので、句集「寒山落木」に収録されている。

正岡子規は、慶応三年(一八六七)九月十七日、伊予国温泉郡(現・愛媛県松山市)に生まれ、本名を常規といった。

松山中学校時代は政治家志望であったが、上京後は文学に転じ、文科大学国文科(現・東京大学)に進んだ。

子規は、写実(写生)を主張して、空想を排する俳句の革新を行った。その考えを新聞「日本」紙上に、「獺祭書屋俳話」(明治二十五年)、「俳諧大要」(同二十八年)として表した。また、句作は生涯に二万句を数え、特に明治二十五年(一八九二)から同三十一年(一八九八)までは毎年千句以上を創作した。同三十年(一八九七)には「ホトトギス」が創刊され、以来子規派の雑誌として注目された。一方、同年には、『歌よみに与ふる書』を「日本」に掲載し、短歌の革新にも着手した。これは、俳句で主張した写生を短歌の上にも及ぼしたものであった。

子規は、明治三十五年(一九〇二)九月十九日、三十五歳の若さで亡くなったが、彼の主張は、俳句では、高浜虚子、河東碧梧桐らが継承し、短歌では、斎藤茂吉、島木赤彦らの「アララギ」派に受け継がれていった。また、彼の提唱した写生文は、夏目漱石、伊藤左千夫ら後続の文学者に影響を与えた。

横須賀市

横須賀市「正岡子規の文学碑」(現地の写真から書き起こし)

※説明板では『歌よみに与ふる書』を「同年」(明治三十年)としていますが、新聞「日本」への掲載は一般に明治三十一年(1898)とされています。

「正岡子規の文学碑」の説明板(横須賀市)
「正岡子規の文学碑」の説明板(横須賀市)

小栗が横須賀製鉄所の建設を始めた慶応元年(1865)から、わずか23年後の夏です。帆柱が冬の木立のように並んでいたという港の姿は、横須賀がすでに大きな軍港になっていたことを伝えてくれます。

ティボディエ邸の案内板—小栗上野介の名が最初に出てくる

碑の一角のすぐ隣、汐入側の端に「よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸」があります。その前の案内板は、小栗上野介の名前から始まっています。

ティボディエ邸の案内板
ティボディエ邸の案内板

幕末の1865年、江戸幕府の勘定奉行小栗上野介が中心となり、フランスの海軍技師レオンス・ヴェルニーを招き横須賀製鉄所の建設が始まりました。

ティボディエ邸は、横須賀製鉄所副首長であったティボディエの官舎として、1869年頃に建築された本州最古級の西洋館です。

よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸は、その当時の外観を再現するとともに、館内では、木骨煉瓦造りの壁とトラス構法の屋根構造を、当時の建物から移設した部材で復元しています。

よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸は、ルートミュージアムを楽しむための拠点施設でもあります。

ティボディエ邸の案内板(現地の写真から書き起こし)

横須賀製鉄所とドライドックの解説板

ティボディエ邸から駅の方へ海沿いを歩くと、柵に横須賀市の解説板が並んでいます。対岸の米海軍横須賀基地を眺めながら読めるように置かれています。

海沿いの柵に並ぶ解説板。対岸は米海軍横須賀基地
海沿いの柵に並ぶ解説板。対岸は米海軍横須賀基地

近代日本のルーツ 横須賀製鉄所

世界遺産の富岡製糸場のモデルとなった横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)は、現在のヴェルニー公園の対岸あたりに、慶応元年(1865年)の鍬入れ式から様々な施設が建設され、横須賀の街とともに発展しました。

最新の加工機械などが導入され、日本の近代工業の礎を築くとともに、日曜休日制や労働時間、メートル法、健康診断などの新しい仕組みが横須賀製鉄所で始まりました。

また、正面に見えるドライドックは、当時は欧米先進国にも負けないものだったとされ、現在も現役で利用されています。

(左図は、明治14年(1881年)発行の「横須賀一覧図」で、当時の横須賀製鉄所の様子が描かれています。当時の横須賀製鉄所は観光地であり、この図は観光客のお土産として配られていました。)

横須賀市の解説板「近代日本のルーツ 横須賀製鉄所」(現地の写真から書き起こし)

製鉄所が見物に来る観光地で、おみやげの絵図まであったというのは意外な話でした。

今も残る「横須賀製鉄所」のドライドック

ドライドックとは、艦船を修理するために使う施設です。正面に見える3基のドライドックは、向かって右から第1号、第2号、第3号と並んでいます。水面近くに(A)、(B)の文字がある鉄の扉が見えますが、それがドックの扉です。明治4年(1871年)に完成した1号ドックは日本最古の西洋式の石造ドックで、今も現役で使われています。

横須賀市の解説板「今も残る『横須賀製鉄所』のドライドック」(現地の写真から書き起こし)
ドライドックの解説板と、ルートミュージアムの案内板
ドライドックの解説板と、ルートミュージアムの案内板

対岸に見える3基の石造ドライドックは、1865年の横須賀製鉄所起工の際に建造されたもので、右の第1号ドックは、1871年に完成したわが国最古のドックです。

近代的国家の建設を目指した明治日本の海運や海軍の発展に大きく寄与しました。

ドライドック(旧横須賀製鉄所)は、ルートミュージアムのサテライト施設でもあります。

ルートミュージアムの案内板「ドライドック(旧横須賀製鉄所)」(現地の写真から書き起こし)

ドライドックは日本遺産の構成文化財にもなっています。

小栗広場—小栗上野介とヴェルニーの説明板

海沿いをさらに進むと、生け垣に囲まれた「小栗広場」に、小栗上野介忠順とヴェルニーの胸像が並んでいます。それぞれの胸像の横に、日本語・英語・フランス語の説明板が立っています。

小栗上野介忠順の胸像
小栗上野介忠順の胸像

小栗上野介忠順(1827〜1868)

小栗の説明板(日本語部分)の全文です。

日本初の遣米使節をつとめ、外国奉行や勘定奉行など徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもと横須賀製鉄所(造船所)建設を推進した。軍政の改革、フランス語学校の設立など日本の近代化に大きく貢献したが、大政奉還後に徹底抗戦を主張したため役職を解かれ、領地の上野国権田村(群馬県倉渕村)で官軍により斬首された。

小栗上野介忠順の説明板(現地の写真から書き起こし)
小栗上野介の説明板
小栗上野介の説明板

説明板の上には「AR歴史マンガ」の案内があり、QRコードとマーカーをスマートフォンで読み込むと、漫画でエピソードが見られます。小栗の説明板の番号は「8」で、エピソードは「ショック!どうする日本」と「一本のネジに賭ける夢」の二つ。ネジは、万延元年遣米使節でアメリカに渡った小栗が、造船所でネジを見て持ち帰ったという話にちなむものでしょう。

説明板の「群馬県倉渕村」は、いまは合併して群馬県高崎市倉渕町になっています。小栗が斬られた水沼河原は小栗上野介の終焉の地・水沼河原で紹介しています。

フランソワ・レオンス・ヴェルニー(1837〜1908)

ヴェルニーの胸像
ヴェルニーの胸像

ヴェルニーの説明板(番号は「9」、エピソードは「若き技術者の奮闘」と「人材・機材はこうして選べ!」)の日本語部分の全文です。

フランス人の造船技師で、海軍増強をめざした徳川幕府の要請により横須賀製鉄所(造船所)建設の責任者として1865年来日した。明治維新後も引き続きその建設と運営の任にあたり、観音埼灯台や走水の水道の建設、レンガの製造のほか、製鉄所内に技術学校を設けて日本人技術者の養成に努めるなど、造船以外の分野でも広く活躍し1876年帰国した。

ヴェルニーの説明板(現地の写真から書き起こし)

二つの説明板を並べて読むと、二人の違いがはっきりします。小栗は明治を見ることなく斬られ、ヴェルニーは明治になってもこの町に残って仕事を続けました。小栗が始めた仕事を、ヴェルニーが最後まで見届けたことになります。

胸像のそばには、小栗が斬られた烏川の水沼河原の石が置かれ、「記念石」の説明板が立っています。

小栗公が斬首された上野国権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町、旧倉渕村)の烏川水沼河原の石。昭和27年に第1回開港祭及び小栗上野介、ヴェルニー胸像の除幕式が当公園で開催され、それを機会に、昭和28年、倉渕村(当時)から寄贈された。

「記念石」の説明板(現地の写真から書き起こし)

逸見波止場衛門—横須賀軍港の正門

駅に近づくと、レンガ色のタイルを張った小さな塔が2棟、向かい合って立っています。「逸見波止場衛門(へみはとばえいもん)」です。

逸見波止場衛門
逸見波止場衛門

横の案内板の全文です。

通称 逸見波止場衛門は1930年頃に造られ、正式名称は「海軍番兵塔・軍港正門門柱」と言い、横須賀軍港の正門でした。2棟ある塔の屋根は銅板のドーム状で、頂上の飾り(クーポラ)や庇の形状から少年の帽子が連想されます。当時は、この門を入ると、正面に、海軍鎮守府や海軍工廠のある横須賀軍港に向かうための船着き場があり、横須賀軍港への船が発着していました。門には番人がおり、関係者以外が入らないよう見張っていたと思われます。海軍鎮守府や海軍工廠は、現在、この門のあるヴェルニー公園の対岸にみえる在日米海軍横須賀基地に置かれていました。

逸見波止場衛門は、日本遺産構成文化財の一つとして認定されており、海軍の歴史と面影を今に伝えてくれます。

逸見波止場衛門は、ルートミュージアムのサテライト施設でもあります。

ルートミュージアムの案内板「逸見波止場衛門」(現地の写真から書き起こし)
逸見波止場衛門の案内板
逸見波止場衛門の案内板

小栗の時代の製鉄所が、明治以降に鎮守府と海軍工廠の町になっていった。その入口を守っていたのが、この小さな門でした。

戦艦陸奥の主砲と主砲弾

公園の駅側の端、ヴェルニー記念館の前に、戦艦「陸奥」の主砲が横たわっています。主砲の横には「戦艦陸奥主砲」と大きく刻んだ石の台があり、青い解説パネルが5枚はめ込まれています。

「戦艦陸奥主砲」の石の台と解説パネル、ルートミュージアムの案内板
「戦艦陸奥主砲」の石の台と解説パネル、ルートミュージアムの案内板

ルートミュージアムの案内板「戦艦陸奥の主砲」

戦艦陸奥は1921年に横須賀海軍工廠で建造されました。完成当時は世界7大戦艦に数えられ、戦艦長門とともに連合艦隊の旗艦として活躍しました。その主砲は41センチ連装砲4基で、射程距離は、現在設置されているヴェルニー公園から羽田空港あたりまで届くとも言われています。

戦艦陸奥の主砲は、ルートミュージアムのサテライト施設でもあります。

ルートミュージアムの案内板「戦艦陸奥の主砲」(現地の写真から書き起こし)

解説パネル「戦艦 陸奥 主砲」

戦艦「陸奥」は、世界初の16インチ砲を搭載した戦艦「長門」型の2番艦として、大正10年(1921年)に横須賀製鉄所(造船所)を前身とした横須賀海軍工廠で竣工しました。連合艦隊旗艦の任にありましたが、昭和18年(1943年)瀬戸内海の柱島沖で火薬庫が爆発し、沈没しました。

本主砲は昭和45年(1970年)戦艦「陸奥」引揚げ時に回収されたもので、その後、昭和49年(1974年)から東京の「船の科学館」に展示されていました。

この主砲の移設が必要になり、横須賀での戦艦「陸奥」大改装80周年に合わせた「陸奥の会」の働きかけにより、ゆかりのある横須賀市に「船の科学館」から無償譲渡され、横須賀市民を始めとする多くの方々の支援により、平成28年(2016年)この地に移設されました。

解説パネル「戦艦 陸奥 主砲」(現地の写真から書き起こし)

解説パネル「主砲はハイテクの塊」

戦艦「陸奥」主砲の砲身は4層からなっており、1層目の内筒を、2層目の内筒に埋め込み、(不明)をします。その外側の3層目はワイヤーで巻いたワイヤー層となります。そして4層目に砲尾外筒と砲口外筒を装着しています。

いわば「江戸の刀鍛冶等の匠のノウハウと西洋の技術の融合」であり、このような横須賀製鉄所(造船所)によって育まれた技術は戦後の日本の近代産業を支えてきました。

解説パネル「主砲はハイテクの塊」(現地の写真から書き起こし)

小栗が始めた製鉄所の技術が、半世紀あまりで世界有数の戦艦の主砲を造るまでになり、さらに戦後の産業にまで続いていった。パネルはそう伝えています。

戦艦「陸奥」主砲弾

戦艦陸奥の主砲と主砲弾
戦艦陸奥の主砲と主砲弾

主砲の手前には、主砲弾も置かれています。解説板の全文です。

本砲弾は「長門」型戦艦の主砲で用いられた砲弾で、九一式(昭和5年制式化)もしくは改修された一式徹甲弾です。

全長:1738.5mm(弾底から風帽先端まで)

重量:1020kg(風帽を含む)

最大弾体径:409.0mm

炸薬量:14.9kg

●一般的徹甲弾とは

砲弾の重量及び発射速度による運動エネルギーにより相手の装甲を貫通した後、遅延信管が作動して内部を破壊するようになっています。

●陸奥主砲と本徹甲弾

本徹甲弾は、風帽・被帽頭・弾体等で構成され、発射に用いられる装薬は通常4個の薬嚢で構成され合計量は約220kgです。

●本徹甲弾の特徴

浅い角度で海面に突入するように発射された本徹甲弾は、頭部が外れ、その後弾体(平頭弾)が水中を直進。水線下の船体に被害を与えます。

解説板「戦艦『陸奥』主砲弾」(現地の写真から書き起こし)

下の銘板には、移設に協賛した企業・団体・個人の名前が並んでいます。

「戦艦『陸奥』主砲弾」の解説板
「戦艦『陸奥』主砲弾」の解説板

主砲のそばには「鎮魂」と刻まれた碑が立っています(記事の最初の写真)。

ヴェルニー記念館の案内板

公園の駅側の端にあるヴェルニー記念館の入口にも、案内板があります。

横須賀製鉄所(造船所)建設を指揮し、日本近代工業化の基礎をつくりあげたフランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの功績と横須賀製鉄所の意義を永く後世に伝えるために、建てられました。

横須賀製鉄所で使われていた「スチームハンマー(国指定重要文化財)」なども展示しています。

ヴェルニーは、来日前フランス・ブルターニュ地方のブレスト市(横須賀市姉妹都市)にある海軍施設の造船技師でした。

ヴェルニー記念館の建物は、ブルターニュ地方の住宅の特徴をとり入れています。

利用案内 入館料:無料 開館:午前9時〜午後4時

ヴェルニー記念館の案内板(現地の写真から書き起こし)
ヴェルニー記念館の案内板
ヴェルニー記念館の案内板

館内のスチームハンマーについては生誕地と横須賀の記事で紹介しています。

碑と案内板を読み終えて

ヴェルニー公園の碑と案内板を端から端まで読むと、そのほとんどが、どこかで横須賀製鉄所につながっていることに気づきます。海軍の碑は黒船と幕府の製鉄所から書き起こされ、ティボディエ邸の案内板は小栗上野介の名から始まり、陸奥の主砲のパネルは製鉄所で育まれた技術が戦後の産業を支えたと結んでいました。

一方で、長門・沖島・山城の碑や「鎮魂」の碑は、その製鉄所から始まった海軍が、最後は多くの命とともに海に沈んでいったことも伝えています。沖島の碑の「再び いくさあらすなと ねがうものなり」という言葉は、その両方を見てきた人たちの言葉なのだと思います。

「逆賊」として斬られた小栗の仕事は、この町では最初から「始まり」として刻まれ続けてきました。胸像だけを見て帰らずに、ぜひ碑や案内板も一つずつ読んでみてください。

場所・アクセス

  • 場所:神奈川県横須賀市汐入町1丁目(ヴェルニー公園)
  • 入園:無料。碑と案内板はいつでも見られます
  • 最寄り駅:JR横須賀駅からすぐ。京急の汐入駅から徒歩5分ほど
  • 駐車場:公園の横のヴェルニー公園駐車場は台数が少なめ。私は隣の商業施設「コースカ ベイサイド ストアーズ」の駐車場に停めました
  • 所要時間:碑と案内板を読みながら歩くと1時間ほど
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