肥田浜五郎は、咸臨丸の機関を預かって太平洋を渡った幕臣です。伊豆に生まれ、江川太郎左衛門の韮山代官所に出仕し、長崎で蒸気機関を学びました。明治には横須賀造船所長、海軍機関総監。幕末から明治にかけて、日本の船の機関をずっと見続けた人です。
伊豆に生まれ、韮山代官所に出仕しました

文政十三年の生まれです。この年の十二月に天保へ改元されるので、国立公文書館アジア歴史資料センターは「天保元年生」と書いています。一月二十八日の生まれとされるので、和暦としては文政十三年が正確です。
出身は伊豆国。アジア歴史資料センターは「伊豆国出身」とだけ記し、辞典は「伊豆賀茂郡」としています。賀茂郡は下田や南伊豆を含む広い範囲で、どの町かまでは確かめられませんでした。
江戸で蘭学を学び、のちに韮山代官・江川家に出仕します。反射炉で知られる、あの江川家です。
安政三年、長崎で蒸気機関を学びました
安政三年、長崎海軍伝習で蒸気機関を学びます。
長崎に集まった伝習生のなかで、肥田が選んだのは航海でも砲術でもなく機関でした。船を動かす側ではなく、船を走らせる仕掛けのほうです。この選択が、その後の四十年を決めました。
★万延元年、咸臨丸で太平洋を渡りました

万延元年、軍艦操練教授方出役となり、遣米使節に随行して咸臨丸に乗り組みます。
役職の呼び名は資料で違います。アジア歴史資料センターは「機関長」、辞典は「蒸気方士官」。当時の正式な役名は蒸気方の系統だったと思われますが、どちらが正しいと断じる資料は見つけられませんでした。
いずれにせよ、嵐の太平洋で機関を回し続けたのがこの人です。勝海舟は船酔いで寝込んでいたと伝わります。機関室には寝込む余地がありません。
咸臨丸をめぐる人については「小野友五郎とは何をした人物か」もあわせてどうぞ。
幕末の終わりまで、船を造る側にいました
文久二年、幕命により軍艦の建造に従事します。慶応四年には静岡海軍学校の頭。幕府が倒れたあと、徳川家とともに静岡へ移った人たちの学校です。
横須賀では—小栗との時期は、ずれています

明治三年、横須賀製鉄所に勤務します。明治九年には横須賀造船所長兼主船局長。
ここで気をつけたいことがあります。アジア歴史資料センターの横須賀造船所の解説は、歴代の首長として肥田浜五郎・小栗忠順・恒川柳作の名を並べています。そのため肥田が小栗の下で働いたように読めてしまうのですが、肥田の横須賀勤務は明治三年以降で、小栗が主導した慶応元年の製鉄所創設期とは時期がずれます。二人の協働を示す記述は見つかりませんでした。
フランスの技師ヴェルニーについても同じです。同じ造船所に名を連ねてはいますが、関係を説明した公的な記述はありません。横須賀そのものについては「横須賀製鉄所とは—小栗忠順とヴェルニーが作り、いまも動いている」と「ヴェルニーとは何をした人物か」で扱っています。
岩倉使節団にも加わりました
明治四年、工部少丞、造船頭兼製作頭となり、工部理事官として岩倉使節団に随行しています。明治六年に工部大丞、海軍大丞兼主船頭。明治十五年に海軍機関総監、明治十七年に海軍機技総監。明治十八年には御料局長官兼内匠頭。
第十五国立銀行と日本鉄道会社の設立にも関わりました。船の機関から始まって、国の機構のほうへ移っていった後半生です。
書画の人としても知られていたらしく、明治期の書画番付に四十回を超えて名が載っています。
明治二十二年、鉄道事故で亡くなりました
アジア歴史資料センターは「1889年鉄道事故により死去」とだけ書いています。辞典は明治二十二年四月二十八日、六十歳としています。
どこでどういう事故だったのかは、公的な資料で確かめられませんでした。日本鉄道会社の設立に関わった人が鉄道事故で亡くなったという符合に、つい話を足したくなりますが、根拠がないのでここで止めておきます。
墓所も顕彰碑も、公的機関の資料では見つけられませんでした。
あわせて読みたい
- 小野友五郎とは何をした人物か—咸臨丸の測量方、千代田形、甲鉄
- 横須賀製鉄所とは—小栗忠順とヴェルニーが作り、いまも動いている
- ヴェルニーとは何をした人物か—横須賀に造船所と灯台と水道を残した
- 矢田堀景蔵とは何をした人物か—榎本武揚を育て、艦隊を引き渡す側に立った幕府海軍の最後の総裁
- 観光丸【江戸幕府 スクーナー級コルベット 幕末軍艦】
参考にした資料
- 国立公文書館アジア歴史資料センター「肥田濱五郎」「横須賀造船所」
- デジタル版日本人名大辞典(肥田浜五郎)
- 外務省「万延元年遣米使節」資料解説
- 東京文化財研究所アーカイブ(書画番付への掲載記録)


